第23話 雨巫女さまと、 。
その夜、パジャマ姿のまひるは、宿の窓を半分だけ開けていた。
海から吹いてくる風は、昼間より冷えていた。
潮の匂いが混じっていて、カーテンの端が揺れている。
スマホを耳に当てると、向こう側で紙の擦れる音がした。
「秋雨ちゃん、今なに見てるの?」
まひるが聞くと、秋雨は紙をめくってから答えた。
「祭りの予定表。チハルの空いてる時間、分かると思うから」
「そうなんだ」
口に出してから、まひるは窓の外へ視線を向けた。
宿の前の道は暗い。街灯の下でだけ、アスファルトが白く浮かんでいる。
島の夜は、まひるの町よりずっと静かだった。
「チハル、自分のスケジュールだけ詰めすぎなんだよね。祭りの準備も、神社の手伝いも」
「すごいね、チハルちゃん」
「すごいんだけど、ちょっと心配になるよ」
秋雨はすぐに答えた。
まひるは窓枠をなぞっていた指を止めた。
まひるの知らない予定表の中に、秋雨とチハルの時間が当たり前みたいに並んでいる。
それは、まひるがこの島に来る前からずっと積み重なってきたものだった。
「――うん。チハル、明日の午後なら余裕ありそう」
秋雨が言った。
「話すなら、その時かな」
「うん」
まひるは返事をして、窓枠から指を離した。
チハルに話す。
秋雨が、雨巫女を辞めたいかもしれないと思っていることを。
まだ決めたわけではないことを。
でも、方法があるなら知りたいと思っていることを。
「秋雨ちゃん」
「なに?」
「わたしが、切り出そうか」
まひるが言うと、電話の向こうで紙の音が止まった。
「まひるちゃんが?」
「うん。いきなり秋雨ちゃんが言うより、本屋の店主さんの時みたいに、わたしが先に切り出した方が話しやすいかなって」
「それは、うーん」
「それにほら、わたし、島の外の人だし。変なこと言ってもまあ許されそうだし」
「それは違うと思う。まひるちゃんはもう立派に島の人だよ」
秋雨の声は真面目だった。
まひるは肩をすくめる。
でも、すぐに、小さな鼻息みたいなものが聞こえる。
笑ったのだと、まひるはそれで分かった。
「でも、もしもの時はお願いしてもいい?」
秋雨は言葉を選ぶように続けた。
「私、本当は自分で言いたい。でも、最初の一言を出せる自信がないから……」
「うん。じゃあそうなったら、わたしが切り出すよ」
まひるは頷いた。
電話だから秋雨には見えていないけど、頷きたかった。
「でも、辞めたい気持ちがあることや私の思ってることは、私が言う。言わせてほしい」
秋雨の声は芯があった。
小さくても、逃げてはいなかった。
「わかった」
「明日、一緒に来てくれてありがとうね」
「友達だからね」
「うん、ありがとう」
夜風がカーテンを膨らませる。おやすみを告げて、電話を切る。
布の端がまひるの頬に触れて、まひるは窓を閉めた。
◆
翌日の午後、空は晴れていた。
白い雲が流れて、木々の影が石畳の上で揺れている。
神社の境内には祭りの準備の気配が増えていた。
倉庫の前には折りたたまれた机や木箱が積まれている。
社務所の軒先には、紐で束ねられた紙垂が置かれていた。
「まひるちゃん、こっち」
秋雨が手招きした。
秋雨は白いTシャツに、薄い水色の羽織もの。下は色の落ちたジーンズ。
雨巫女さまというより、休日に神社の手伝いへ来た同年代の子に見えた。
まひるは自分の服の裾を軽く引いた。
宿で選んできた薄い黄色のブラウスは、島の日差しの中では少しだけよそ行きに見える。
短めのパンツにスニーカーを合わせてきたのは正解だった。
境内の石畳は、晴れていても思ったより歩きにくい。
その先に、チハルがいた。
チハルは片手にバインダーを抱えて、もう片方の手でメモを確認している。
紺色のTシャツに動きやすそうな七分丈のパンツ、腰には薄いタオルを引っかけていた。
祭りの準備に混ざるための格好で、見た目だけなら一番忙しそうだった。
近くにいた大人に何かを聞かれ、顔を上げて答える。
答え終わると、すぐ次の紙へ目を移していた。
「チハル」
秋雨が声をかけると、チハルは顔を上げた。
そして、まひると秋雨を見比べる。
目が丸くなる。
「あれ」
「なに?」
秋雨が聞き返す。
チハルはバインダーを胸元に寄せて、にやっと笑った。
「いや。ちゃんと仲直りしたんだなって」
まひるは返事に詰まった。
秋雨も視線を横に逃がす。
その反応が並んだせいで、チハルの笑みが深くなった。
「え、なにその反応。分かりやす」
「別に、喧嘩してたわけじゃないし」
まひるが言うと、チハルは片眉を上げた。
「へえ。そういうことにしとく?」
「そういうことにしといて」
まひるの照れ隠しに、チハルは笑った。
その明るさを見て、まひるは一度だけ息を整える。
今日話すことは、その明るさに甘えていいものではなかったからだ。
「チハル、時間ある?」
秋雨が聞いた。
チハルはバインダーを開き、挟んである紙に目を落とす。
「このあと社務所に行くんだけど、今日はゆとりあるから、三十分ないぐらいなら時間取れるよ」
その返事は早かった。
いつものチハルだった。
だからこそ、これから言うことが重たく感じた。
「大事な話があるの」
まひるが言うと、チハルの表情から笑みが引いた。
相手の言葉を、きちんと受け取る顔になった。
「うん。三十分で足りる?」
「足りなかったら、また時間を作ってほしい」
チハルはバインダーを閉じた。
「わかった、いいよ。場所、変える?」
「お願い」
秋雨が答え、三人は境内の端へ移動した。
社務所から離れた、木陰になっている場所だった。
石段の横に低い石垣があり、その上に落ち葉が溜まっている。
祭り準備の声は聞こえるけれど、言葉までは届かない。
チハルは石垣に腰を預けた。
秋雨は立ったまま、手を前で重ねている。
まひるは二人の間に立ちかけて、足を止めた。
「チハルちゃん」
秋雨の隣で、まひるは息を吸った。
「わたしと秋雨ちゃん、調べたいことがあるの」
「調べたいこと?」
「雨巫女さまのこと」
チハルの目が、まひるから秋雨へ移った。
その動きは速かった。
秋雨は逃げなかった。ただ、重ねた手に力を入れた。
「秋雨ちゃんが、雨巫女さまのことを、ちゃんと知りたいって思ってる」
まひるは言葉の端を探しながら、チハルに伝えようとしていた。
どこまで言えばいいのか。どう言えば、秋雨の気持ちを勝手に決めつけずに済むのか。
「チハルちゃんにも、知っておいてほしいと思った」
「そうなんだ」
「う、うん」
「で、なんでそれをまひるちゃんが教えてくれるの?」
チハルの目線が鋭くなった。秋雨は小さく頷いた。
木陰に半歩入ったせいで、秋雨の頬だけ色が抜けて見えた。
それでも、重ねた手はほどかない。
視線も、チハルから外さなかった。
「チハル」
秋雨が口を開いた。
「私、雨巫女を辞めたい気持ちがある」
風が、木の葉を揺らした。
遠くで、誰かが荷物を置く音がした。
チハルは何も言わなかった。
まひるは、自分の手のひらが汗ばんでいることに気づいた。
「でも、辞めるって決めきれてるわけじゃない。方法があるのかも分からない」
秋雨は一つずつ、言葉を置くように続けた。
「中途半端なこと言ってるのは分かってる。ごめん」
チハルの指が、バインダーの角を押さえた。
表情は大きく変わっていない。
けれど、その指先だけが白くなっていた。
「ただ、もし方法があるなら、知りたい。知った上で、どうするか決めたい」
秋雨は頭を下げなかった。
謝っているような姿勢と声なのに、目は逸らさなかった。
「でも、チハルには、黙っていたくなかった」
まひるは息を止めていた。
怒られるかもしれない。
責められるかもしれない。
そんな覚悟を、昨日から重ねていた。
「そっか」
チハルは、バインダーの表紙を親指で一度なぞった。
それから、口を開いた。




