第19話 side:まひる
まひるは、朝食の前で固まっていた。
前の席の紗和は、まひるの様子を見ながら箸を進めていた。
味噌汁から湯気が立っている。
焼き魚の皮はまだぱりっとしていて、白いご飯も炊きたてだった。
いつもなら、ちゃんと食べられる。
けれど今日は、箸を持つ手が動かなかった。
宿の窓の向こうでは、霧雨が降っていた。
海も、空も、白くぼやけている。
まひるは、昨日のことが頭から離れなかった。
頭の中まで、白くぼやけていた。
思い出すのは、秋雨の赤い目元。
雨を見上げて安心していた島の人たち。
その雨が秋雨の涙だと分かってしまったこと。
そして、秋雨を傷つけてしまった言葉の数々。
――だから、辞めちゃってもいいんじゃないかな。
あの時は、本気で秋雨のためだと思った。
秋雨が泣いているのを見たくなかった。
秋雨が雨巫女さまとして扱われて、誰にも涙を見られずに、雨だけを感謝されている。
それがどうしても嫌だった。
だけどそれは、秋雨の痛みを受け止めることができなかっただけかもしれない。
自分が勝手に苦しくなって、安心できる答えを秋雨に押しつけたのかもしれない。
まひるは、スマホを手に取った。
衝動的に送ってしまった、メッセージに返事はまだない。
『今日、会える?』
謝りたい。昨日のままにしたくない。
その気持ちだけで、気づいたら送っていて、すぐに後悔した。
これもまた、まひるの都合ではないのか。
秋雨の気持ちを考えずに、また押しつけたではないのか。
既読の二文字が、画面の中で動かない。
読んではくれたけど、返したくないのかもしれない。
もしかしたら、会いたくないのかもしれない。
昨日のまひるの言葉は、秋雨をそれくらい傷つけたのかもしれない。
考えは、悪い方へばかり転がっていった。
まひるは箸を置いた。
髪の毛先を、指に巻きつける。くるくると回す。
考えごとをする時の、昔からの癖だった。
最近は、あまり出ていなかった。
考える前に動いていたからだ。
考える前に、言ってしまっていたからだ。
「……わたし、自分が嫌だったこと、秋雨ちゃんにしたのかな」
声に出すと、胸がいっそう重くなった。
まひるは、子供だからと外側に置かれるのが嫌だった。
分からないでしょうと、決めつけられるのが嫌だった。
自分の答えを、ほかの誰かに決められるのが嫌だった。
でも昨日、秋雨にそれをしてしまった。
秋雨がまだ分からないと言っていたのに。
それだけじゃないと言っていたのに。
まひるは、秋雨の答えを待たなかった。
友達の気持ちを、先に決めようとした。
喉の奥が熱くなった。
泣きたいのに、泣いたらまた自分のことばかりになりそうだ。
それはもっと嫌だった。まひるは唇を噛んだ。
その時、紗和の声がした。
「まひる」
まひるはゆっくりと顔を上げた。
紗和は何も聞かなかった。
それから、静かに台所の方へ行った。
待ってる間も、まひるは箸に手を付けられなかった。
紗和はしばらくして戻ってきた。
手には、白いマグカップがあった。
「ココア、飲める?」
まひるが落ち込んだ時、紗和はいつも作ってくれた。
仕事の都合で引っ越しをすることが決まった日も。
友達と喧嘩して、涙ながらに帰ってきた日も。
特異現象の発生地に行きたくて駄々をこねた日も。
紗和は、いつもこれを作って、まひるの話を聞いてくれた。
「話したいところだけでも、いいのよ」
責める声でも、急かす声でもなかった。
まひるは頷いて、マグカップを受け取った。
両手で包むと、指先がじんわり温まる。
マグカップの熱が、こわばった指にゆっくり移った。
「……わたし、送っちゃった」
「秋雨さんに?」
「うん」
「『今日、会える?』って。でも、これも押しつけだったのかなって」
紗和は向かいに座った。
まひるの言葉を遮らず、静かに聞いている。
「わたしがただ、秋雨ちゃんに謝りたいだけなのかなって」
まひるはココアの表面を見つめた。
「昨日、秋雨ちゃんに急かすようなことを言った」
言葉にすると、胸の奥が詰まった。
でも、言わないままでは、ココアを飲み込むこともできなかった。
「秋雨ちゃんはまだ分からないって言ってたのに、そこをちゃんと聞かなかった」
紗和はすぐに慰めなかった。
そんなことない、とも言わなかった。
「秋雨ちゃんのためって思ってたけど、たぶん、本当は、わたしが見ていられなかっただけだった」
ただ、まひるの話に耳を傾けていた。
「秋雨ちゃんの答えを、わたしが先に決めた。だから、わたしが秋雨ちゃんに言えることなんてもうないんだって」
「なら、秋雨さんと過ごした時間まで、なかったことにするの?」
まひるは、マグカップの縁に親指を添えた。
「……それは、違う」
「昨日の言い方を悔やむことと、全部を間違いにすることは違うわ」
まひるは頷いた。
頷いたら、涙が出そうになった。
マグカップの中で、ココアの表面が小さく揺れた。
「返事が来ないのね」
「……既読はついた」
「そう」
「読んでくれたのに、返ってこない」
まひるの声は、涙まじりになっていた。
「やっぱり、会いたくないのかも。送ったことも、迷惑だったのかな」
紗和はただ、まひるが自分で画面を見るのを待っていた。
「返事がないなら、待つしかないわ」
「……待って、どうするの」
「待つだけよ」
まひるはスマホを見た。
既読の文字は、まだそこにある。
まひるがどれだけ見ても、それ以上は増えない。
「秋雨さんにも、なにか返せない理由があるのかもしれないでしょう」
紗和は急かさなかった。
まひるも空欄のままの入力欄を、そっと閉じる。
「……お母さんもね、あるわよ」
「え?」
「相手のためだと思って、相手の答えを先に決めてしまったこと」
まひるは思わず顔を上げた。
紗和は、少し困ったように笑った。
「その話は、いつかするわ」
「聞かせてくれるの?」
「ええ。でも、今、あなたが話したい相手は違うでしょ?」
まひるは、ゆっくり頷いた。
「……うん」
「返事が来たら、話しなさい」
「来なかったら?」
「そしたら、私も一緒に考えてあげる」
「……うん」
まひるはスマホをテーブルの上に置いた。
画面は上に向けたままにした。でも、もう触らない。
「まひる、朝ごはん食べちゃいなさい」
「うん……」
まひるは、箸を持つ。
ちびちびと、味噌汁をすする。
「顔を洗って、ご飯を食べて、服を着替える。そういうことが、大切なのよ」
窓の外では、霧雨が降り続いている。
ココアの湯気が、少しずつ薄くなっていく。
「許してもらうためだけじゃなくて、関係を続けるために何を伝えたいのかを考えるためにはね」
「……わかった」
「説教臭くなっちゃったかしら」
「ううん、そんなことない。ありがとう、お母さん」
まひるは焼き魚に箸をのばす。
もう冷めていたけれど、元気の出る味がした。
◆
スマホが小さく震えた。
まひるの肩が跳ねる。
画面に、秋雨の名前が出ていた。
まひるは息を止めて、メッセージを開いた。
『会える』
たった三文字だった。
それでも、画面を見た瞬間、喉の奥に息が通った。
まひるは、自分がずっと息を止めていたことに気づいた。
許されたわけじゃない。
仲直りできたわけでもない。
昨日のことが、なかったことになるわけでもない。
でも、会ってもらえる。
それだけで、まひるはスマホを胸元まで引き寄せた。
窓の外では、まだ霧雨が降っていた。
けれど、画面の中の三文字だけは、ぼやけずに読むことができた。




