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第20話 一緒に。

 霧雨は、まだ降っていた。

 朝よりは弱くなった。

 けれど、まだ止んではいない。


 まひるは傘を差したまま、待ち合わせ場所に立っていた。

 神社へ続く坂道の入口で、雨に濡れた石垣が黒く光っている。

 スマホには、秋雨(あきさめ)から届いた三文字が残っていた。


『会える』


 何度見ても、三文字は三文字のままだった。

 まひるはスマホを伏せて、傘の柄を握り直す。

 坂の上から足音が聞こえ、顔を上げた。


 秋雨が、細い道を降りてきた。

 今日は傘ではなく、薄い青のレインコートを着ていた。

 フードをかぶって、胸の前で紐を結んでいる。


 同じ雨の中にいるのに、同じ傘の下には入れない。

 まひるは、傘を傾けかけた手を途中で止めた。

 秋雨はまひるの少し前で足を止めた。

 雨粒が、レインコートの肩を滑って落ちる。


「秋雨ちゃん」

「まひるちゃん」


 名前を呼び合っただけで、言葉が途切れた。

 まるで最初に会った頃みたいだった。

 だから、まひるから話しかけた。


「……昨日、ごめん」


 秋雨はすぐに答えなかった。

 まひるは、それでいいと思った。

 ここで「いいよ」と言ってもらうために来たわけではない。


「秋雨ちゃんは、まだ分からないって言ってたのに。辞めたいだけじゃないって、言ってたのに」


 秋雨の表情は、フードの影で少し見えにくい。

 雨粒が、まひるの傘の端から落ちた。

 出ていく声は、思っていたより硬かった。


「辞めちゃっていいって、わたしが先に言っちゃった」


 秋雨の指が、レインコートの袖口をつまんだ。

 まひるは、その小さな動きを見た。

 言い訳が喉まで迫り上がる。


「それはきっと、わたしが見ていられなかっただけ」


 でも、まひるはそれを飲み込んだ。

 傘の柄にかけた指へ力を入れる。


「秋雨ちゃんの涙を、わたしが受け止めきれなかったんだと思う」


 まひるは、そこで一度息を吸った。

 表情は見えなくても、声が霧雨の中を通るように。


「だから、自分が安心できる答えを、秋雨ちゃんに押しつけた……ごめんなさい」


 まひるは頭を下げる。

 一緒に頭を垂れた、傘から水が滴り落ちた。

 まひるは声が震えないように、一度奥歯を噛んだ。


「でも、わたし、秋雨ちゃんと友達を続けたい」


 思いを吐き出すと、胸の奥がじわっと熱くなった。

 傷つけた側が言っていいことなのかも分からない。

 まひるは自分が、ひどくわがままだと思った。

 堪えなければ涙が出そうだった。鼻を啜る音がした。


「仲直りしたい」


 それでも、言わなければ何も起こせないと思ったから。

 ――しばらくして、霧雨の向こうで、秋雨が口を開く。


「……嫌われたと、思ってた」


 まひるは目を瞬いた。


「え?」

「私、まひるちゃんに、嫌われたと思ってた」


 秋雨は、袖口をつまむ指を少しだけ動かした。

 顔は俯いたまま。けれど、声が震えていた。


「昨日、私、嫌な言い方をしたから」


 秋雨の声は細かった。弱々しかった。

 秋雨が朝、布団の中でぐずぐずしていたことを、まひるは知らない。

 でも、その声だけで、秋雨もずっと怖かったのだと分かった。


「嫌いになってないよ」


 言葉は咄嗟に出てくれた。


「嫌いになってたら、会いたいって送らない」


 秋雨は、ほんの少し顔を上げた。

 まひるは続ける。無意識に足が一歩前に出る。


「怖かったけど、送ったんだよ。後悔したけど、今は送ってよかったって思えるよ」


 傘を握る手に、もう一度力が入った。

 レインコートを着る秋雨に、まひるは傘を差し出す。


「秋雨ちゃんに会いたかったから」


 秋雨の口元が震えた。

 そこに入っていた力が、一瞬ゆるんだ。


「私も、まひるちゃんのこと、嫌いになったわけじゃない」


 まひるは、何も言わずに頷いた。

 その先があると分かったからだ。


 秋雨は、袖口をつまんでいた指を離した。

 代わりに、両手を胸の前で重ねる。

 まだ、まひるの傘の中には入っていない。


「でも、つらかった」


 怒っている声ではなかった。

 まひるの喉が、きゅっと狭くなった。

 それでも、今度は目を逸らさない。


「うん」

「まひるちゃんが、私のために言ってくれたのは分かってる」


 秋雨は、言葉を探すように足元を見た。

 雨粒がフードの端から落ちて、雫が土に小さな跡を作る。


「でも、雨巫女って、私にとって嫌なだけのものじゃないの」


 秋雨の声は、いつしか霧雨に飲まれない声に変わっていた。


「苦しいし、怖いし、逃げたいって思うこともある」


 秋雨は、胸の前で重ねていた手に目を向ける。

 秋雨の胸が、レインコートの下で小さく上下した。

 そして、まひるのことをしっかりと見据えた。


「でも、それだけじゃない」


 秋雨が、一歩前に出る。

 まひるの傘の中に入る。

 雨粒が、レインコートの袖を伝って落ちた。


「今まで降ってきた雨とか、島の人が喜んでくれたこととか、雨巫女として過ごしてきた時間とか」


 秋雨は、言葉に感情を載せていく。

 早口なのに、一つずつ確かめるようでもあった。


「そういうものまで、全部いらないものみたいに言われた気がしたの」


 言い終えたあと、秋雨は少しだけ俯いた。

 それから、まひるの胸元に顔を埋める。

 強く抱きついたわけではなかった。

 ただ、そこにいてもいいのかを確かめるみたいに、しばらく動かなかった。


「まひるちゃんが、そんなつもりじゃなかったのは分かってる」


 秋雨の声は、まひるの胸元で少しくぐもって聞こえた。


「でも、私はそう感じた」


 まひるは、滲みかけた視界のまま秋雨を見た。

 足元の土に、小さな雫の跡が増えていく。


「それで、怖くなって。最後、ちゃんと聞けずに――逃げ出した」


 秋雨は、顔を上げなかった。

 レインコート越しの肩が、ほんの少し震えている。

 抱きついている、というほどではなかった。

 まひるは傘を持つ手に迷って、それから、空いた手を秋雨の背中にそっと添えた。


「そう、だったんだ」

「……」


 秋雨の気持ちに共感する方がいいのかもしれない。

 これで仲直りして、お互いに寄り添えば楽になれるのかもしれない。

 だけど、それで終わらせてしまうなら、わたしはきっと嘘を付く。


 まひるは唇を結んだ。

 泣いてほしくなかった。

 ただ、それだけだった。

 それは、今も変わらない。


「秋雨ちゃん。わたしね、全部はまだ分からない」


 ――まひるの手が傘から離れる。

 秋雨の背中に、そっと回した。


「雨巫女のことも、秋雨ちゃんが積み重ねてきたものも」


 まひるの身体に霧雨が張り付き、外ハネの髪の毛が下を向いていく。

 まひるは口に出すたび、自分がどれだけ知らないのかが分かった。


「でも、秋雨ちゃんが感じていることは、知っていきたい」


 だから、今度は急がなかった。


「だから、わたしはここにいたい」


 秋雨の目が揺れた。

 まひるはもう一度頭を下げる。

 まひるの頭がレインコート越しの秋雨の頭に触れた。

 霧雨が続いている。

 細く、途切れそうで、でもまだ続いている。


 秋雨は、首を横に振らなかった。

 だけど、いいよ、とも言わなかった。

 それが、まひるにはありがたかった。

 許されるより先に、受け止める時間が必要だった。


「私も、昨日のままにしたくない」


 秋雨が、胸元に寄せていた手をゆっくり離す。

 まひるから離れ、その瞳をしっかりと見据える。


「ごめんね、まひるちゃん」


 まひるの胸の奥で、何かがほどけかけた。

 けれど、完全にはほどけない。

 それでよかった。

 全部ほどけてしまったら、昨日の痛みまでなかったことになってしまう。

 でも、今日の涙は、霧雨が隠してくれた。

 だから、ほどけきらなくてよかった。


 そのまま、二人は神社の方へ歩いた。

 霧雨の当たらない場所に入っても、まひるの髪の先からは雫が落ちていた。



 神社の軒下、二人は並んで座っていた。

 秋雨はレインコートを着たまま、フードだけを外していた。

 まひるは傘を閉じて立てかける。浅く濡れた髪はそのままだった。


「私たち、喧嘩してばかりだね」


 秋雨が困った声でそう言った。

 まひるは口元をゆるめる。


「でも、仲直りできてるからいいんだよ」

「それは、そうかも」


 秋雨が、ほんの少し笑った。

 まひるも、ようやく息を吐けた。


 だから、次に向けて言葉を選ぶ。

 ここからが、本当に言わなければいけないことだから。


「秋雨ちゃん」


 昨日の自分ができなかったこと。

 秋雨の答えを、まひるが先に決めないこと。


「うん」

「いつ手のひら返してもいいからね」


 秋雨が目を瞬いた。


「手のひら?」

「うん」


 まひるは、右の手のひらを二人の間に広げる。

 それを見る秋雨は、右手でフードの紐に触れていた。


「朝に辞めたいって言ってもいいし、その日の夜にやっぱり辞めたくないって言ってもいい」


 雨粒が、まひるの髪の毛から落ちた。


「あと、まだ分かんないって言ってもいいよ。それが秋雨ちゃんの答えなら、それでいい」


 秋雨は、その落ちる雫を目で追わなかった。

 口をつぐみ、静かに聞いている。


「でも、わかんなくなったら、抱え込まないで」


 まひるは差し出していた右手で、秋雨の手に触れる。


「わたしも隣にいさせて。一緒に考えたい」


 秋雨は笑わなかった。

 泣きもしなかった。

 ただ、フードの紐をつまんでいた指から、力が抜けた。


「……じゃあ」


 秋雨の右手がフードの紐の結び目を一度なぞって、すぐに離す。

 まひるの手が触れている左手をひっくり返し、その手を優しく握った。


「ワガママを言ってもいい?」

「うん」

「本当の本当に、ワガママなんだけど」

「言う前からハードル上げすぎじゃない?」

「だって、重いと思ってたから」


 まひるは、言葉を止めた。

 秋雨の声が、ふざけていなかったからだ。

 秋雨は雨粒の落ちる足先を見ていた。

 足先で、濡れた小石を動かす。


「——分からないこと、ばかりなの」


 秋雨は、濡れた小石から目を離さない。


「雨巫女のことも、自分がどうしたいのかも」


 声は静かだった。

 まひるは、急いで頷かないようにした。


「まひるちゃんに、何を言ってほしいのかも」


 秋雨の指が、またフードの紐に触れる。

 だけど、まひると握った手は離さない。


「自分の気持ちですら、ちゃんと分からないの」


 まひるは、秋雨の言葉を一つずつ聞いた。

 一つひとつを受け止められるように、耳をすます。


「だから」


 秋雨が顔を上げて、まひるを見た。

 二人の目が合った。


「一緒に、考えてほしい」

「うん、一緒に」


 まひるは、握った手に少しだけ力を返した。

 秋雨も、今度は離さなかった。

 そのまま二人は、しばらく霧雨の音を聞いていた。

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