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第22話 雨から離れるために

 目次にある『雨巫女』の文字を見た時、秋雨(あきさめ)の指が本の角を押さえた。

 さっきまで大事そうに抱えていた新刊が、胸元で少しだけ歪む。

 まひるは、勝手に読み進めていいのか迷った。

 でも、秋雨は小さく頷く。


「めくって、まひるちゃん」

「うん」



 雨巫女は、島に雨を呼ぶもの。

 祈りを捧げ、涙を雨へ変え、島の水を守るもの。

 島は海より恵みを授かり、雨巫女は島より雨を授かる。

 雨は田畑を満たし、井戸を満たし、人々の暮らしを潤す。

 ゆえに雨巫女の涙は、島の祈りであり、恵みである。

 雨巫女は涙を惜しまず、島はその雨を忘れてはならない。

 雨は川となり、川はやがて海へ還る。

 海へ還った雨は、また雲となり、島へ巡る。

 雨巫女の涙もまた、その巡りの一つである。

  


 書かれている言葉は、どれもきれいだった。

 けれど、そこには雨巫女の声がない。

 頑張るとか、誇りとか、やりがいとか。

 苦しいとか、怖いとか、逃げたいとか。

 そういう言葉は、一つもない。


「……きれいなことばっかりだね」


 まひるが言うと、秋雨は何も言わなかった。

 抱えていた本の角を、指先で押さえている。

 まひるは、ページをもう少しめくる。

 雨巫女の由来。古い祭りの記録。大昔の雨巫女。

 けれど、探しているものは出てこない。


 辞める。離れる。

 そういう言葉は、どこにもなかった。

 まひるの指が、髪の毛先に触れた。

 聞きたいことはある。


 でも、それをどう言葉にすればいいのか、まだ分からない。

 毛先をくるりと指に絡めて回している時、秋雨がまひるに声をかけた。


「久しぶりだね、その癖」

「え?」

「考えごとをする時、まひるちゃん、髪をくるくるするって言ってたから」


 まひるは、指に絡めかけていた髪を見た。

 初日に言って、自分でも忘れてかけてた癖だった。


「……覚えてたの?」

「うん。まひるちゃんが、ちゃんと考えてくれてる時の癖だから」


 まひるは、髪から指を離した。

 それから、秋雨を見る。


「……あのさ。まだ、まとまってないんだけど」

「うん」

「この本には、辞めるとか、離れるとか、そういうことは何も書いてなくて」

「うん」

「だから、聞いてみたいんだ。えっと……店主さんに」


 まひるはそこで一度言葉を切った。

 昨日なら、きっとそのまま進んでいた。


「でも、それを聞いていいのか、わたしだけで決めたくない」


 ここは、秋雨が新刊を楽しみに来る場所だった。

 取り置きの本を受け取って、外の普通を少しだけ抱えて帰れる場所だった。

 まひるの質問ひとつで、その場所まで雨巫女の話に変えてしまっていいのか。

 それを、まひるだけで決めたくなかった。


 けれど、昨日とは違う。

 一緒に考えると決めた。

 まひるは、秋雨の目を見る。


「秋雨ちゃんは、どう思う?」


 秋雨は、抱えていた本を胸の前で持ち直した。


「……怖い」


 まひるは頷いた。


「でも、私も知りたい。ううん。知っておくべきだと思う」

「じゃあ、一緒に聞こう」

「うん」


 二人はカウンターの方へ向かった。

 店主は、それに気がつくと、膝の上の本に栞を挟んで閉じた。


 カウンターの上に置かれた指が、ゆっくりと揃う。

 さっきまでの穏やかな目元から、笑みが消えていた。


「あの」


 まひるは、言葉を選ぶ。

 秋雨が隣にいる。

 だから、勝手に進まない。

 でも、切り出すのは自分の役目だと思った。


「過去に、雨巫女を辞めた人っているんですか?」


 店主は、閉じた本の表紙に手を置いた。

 さっき鳴った戸口の鈴が、まだ揺れている。

 その音が止まるまで、誰も口を開かなかった。


 外では、軒先から雫が落ちている。

 ぽたり、という音が、戸の向こうから聞こえるようだった。


「辞めた、という言い方をするかどうかは分からないね」


 店主は、ゆっくり言った。


「ただ、雨から離れた人なら――いたよ」


 雨から離れた人。

 まひるは、その言葉を頭の中で繰り返した。

 辞めた人、ではない。

 やめられた人、でもない。

 雨から、離れた人。


「その人は、どうやって」


 まひるは言いかけて、止まった。

 答えだけを求めたら、きっと転んでしまう。

 秋雨が隣で、紙袋の持ち手を握っている。

 質問するべきは、目的地への歩き方だ。

 まひるは、言葉を直した。


「……その人のことを、もっと知るにはどうしたらいいですか?」


 店主の目元が、少しだけやわらいだ。

 カウンターに置かれた指先が、ゆっくりほどける。


「雨から離れた人のことを知りたいなら、前総代さまに聞くしかないかもしれないね」


 その言葉が出た瞬間、秋雨の肩がぴしりと固まった。

 まひるは横目でそれを見た。


「前総代さま……?」

「今の総代の前に、島と神社を見ていた人だよ」

「総代さんじゃダメなんですか?」


 まひるにとって、総代と言えば源一郎だった。

 けれど店主は、ゆっくり首を横に振る。


「源一郎くんも、知らないわけじゃないと思うよ。でも、あの子は今の総代だからね。今の島を背負っている人間は、雨巫女の話を昔話みたいには扱えない」


 その呼び方で、店主が源一郎の若い頃を知っているのだと分かった。

 ただ、店主の声は、誰かを責めるものではなかった。


「前総代さまなら話してくれる、とは言わないよ。ただ、あの人はもう、今の島を動かす場所からは退いている。だから、源一郎くんよりは、昔のこととして口にできるかもしれない」


 話が進むほど、秋雨の顔は渋くなっていった。

 まひるは秋雨の妙な変化が気になった。

 でも、今はそこを聞く場面ではない。


「記録とかも、あるんですか?」

「さあ。けれど、あの人なら何か持ってるかも。会えれば、だけどね」


 店主は、カウンターの上に指を置いた。


「二人だけで行っても、門前払いかもしれないよ」

「そんなに会いにくい人なんですか?」

「会いにくいというより、話を引き出しにくい人かな」


 秋雨の指が、紙袋の持ち手をきゅっと握る。

 まひるは、昨日、レインコートの袖口をつまんでいた指を思い出した。


「だから、チハルちゃんを頼るといい」


 店主が言った。

 その瞬間、秋雨が息を吐いた。


「チハルちゃん?」

「うん。あの子のお婆さんが、前総代さまと古い付き合いでね。わしらの世代では、そういう縁がまだ残っているんだよ」


 チハルの名前が出て、秋雨の肩から力が抜けた。

 前総代さまの名前では固まった。

 でもチハルの名前では、ほっとした。

 その差が、まひるにはまだ分からない。


「じゃあ、チハルちゃんなら会わせてもらえるかもしれないってことですか?」

「会えるかどうかは、前総代さま次第だね。でも、話を通すなら、あの子がいた方がいい」


 店主はそこで、一度言葉を切った。


「それに、あの子にも関係のある話だからね」


 まひるは、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。

 チハルにも関係がある。

 それは、前総代さまへの接点があるからなのか。

 それとも、もっと別の意味なのか。


 隣で、秋雨が唇を結んでいる。

 まひるは、今は深く聞かないことにした。

 一緒に考える。

 それは、何でもすぐにこじ開けることではない。


「ありがとうございます」


 まひるが頭を下げると、秋雨も少し遅れて頭を下げた。


「ありがとうございます」

「いいよ。ただし、急ぎすぎないことだね」


 店主は、カウンターの奥へ視線を落とした。


「雨に関わる話は、急ぐと道を間違える」


 その言葉は、古い本の一文みたいに聞こえた。

 まひるは頷く。

 でも、隣には秋雨がいる。

 その手に、秋雨が選んだ本がある。


「あの」


 秋雨が、喉の奥から押し出すように声を出した。


「なんだい」

「あ、ありがとうございました」

「どういたしまして」



 秋雨は本を買った。

 会計を終えると、店主は紙袋の口を丁寧に折った。

 紙袋を胸に抱える。


「新刊、楽しんで」

「はい……!」


 店主の声も、秋雨の返事も、さっきより柔らかかった。

 店の外に出ると、雨は降っていなかった。

 軒先から落ちた雫だけが、濡れた道に小さく跳ねている。


 まひるは空を見る。

 雲はまだ残っているけど、昨日よりずいぶんと明るい。


 秋雨は、本の入った紙袋を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。

 前総代さま、という名前が出た時の固い顔が、まだ残っている。


「秋雨ちゃん」

「うん」

「チハルちゃんに、話せる?」


 秋雨はすぐには答えなかった。

 紙袋の持ち手を、指先で握り直す。


「……怖い」

「うん」

「でも、今みたいに怖がってるだけじゃ進めない。チハルとは、私もちゃんと話したい」


 まひるは、秋雨の隣に立ったまま頷く。


「じゃあ、一緒に話そう」


 秋雨は、まひるを見る。

 そして、小さく頷いた。

 雨は、もう降っていない。

 濡れた道だけが、さっきまでの雨を静かに残していた。

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