第26話 雨巫女さまの、知らないこと。
翌日の午前、神社の境内はもう暑かった。
今日も日差しが強い。
木々の影は濃く、石畳の上にまだらに落ちていた。
社務所の前では、大人たちが祭り用の机を運んでいる。
境内は祭りへ向かって動き始めていた。
「こっち」
チハルはいつもの調子で手を振った。
片手にはバインダーを抱えている。
今日も祭り準備に混ざる格好だった。
水色のTシャツの袖を肘の手前までまくり、腰には薄いタオルを引っかけている。
まひるは、生成りの半袖シャツに紺色のキュロットを合わせていた。
神社の倉庫に入るかもしれないと聞いて、足元はサンダルではなくスニーカー。
肩から下げた小さなバッグだけが、ほんのりと島の子より観光客に寄っている。
「おはよう、チハルちゃん」
「おはよ。あとは秋ちゃんか」
チハルが答えたところで、社務所の方から秋雨が走ってきた。
白いシャツに薄い羽織りものを合わせている。
「遅くなってごめん、待ってたよね」
「大丈夫。秋ちゃんの待ち合わせ時間は一時間早くしてある」
「うそ!?」
「うそだよ。時間ピッタリでえらいえらい」
「もう!」
チハルは軽く笑って、すぐにバインダーを開いた。
まひるは、昨日の短いメッセージを思い出した。
詳しいことは会ってからね。
その言葉の通り、初めて具体的な説明が出てくる。
「今日は祭具倉庫を見るよ。建前は、祭り前の道具確認。古い箱の中身と傷み具合を見るってことで話は通ってるから」
「許可取ってくれたんだ」
「うん。勝手に入るより、その方がいいでしょ」
チハルは当然みたいに言った。
けれど、その当然の中にいくつもの手順が挟まっていることを、まひるはもう知っていた。
誰に何を言うか。
どこに何を残すか。
チハルは、そこまで考えて動いている。
「でも、全部は見られないと思ってね。あくまで祭具の確認。変に長居すると怪しまれるから」
チハルは話しながら、社務所の方へ歩き出した。
まひると秋雨も、その後に続く。
「あと、何か見つけても、その場で騒がないでね」
「わかった」
「秋ちゃん、ネズミとかいてもびっくりしないでよ」
「それは私よりまひるちゃんの方じゃない?」
「ネズミ出るの!?」
まひるの顔が青ざめる。
「さあ、タヌキなら前にいたけど……」
「タヌキならびっくりしないかも」
「じゃあタヌキだけだといいね」
祭具倉庫は、社務所の裏手にあった。
境内の賑やかさから外れた場所に、小さな建物がある。
木の扉は古く、金具のあたりが黒ずんでいた。
チハルが鍵を差し込む。
かちり、と乾いた音がした。
扉を開けると、こもった空気が流れてきた。
木と埃と、古い紙の匂い。
中には、太鼓の台や提灯の箱、布で包まれた道具が並んでいる。
棚の上には木箱が高く積まれ、床の隅には縄が巻かれていた。
「うわ、すごい、高い。これ全部使うの?」
「ほとんど使わない。置き場所なくて積み上げてるだけだよ」
「チハル、失礼だよ」
「秋ちゃんも毎年『また増えてる』って思ってるでしょ」
「……思ってる」
「毎年同じやつ使ってるはずなのに、なんで増えていくんだろうね」
秋雨が認めると、チハルは満足そうに笑った。
それから、手元の紙に目を落とす。
「見たいのはこの山じゃなくて、奥の棚。そこに古い祭具の箱があるんだよね」
チハルは道具の間を迷わず進んだ。
まひると秋雨は、その後ろをついていく。
「あたしも見るのは今年が初めてなんだ」
「大事なやつなの?」
「ううん、逆。祭りに直接使わないから。壊れてても困らないし、誰も優先して見ない」
細い通路を抜けると、倉庫の奥に低い棚があった。
木箱がいくつも積まれている。
蓋の表面には、墨で何かが書かれていた。
かすれて読めないものも多い。
「このへんかな」
チハルはしゃがみこみ、札を一つずつ確かめる。
普段から道具を扱っている、手慣れた動きだった。
まひるはチハルの手際のよさに感心する。
「チハルちゃんって、なんていうか色々と詳しいんだね」
「詳しいってほどじゃないよ。昔から神社にいたから、場所を覚えてるだけ」
「昔から?」
「うん。秋ちゃんと一緒にね」
チハルはさらっと言った。
秋雨の横顔が縦に揺れた。
まひるは二人を見比べる。
「二人とも、小さい頃から神社に来てたの?」
「来てたよ。雨巫女さま候補だったから」
チハルは木箱の蓋を押さえたまま言った。
まひるは一瞬、言葉の意味を取り損ねた。
「……候補?」
「うん。あたしも、秋ちゃんも」
三人がいる倉庫の奥。ここだけ、外の声が遠くなった。
祭り準備の音があったはずなのに、この一間だけ空気が変わった。
「チハルちゃんも、雨巫女に?」
「候補ね。雨巫女さまになったわけじゃないよ」
チハルは蓋を開けた。
中には、白い布に包まれた小さな木の器が入っている。
それを取り出して、回して見てから戻す。そっと蓋を閉じた。
「雨巫女さまって、最初から誰か一人に決まってるわけじゃないんだ。島の子どもは、小さい頃に一度は候補として見られる」
「みんな?」
「うん。だいたい四歳から六歳くらいの子かな」
「結構多いんだね」
「まひるちゃんの感覚だとそうかもね。でも、この島、子ども少ないから。男女合わせても三十人いないよ」
「男の子も?」
「一応ね。雨巫女さまって、島では役目の名前だから。でも、男の子が選ばれることは、ほとんどなかったみたい」
「そうなんだ」
「うん。だから、あたしたちの世代は秋ちゃんとあたしとあと四、五人ぐらいいたかな。あんまり覚えてないけど」
チハルの声はいつも通りだった。
けれど、その顔は笑ってはいなかった。
ただ、怒っているわけでもないとまひるは思った。
「秋雨ちゃんが選ばれたのって、どういう感じだったの?」
だから、まひるはそれを聞いてしまった。
瞬間、こぼした言葉を戻したくなった。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも、チハルは怒らなかった。
秋雨も、止めなかった。
「その時は、雨が降る前だった」
チハルは奥の箱を一つずらしながら言った。
「別に、悲しいことがあったわけじゃない。感動するようなことがあったわけでもない。なのに、秋ちゃんがぽろぽろと急に泣き始めて」
「私も、よく分からなかったの」
秋雨が小さく言った。
その声は、倉庫の埃の中に落ちるみたいだった。
「ただ、変な感じがして。涙が出て、それで」
秋雨は言葉を切った。
チハルが、その続きを引き取る。
「秋ちゃんが言ったの。『ねぇ、雨が降るよ』って」
まひるの指が、木箱の縁から浮いた。
まひるは顔を上げて、チハルと秋雨を見る。
二人とも、下を向いて作業を続けていた。
まひるが思っているよりも、いつも通りの姿だった。
「そしたら、本当に降った。さっきまで晴れてたから、みんなすっごい慌ててたんだよね」
「先代の雨巫女の力が弱くなってた時期だったから、すぐ分かった大人もいたのかも」
「それで、秋雨ちゃんに決まったの?」
「私的には決まったというか、なってたというか」
「その時を区切りに、秋ちゃんが当代の雨巫女さまに選ばれたんだよ」
秋雨の中ではまだ腑に落ちていないのか、少し疑問を持った声だった。
けれど、チハルの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、まひるは何も言えなかった。
「でもね、チハルはそばにいてくれたの」
秋雨が言った。
「あのときの私は、何が起きたのか分からなくて、そのまま泣いてたんだ」
「秋ちゃんが固まってたから、あたしが事情のわかる大人を呼んだだけだよ」
「でも、昔から雨巫女のことならチハルの方が詳しかったから」
「詳しいっていうか、秋ちゃんが無頓着すぎるっていうか」
「でも、助かったのは本当だよ。今でも覚えてる」
「はいはい。そういうのはいいから、今は手を動かす」
チハルはいつもの調子に戻して、次の箱へ手を伸ばした。
けれど、箱の角にかかった指は、すぐには動かなかった。
まひるはその指を見て、言いかけたことを飲み込んだ。
――チハルちゃんも、雨巫女さま候補だったんだ。
その言葉が、倉庫の埃の匂いの中で、まだ消えずに残っていた。
「これ、違う。これも違う。これは……供物台かな」
チハルはテンポよく、一つずつ確認していく。
まひるも箱を開き、中に入っていた札の文字を追っていく。
なんとか読めるものもあれば、もう擦り切れて読めないものもある。
秋雨は、布に包まれた道具を丁寧に戻していた。
「あ、これ」
秋雨が言った。
棚の下段、奥に押し込まれていた薄い箱だった。
蓋に貼られた紙には、かすれた墨で「雨」とだけ読める。
チハルが動きを止めた。
「それ、出せる?」
「うん」
秋雨は手を伸ばし、箱を引き出した。
蓋を開けると、中には黄ばんだ紙の束が入っていた。
端は茶色く変色している。
紐でゆるくまとめられていて、紙同士がくっつきそうになっていた。
まひるが手を伸ばそうとした時、チハルの声が低くなった。
「待って」
「あ、ごめん。大事なやつだったかな」
「ううん。単純に、こういう古びた紙って破けやすいから」
まひるは引っ込めた指を、膝の上で軽く握った。
チハルは一番上の紙だけを、爪を立てないように端からめくった。
「これ……」
文字は古かった。
まひるにはほとんど読めない。
けれど、ところどころに絵がある。
海。雨。白い服を着た人。
その人が、手元から何かを海へ落としている。
秋雨の喉がかすれた。
チハルは紙の端を押さえたまま、かすれた文字を一つずつ追った。
「全部は読めないね。でも、ここ」
チハルは指で文字を追った。
声に出す前に、一度だけ喉を鳴らす。
「雨巫女が島の意志を知り、涙を海へ返す時、雨は霧散するだろう」
倉庫の中が静かになった。
外では誰かが笑っている。
境内では祭りの準備が続いている。
でも、まひるの耳には、その声はもう入ってこなかった。
「涙を、海へ返す」
秋雨がつぶやいた。
「島の意志って、なに?」
まひるが聞くと、チハルは首を横に振った。
「分かんない。雨は霧散するっていうのも、ただ雨が止むにしては変だし、全然別の意味なのかも……分かんない」
チハルは紙を見たまま言った。
「でも、これ。たぶん、ただの祭り道具の記録じゃない。少なくとも、あたしはこんなの見たことも聞いたこともない」
まひるは紙に残った絵を見つめた。
海へ落とすもの。雨の線。白い服の人。
それが何を意味するのかは、まだ三人には分からない。
「これ、どうするの?」
まひるが聞くと、チハルはゆっくり蓋を閉めた。
「今は持ち出さない。写真も撮らない」
チハルの声は、さっきまでの祭具確認の声ではなかった。
「でも」
「見つけたことを、誰にどう言うか考えよう。悔しいけど、今のあたし達じゃ辿り着けないよ」
「私もその方がいいと思う。これは……」
秋雨はそこで言葉を切った。
まひるは納得し、チハルは箱を元の位置へ戻した。
その手つきは丁寧だった。
けれど、指先には力が入っている。
「今日はここまでにしとこう。結構時間経ってるから、そろそろタイムリミット」
まひると秋雨は頷いた。
ただ、秋雨の視線はまだ、閉じられた箱から離れなかった。
――島の意志。涙を海へ返す。雨は霧散する。
まひるは、どれも意味を理解できなかった。
それでも、まひるはその言葉を胸に刻んでいた。
晴れた日の倉庫の奥で見つけた紙は、静かなまま、まひるたちの知らなかった雨巫女の形を残していた。




