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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第5章 雨巫女さまと、秘密の気持ち。
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第26話 雨巫女さまの、知らないこと。

 翌日の午前、神社の境内はもう暑かった。

 今日も日差しが強い。

 木々の影は濃く、石畳の上にまだらに落ちていた。

 社務所の前では、大人たちが祭り用の机を運んでいる。

 境内は祭りへ向かって動き始めていた。


「こっち」


 チハルはいつもの調子で手を振った。

 片手にはバインダーを抱えている。

 今日も祭り準備に混ざる格好だった。

 水色のTシャツの袖を肘の手前までまくり、腰には薄いタオルを引っかけている。

 まひるは、生成りの半袖シャツに紺色のキュロットを合わせていた。

 神社の倉庫に入るかもしれないと聞いて、足元はサンダルではなくスニーカー。

 肩から下げた小さなバッグだけが、ほんのりと島の子より観光客に寄っている。


「おはよう、チハルちゃん」

「おはよ。あとは秋ちゃんか」


 チハルが答えたところで、社務所の方から秋雨(あきさめ)が走ってきた。

 白いシャツに薄い羽織りものを合わせている。


「遅くなってごめん、待ってたよね」

「大丈夫。秋ちゃんの待ち合わせ時間は一時間早くしてある」

「うそ!?」

「うそだよ。時間ピッタリでえらいえらい」

「もう!」


 チハルは軽く笑って、すぐにバインダーを開いた。

 まひるは、昨日の短いメッセージを思い出した。

 詳しいことは会ってからね。

 その言葉の通り、初めて具体的な説明が出てくる。


「今日は祭具倉庫を見るよ。建前は、祭り前の道具確認。古い箱の中身と傷み具合を見るってことで話は通ってるから」

「許可取ってくれたんだ」

「うん。勝手に入るより、その方がいいでしょ」


 チハルは当然みたいに言った。

 けれど、その当然の中にいくつもの手順が挟まっていることを、まひるはもう知っていた。

 誰に何を言うか。

 どこに何を残すか。

 チハルは、そこまで考えて動いている。


「でも、全部は見られないと思ってね。あくまで祭具の確認。変に長居すると怪しまれるから」


 チハルは話しながら、社務所の方へ歩き出した。

 まひると秋雨も、その後に続く。


「あと、何か見つけても、その場で騒がないでね」

「わかった」

「秋ちゃん、ネズミとかいてもびっくりしないでよ」

「それは私よりまひるちゃんの方じゃない?」

「ネズミ出るの!?」


 まひるの顔が青ざめる。


「さあ、タヌキなら前にいたけど……」

「タヌキならびっくりしないかも」

「じゃあタヌキだけだといいね」


 祭具倉庫は、社務所の裏手にあった。

 境内の賑やかさから外れた場所に、小さな建物がある。

 木の扉は古く、金具のあたりが黒ずんでいた。


 チハルが鍵を差し込む。

 かちり、と乾いた音がした。


 扉を開けると、こもった空気が流れてきた。

 木と埃と、古い紙の匂い。

 中には、太鼓の台や提灯の箱、布で包まれた道具が並んでいる。

 棚の上には木箱が高く積まれ、床の隅には縄が巻かれていた。


「うわ、すごい、高い。これ全部使うの?」

「ほとんど使わない。置き場所なくて積み上げてるだけだよ」

「チハル、失礼だよ」

「秋ちゃんも毎年『また増えてる』って思ってるでしょ」

「……思ってる」

「毎年同じやつ使ってるはずなのに、なんで増えていくんだろうね」


 秋雨が認めると、チハルは満足そうに笑った。

 それから、手元の紙に目を落とす。


「見たいのはこの山じゃなくて、奥の棚。そこに古い祭具の箱があるんだよね」


 チハルは道具の間を迷わず進んだ。

 まひると秋雨は、その後ろをついていく。


「あたしも見るのは今年が初めてなんだ」

「大事なやつなの?」

「ううん、逆。祭りに直接使わないから。壊れてても困らないし、誰も優先して見ない」


 細い通路を抜けると、倉庫の奥に低い棚があった。

 木箱がいくつも積まれている。

 蓋の表面には、墨で何かが書かれていた。

 かすれて読めないものも多い。


「このへんかな」


 チハルはしゃがみこみ、札を一つずつ確かめる。

 普段から道具を扱っている、手慣れた動きだった。

 まひるはチハルの手際のよさに感心する。


「チハルちゃんって、なんていうか色々と詳しいんだね」

「詳しいってほどじゃないよ。昔から神社にいたから、場所を覚えてるだけ」

「昔から?」

「うん。秋ちゃんと一緒にね」


 チハルはさらっと言った。

 秋雨の横顔が縦に揺れた。

 まひるは二人を見比べる。


「二人とも、小さい頃から神社に来てたの?」

「来てたよ。雨巫女さま候補だったから」


 チハルは木箱の蓋を押さえたまま言った。

 まひるは一瞬、言葉の意味を取り損ねた。


「……候補?」

「うん。あたしも、秋ちゃんも」


 三人がいる倉庫の奥。ここだけ、外の声が遠くなった。

 祭り準備の音があったはずなのに、この一間だけ空気が変わった。


「チハルちゃんも、雨巫女に?」

「候補ね。雨巫女さまになったわけじゃないよ」


 チハルは蓋を開けた。

 中には、白い布に包まれた小さな木の器が入っている。

 それを取り出して、回して見てから戻す。そっと蓋を閉じた。


「雨巫女さまって、最初から誰か一人に決まってるわけじゃないんだ。島の子どもは、小さい頃に一度は候補として見られる」

「みんな?」

「うん。だいたい四歳から六歳くらいの子かな」

「結構多いんだね」

「まひるちゃんの感覚だとそうかもね。でも、この島、子ども少ないから。男女合わせても三十人いないよ」

「男の子も?」

「一応ね。雨巫女さまって、島では役目の名前だから。でも、男の子が選ばれることは、ほとんどなかったみたい」

「そうなんだ」

「うん。だから、あたしたちの世代は秋ちゃんとあたしとあと四、五人ぐらいいたかな。あんまり覚えてないけど」


 チハルの声はいつも通りだった。

 けれど、その顔は笑ってはいなかった。

 ただ、怒っているわけでもないとまひるは思った。


「秋雨ちゃんが選ばれたのって、どういう感じだったの?」


 だから、まひるはそれを聞いてしまった。

 瞬間、こぼした言葉を戻したくなった。

 踏み込みすぎたかもしれない。


 でも、チハルは怒らなかった。

 秋雨も、止めなかった。


「その時は、雨が降る前だった」


 チハルは奥の箱を一つずらしながら言った。


「別に、悲しいことがあったわけじゃない。感動するようなことがあったわけでもない。なのに、秋ちゃんがぽろぽろと急に泣き始めて」

「私も、よく分からなかったの」


 秋雨が小さく言った。

 その声は、倉庫の埃の中に落ちるみたいだった。


「ただ、変な感じがして。涙が出て、それで」


 秋雨は言葉を切った。

 チハルが、その続きを引き取る。


「秋ちゃんが言ったの。『ねぇ、雨が降るよ』って」


 まひるの指が、木箱の縁から浮いた。

 まひるは顔を上げて、チハルと秋雨を見る。

 二人とも、下を向いて作業を続けていた。

 まひるが思っているよりも、いつも通りの姿だった。


「そしたら、本当に降った。さっきまで晴れてたから、みんなすっごい慌ててたんだよね」

「先代の雨巫女の力が弱くなってた時期だったから、すぐ分かった大人もいたのかも」

「それで、秋雨ちゃんに決まったの?」

(わたし)的には決まったというか、なってたというか」

「その時を区切りに、秋ちゃんが当代の雨巫女さまに選ばれたんだよ」


 秋雨の中ではまだ腑に落ちていないのか、少し疑問を持った声だった。

 けれど、チハルの声は穏やかだった。

 穏やかすぎて、まひるは何も言えなかった。


「でもね、チハルはそばにいてくれたの」


 秋雨が言った。


「あのときの私は、何が起きたのか分からなくて、そのまま泣いてたんだ」

「秋ちゃんが固まってたから、あたしが事情のわかる大人を呼んだだけだよ」

「でも、昔から雨巫女のことならチハルの方が詳しかったから」

「詳しいっていうか、秋ちゃんが無頓着すぎるっていうか」

「でも、助かったのは本当だよ。今でも覚えてる」

「はいはい。そういうのはいいから、今は手を動かす」


 チハルはいつもの調子に戻して、次の箱へ手を伸ばした。

 けれど、箱の角にかかった指は、すぐには動かなかった。

 まひるはその指を見て、言いかけたことを飲み込んだ。


 ――チハルちゃんも、雨巫女さま候補だったんだ。


 その言葉が、倉庫の埃の匂いの中で、まだ消えずに残っていた。


「これ、違う。これも違う。これは……供物台かな」


 チハルはテンポよく、一つずつ確認していく。

 まひるも箱を開き、中に入っていた札の文字を追っていく。

 なんとか読めるものもあれば、もう擦り切れて読めないものもある。

 秋雨は、布に包まれた道具を丁寧に戻していた。


「あ、これ」


 秋雨が言った。

 棚の下段、奥に押し込まれていた薄い箱だった。

 蓋に貼られた紙には、かすれた墨で「雨」とだけ読める。


 チハルが動きを止めた。


「それ、出せる?」

「うん」


 秋雨は手を伸ばし、箱を引き出した。

 蓋を開けると、中には黄ばんだ紙の束が入っていた。

 端は茶色く変色している。

 紐でゆるくまとめられていて、紙同士がくっつきそうになっていた。

 まひるが手を伸ばそうとした時、チハルの声が低くなった。


「待って」

「あ、ごめん。大事なやつだったかな」

「ううん。単純に、こういう古びた紙って破けやすいから」


 まひるは引っ込めた指を、膝の上で軽く握った。

 チハルは一番上の紙だけを、爪を立てないように端からめくった。


「これ……」


 文字は古かった。

 まひるにはほとんど読めない。

 けれど、ところどころに絵がある。

 海。雨。白い服を着た人。

 その人が、手元から何かを海へ落としている。


 秋雨の喉がかすれた。

 チハルは紙の端を押さえたまま、かすれた文字を一つずつ追った。


「全部は読めないね。でも、ここ」


 チハルは指で文字を追った。

 声に出す前に、一度だけ喉を鳴らす。


「雨巫女が島の意志を知り、涙を海へ返す時、雨は霧散するだろう」


 倉庫の中が静かになった。

 外では誰かが笑っている。

 境内では祭りの準備が続いている。

 でも、まひるの耳には、その声はもう入ってこなかった。


「涙を、海へ返す」


 秋雨がつぶやいた。


「島の意志って、なに?」


 まひるが聞くと、チハルは首を横に振った。


「分かんない。雨は霧散するっていうのも、ただ雨が止むにしては変だし、全然別の意味なのかも……分かんない」


 チハルは紙を見たまま言った。


「でも、これ。たぶん、ただの祭り道具の記録じゃない。少なくとも、あたしはこんなの見たことも聞いたこともない」


 まひるは紙に残った絵を見つめた。

 海へ落とすもの。雨の線。白い服の人。

 それが何を意味するのかは、まだ三人には分からない。


「これ、どうするの?」


 まひるが聞くと、チハルはゆっくり蓋を閉めた。


「今は持ち出さない。写真も撮らない」


 チハルの声は、さっきまでの祭具確認の声ではなかった。


「でも」

「見つけたことを、誰にどう言うか考えよう。悔しいけど、今のあたし達じゃ辿り着けないよ」

「私もその方がいいと思う。これは……」


 秋雨はそこで言葉を切った。

 まひるは納得し、チハルは箱を元の位置へ戻した。

 その手つきは丁寧だった。

 けれど、指先には力が入っている。


「今日はここまでにしとこう。結構時間経ってるから、そろそろタイムリミット」


 まひると秋雨は頷いた。

 ただ、秋雨の視線はまだ、閉じられた箱から離れなかった。


 ――島の意志。涙を海へ返す。雨は霧散する。


 まひるは、どれも意味を理解できなかった。

 それでも、まひるはその言葉を胸に刻んでいた。

 晴れた日の倉庫の奥で見つけた紙は、静かなまま、まひるたちの知らなかった雨巫女の形を残していた。

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