第25話 雨巫女さまと、研究所のこと。
翌朝、まひるはいつもより早く目が覚めた。
宿の窓の外は、もう明るい。
海の方から白い光が差していて、カーテンの隙間に細い線を作っている。
布団の上でしばらく天井を見ていたけれど、眠気は戻ってこなかった。
まひるはスマホを取って、母にメッセージを送った。
朝のうちに、少し話せないか。
そう送ると、思ったよりすぐに返事が来た。
『朝食のあとなら時間が取れる』
まひるは布団から起き上がった。
まひるは宿のロビーの端で紗和を待った。
観光客用のパンフレットが並んだ棚の横に、小さなテーブルがある。
そこに座っていると、ほどなくして紗和が入ってきた。
薄いシャツに動きやすそうなパンツ姿で、肩には仕事用らしいバッグをかけている。
母というより、これから仕事に向かう大人の顔だった。
「おはよう、まひる。急にどうしたの?」
「おはよう、お母さん。えっと、聞きたいことがあって」
まひるはテーブルの上で両手を組んだ。
考えてきたはずなのに、いざ母を前にすると、言葉がすぐには出てこない。
秋雨のことを、勝手に大人の前へ差し出すみたいに感じて、少しだけ嫌だった。
「秋雨ちゃんのこと?」
紗和が先に言った。
まひるは顔を上げる。
「なんで分かったの」
「最近、まひるが真面目な顔で考えてる時は、だいたい秋雨ちゃんのことだから」
「そんなに?」
「そんなによ」
さらっと言われて、まひるは少しだけ口を尖らせた。
けれど、否定はできなかった。
「……実は、秋雨ちゃんを、長期休みにうちへ呼べないかなって思って」
まひるは、用意していた言葉を口にした。
「うちに?」
「うん。わたしの家に。秋雨ちゃん、島の外のことあんまり知らないし。わたしの町とか、学校の近くとか、本屋とか、見せてあげたいなって」
それは嘘ではなかった。
秋雨を家へ呼びたい。
自分の部屋に入れて、好きな本を見せたい。
秋雨が憧れている、普通の町を案内したい。
ちゃんと、本心だった。
ただ、その奥に別の問いもある。
雨巫女は、島を離れられるのか。
島の外に、長くいてもいいのか。
「それで、研究所にそういう記録がないかなって思ったの」
「記録?」
「昔の雨巫女さまが長期旅行したとか。もっと長く島を離れたことがあるかとか。そういうの」
紗和はすぐには答えなかった。
でも、いつもの母の顔から、仕事の顔になった。
「昔の資料なら、残っている可能性はあるけど……」
「やっぱり、すぐには無理?」
「ええ。まず、私は研究所の人間じゃないから」
紗和は、そこで一度言葉を区切った。
「まひる、私が特異現象保護官なのはわかるわよね?」
紗和は、まず肩書きだけを口にした。
まひるには聞き慣れた言葉だった。
けれど、こうして正面から説明されると、なんだか自分の知らない言葉に聞こえた。
だから、すんなりと「はい」って言えなかった。
「私は、特異な現象やそれに関わる人・文化を保護したり、必要な機関につないだりする立場なの」
紗和はテーブルの上で指を組んだ。
「だから、研究所に出入りすることはあるし、知り合いもいる。でも、研究員として資料を自由に見られるわけじゃない」
「じゃあ、頼むのは難しい?」
「難しくはあるわ。でも、聞き方を選べば確認はできる」
まひるは頷いた。
チハルも昨日、似たようなことを言っていた。
聞き方ひとつで、出てくるものが変わる。
神社でも、研究所でも、それは同じなのかもしれなかった。
「この島の研究所は、もともと雨巫女そのものを調べるところから始まったのよ」
紗和の声は落ち着いていた。
けれど、ただの説明ではなかった。
まひるが知らないこの島の古い層を、少しずつめくっていくような声だった。
「雨と涙の関係、島の伝承、過去の雨巫女の記録。そういうものが、古い資料として残っている可能性はあるわ」
「今も、それを調べてるの?」
「いいえ、昔の話よ」
紗和は首を横に振った。
「今は、この島の周りの海域にある特殊な水質の調査が主な目的。雨巫女の研究は、研究所の始まりに近いものとして残っているだけ」
まひるは頷いた。
雨巫女のことを調べたい。
そう思っていたのに、話は海の水へつながっていく。
島の雨も、海も、研究所も、別々のものではないのかもしれなかった。
「だから、雨巫女という言葉で探せばすぐ出る、とは限らない」
紗和はそこで一度、言葉を探すように目を伏せた。
「ただ、水質調査の古い記録、観測記録、聞き取りの記録。そういうものの端に、残っているかもしれない」
「探してもらうことは、できる?」
「できる範囲でなら」
紗和は、まひるをまっすぐ見た。
「急ぎの調査として大きく動かすと目立つから、まずは私から知り合いに確認してみるわ」
まひるは胸の奥で、少しだけ息を吐いた。
大きく動かさない。
その言葉がありがたかった。
「分かったら連絡する。でも、本当に期待しすぎないように」
「うん。ありがとう」
紗和が出ようとした時、まひるはようやく、当たり前のことに気づいた。
「お母さん、ごめん。あとひとつだけいい?」
「ひとつだけよ」
「ありがとう。あの、お母さんたちの方には、雨巫女さまの資料ってないの?」
「やっぱり、その話よね……まあ、あるにはあるわ」
紗和は否定しなかった。
ただ、すぐに頷きもしなかった。
「でも、私たちの側にあるのは、資料というより記録に近いものなの。現役の雨巫女に関する記録や、島との連絡、必要な支援、災害時の対応。そういうものが中心になる」
「えっと」
「少なくとも、まひるに見せられるものではないわ。秋雨ちゃんのもっと個人的な話も含まれるから」
まひるは口を閉じた。
それは、少し考えれば分かることだった。
秋雨のことを知りたいと思っているのに、秋雨を勝手に記録の中から覗くようなことはしたくなかった。
「昔の制度や儀式のことを調べたいなら、研究所に残っている古い資料か、神社側の記録を当たった方がいいわね」
「そっか、呼び止めてごめん。ありがとう」
「大丈夫よ。友達のためなんでしょう」
紗和はバッグを肩にかけ直し、宿を出ていった。
その背中を見送りながら、まひるはスマホを取り出した。
秋雨に、どう伝えよう。
母から聞いたことをそのまま送ればいいだけなのに、どこかに秋雨を傷つける言い方が混じりそうで怖かった。
結局、まひるは短く打った。
『研究所の資料、お母さんに聞いてみた。すぐには分からないけど、確認してくれるって』
少し迷ってから、もう一文だけ足す。
『まずは、お母さんが知り合いに聞いてくれるみたい』
送信しても、既読はすぐにはつかなかった。
秋雨とのやり取りは、いつもそうだった。
返事は遅い。文面は短い。
たまに、答えになっているようでなっていない。
この島へ来てから、大事な話はいつも、結局会ってすることになった。
秋雨が冷たいわけではない。
そういうやり取りが、得意ではないだけなのだと思う。
写真の送り方を聞いただけで、秋雨はスマホの画面をしばらく見つめていたこともあった。
困った顔で、何も言わずににらめっこしていた。
まひるはそれを思い出して、少しだけ笑った。
秋雨から返事が来たのは、昼前だった。
『ありがとう。まひるちゃん』
短い文だった。
でも、それだけで十分だった。
まひるは画面を見つめてから、スマホを伏せた。
午後になって、チハルからまひるにメッセージが届いた。
『明日の午前、神社に来られる?』
それだけだった。
昨日あれだけたくさんの候補を挙げていたのに、文面には神社という言葉しかない。
『行けるよ。秋雨ちゃんにも送った?』
まひるが返すと、少しして返信が来た。
『秋ちゃんには直接言う』
『詳しいことは会ってからね』
まひるは画面を見つめた。
神社の古い記録も、倉庫も、総代さんまわりも、前総代さまのことも。
チハルは、どれも文字には残していない。
その理由を、まひるは少し遅れて理解した。
誰に何を言うかだけではない。
どこに何を残すかも、考えなければいけないのだ。
『会ってからね、了解』
まひるが送ると、すぐに返事が来た。
『ん、ありがとう』
短いやり取りだった。
でも、その短さの中に、チハルが線を引いたことだけは伝わった。
まひるはスマホをしまって、窓の外を見た。
島の午後は明るい。
海は白く光っていて、遠くの空には薄い雲が流れている。
雨は降りそうになかった。
けれど、神社、研究所、総代、前総代さま。
いくつもの場所へ、細い糸が伸び始めていた。
その糸の先に何があるのかは、まだ分からない。
明日、まひるたちは神社に集まる。
チハルが作ってくれた道は、もう目の前にあった。




