第24話 雨巫女さまに、待ってもらうこと。
「……秋ちゃん、ちゃんと考えてるんだね」
声は、静かだった。
秋雨の肩が揺れた。
「……怒らないの?」
「怒るっていうか……あたしが怒ることじゃないでしょ」
「でも、チハルはいつも頑張ってくれてたし」
その言葉が、木陰に落ちた。
まひるは口を挟めなかった。
「いやだって、そもそも、あたしは雨巫女さまじゃないし」
チハルは笑っている。
でも、その笑い方は、踏み込んでもいい線を引いているようだった。
「秋ちゃんが決めることなら、あたしには止める権利ないよ」
「チハル」
秋雨が名前を呼んだ。
チハルはすぐに手を振った。首も横に振った。
「いや、変な意味じゃなくて。秋ちゃんの人生だしさ」
「それは、そうなんだけど」
「雨巫女さまって、島のものみたいに言われがちだけど、秋ちゃん自身のことでもあるでしょ」
秋雨の強張っていた表情が緩む。
「だから、知りたいってことだよね?」
チハルはそう言って、バインダーを開いた。
秋雨は頷いて応える。
「そういうことなら、見られそうな場所はいくつかあるよ」
チハルはバインダーから、祭りに使う神社の見取り図を見せてくれた。
「ここに神社の古い記録とか、祭りの道具を置いてる倉庫とかがある。あと、総代さんまわりの資料も、聞き方を考えれば少しは当たれるかも」
チハルはバインダーの余白に、指で見えない線を引くみたいに順番を作っていった。
「神社の記録は、たぶん古いだけで読めるものもあると思う。でも、しまってある場所がばらばらなんだよね。倉庫にあるものと、社務所に残ってるものと、総代さんの家に移ってるものがあるはず」
まひるは瞬きをした。
話が、急に動き出した。
さっきまで、秋雨の気持ちをチハルに伝えるだけで精いっぱいだった。
けれど、チハルの口から出てくる言葉は、もう場所と手順を持っていた。
「祭りの道具の倉庫は、あたしも今年から入れるようになったから見られると思う。ただ、勝手に漁ると怒られるから、祭り準備の確認って形にした方がいいかな」
「そんなことまで考えるんだ」
それはチハルらしい速さだった。
大事な話を受け取ったら、立ち止まらない。すぐに次の段取りへ移る。
まひるが言うと、チハルは当然みたいに頷いた。
「考えるよ。聞き方ひとつで、出てくるもの変わるから」
まひるが頷くより先に、チハルの指は次の項目を叩いていた。
「総代さんまわりは、ちょっと慎重にした方がいい。秋ちゃんが何を調べてるか、そのまま言うと話が大きくなるかもしれないし」
秋雨の指が、重ねた手の上で小さく動いた。
チハルはそれを見て、すぐに声を軽くする。
「だから、最初は昔の雨巫女の記録を探してる、くらいでいいと思う。聞かれても嘘はつかないけど、全部は言わない」
「……そういうの、チハルちゃん得意そう」
「得意っていうか、ここだと必要なんだよね。誰に何をどこまで言うかって」
チハルはそう言って、バインダーの紙を一枚めくった。
「あと、研究所に昔の資料もあるかもしれない。でも、あたしだとツテないんだよね」
チハルは一瞬だけ、考えるような素振りを見せた。
そして、すぐにまひるを見て言った。
「だから、研究所の資料は、まひるちゃんから紗和さん経由で聞くのが自然だと思う」
急に名前を出されて、まひるは背筋を伸ばした。
「お母さんに?」
「うん。まひるちゃんからなら聞きやすいでしょ。雨巫女さまの制度そのものっていうより、昔の記録とか、島に残ってる観測資料とか」
まひるは、チハルの指先を目で追うだけで精いっぱいだった。
さっきまで曖昧だった話に、場所と人の名前が次々に結びついていく。
「そういう聞き方なら、変に大ごとにはならないと思う」
「え、あ、うん。聞いてみる」
まひるは慌てて頷いた。
返事をしながら、頭の中で母の顔を思い浮かべる。
何と聞けばいいのか、すぐには分からなかった。
けれど、チハルはもう次の項目に目を移している。
「あとは……前総代さまも、昔のことはかなり知ってると思う。でも、すぐには難しいかも。会うなら段取りしたいし、秋ちゃんも――」
そこでチハルの言葉が止まった。
秋雨の表情が硬くなっていた。
まひるはその変化に気づいた。
前総代さま。
その名前に、秋雨は反応した。
好き嫌いというより、身体が先に身構えたみたいだった。
「まあ、そこは後で考えよ」
チハルは軽く言って、バインダーを閉じた。
「いきなり全部は無理。今は祭りの準備もあるし、そもそも誰に何を聞くか考えないとね。下手に聞いて、話が広がっちゃうとよくないし」
まひるが黙ると、チハルは肩をすくめた。
「雨巫女さまのことだからね。秋ちゃんが何か調べてるってだけで、気にする大人はいると思う」
チハルの声は軽かった。
けれど、まひるの手のひらに残っていた汗は引かなかった。
「だから、三日くらいちょうだい」
チハルは言った。
「調べられる場所と、聞けそうな人を整理する。祭りの準備のシフトも見とく。全部合わせて、秋ちゃんとまひるちゃんが動ける時間、作れると思う」
「チハルちゃん、そこまでしなくても」
まひるが言うと、チハルは不思議そうにこちらを見た。
「そこまでって?」
「いや、だって、チハルちゃんも忙しいでしょ」
「うんまあ忙しいっちゃあ忙しいけど、これくらいなら平気」
チハルはさらっと答えた。
「あたし、こういうの得意だから」
その声は明るかった。
まひるは頷きかけて、隣の秋雨が動かないことに気づいた。
チハルもそれに気づいたのか、すぐに笑った。
「そんな顔しないでよ、秋ちゃん。別に無理してないから」
「まだ何も言ってない」
「秋ちゃんは追いつけないとすぐ顔に出るよ」
チハルはそう言って、バインダーの角で軽く秋雨を指した。
秋雨は眉を寄せた。
そのやり取りは、幼なじみらしかった。
チハルは笑って、秋雨は困ったように受け止める。
まひるだけが、笑うタイミングを逃した。
「じゃ、今日のところはここまででいい?」
チハルが言った。
「そろそろ社務所に戻らないと。おじさんたち、放っておくと去年の配置で机並べようとするから」
「去年の配置だと駄目なの?」
まひるが聞くと、チハルは真顔になった。
「駄目。去年、風通し悪くて奥が暑かった」
「それは駄目だね」
「でしょ。今年は雨の降り方も読みにくいし、雨除けの位置も見直した方がいいんだよね」
チハルはそこでようやく、いつものように笑った。
秋雨の表情も緩む。
まひるはその笑顔を見た。
けれど、チハルの指はまだバインダーの角にかかったままだった。
「チハル」
秋雨が呼ぶと、チハルは振り返った。
「ありがとう」
短い言葉だった。
チハルは一度だけまばたきをして、それから軽く手を振った。
「まだ何もしてないよ。お礼は、何か見つかってからでいいからね」
そう言って、チハルは社務所の方へ戻っていった。
歩き方はいつも通りだった。
背筋が伸びていて、迷いがない。
途中で誰かに呼ばれると、すぐに返事をして、バインダーを開く。
もう次の段取りに入っている。
まひるはその背中を見送った。
秋雨も、黙って見ていた。
晴れた境内の中で、チハルの声が遠くから聞こえる。
明るくて、よく通る声だった。
「……怒られなかったね」
まひるが小さく言うと、秋雨はすぐには答えなかった。
少ししてから、ぽつりと言う。
「うん」
その返事は低く、そこで止まった。
まひるは秋雨の横顔を見た。
秋雨はチハルの背中を見たままだった。
その目は、さっきチハルが笑った場所から動かなかった。
「でも」
秋雨が言った。
「チハルは、何も言わなかった」
チハルはたくさん話した。
調べる場所も、必要な段取りも、三日ほど時間がいることも。
けれど、チハル自身がどう思ったのかは、ほとんど言わなかった。
「三日、か」
まひるは空を見上げた。
雲はゆっくり流れている。
雨は降りそうになかった。
それでも、チハルが残していった三日という言葉だけが、晴れた空の下で重く残っていた。




