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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第3章 秋雨ちゃんと、雨巫女さまのあいだ。
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第17話 恵みの雨が、涙に見えた。

「雨巫女さま、そろそろ」


 神社の人の声がした。

 秋雨(あきさめ)は紙コップを長机に置いた。

 さっきまで隣で麦茶を飲んでいた同年代の女の子が、立ち上がる。

 それだけで、周りの空気が変わった。


 誰も驚かなかった。

 誰も引き止めなかった。

 島の人たちは、秋雨がそうすることを知っていた。

 誰も声をかけず、静かに場所を空ける。


 秋雨の背筋が伸びた。

 紙コップを置いた指先が、袖の前で静かに揃う。

 声の温度が変わる。

 表情から、さっきまでのやわらかさが薄くなっていく。


 まひるにも、分かった。

 秋雨ちゃんは、こうやって雨巫女さまになる。


「秋ちゃん」


 チハルが秋雨のそばに立つ。

 秋雨は何も言わずに膝を折り、チハルに髪を触らせた。

 チハルの指が、髪飾りの位置を直す。袖の乱れを整える。襟元を確かめる。

 その手つきは、とても優しかった。

 さっきまで秋雨に水を飲ませようとしていた時と同じ手つき。

 当たり前みたいに秋雨を大切にしている手だった。


 でも、その手は秋雨を引き止めるためには動かなかった。

 秋雨を雨巫女さまとして送り出すために、迷わず動いていた。


「できた」


 チハルが小さく言う。


「ありがとう、チハル」

「ん。行っといで」


 秋雨はうなずいた。

 神社の人が、奥へ続く方へ身を引く。

 秋雨が一歩ずつ進む。

 奥へ向かう道の脇で、小さな飾りが揺れていた。

 まひるが作ったものだった。


 雨巫女さまの髪に触れるものではない。

 チハルが作った、特別な飾りでもない。

 それでも、秋雨を送り出す場所の一部になっている。


 まひるの手で作ったものまで、秋雨を雨巫女さまとして送り出す景色の中に混ざっている。

 嬉しい、と思うより先に、胸の奥がひやりとした。


 秋雨は神社の奥へ向かう途中で、まひるの方を見た。


「まひるちゃん、行ってくるね」


 まひるにだけ向けられた声だった。

 なのに、まひるは返事ができなかった。

 友達の秋雨ちゃんからの言葉なのに、そう受け取れなかった。

 お役目へ向かう雨巫女さまから、自分だけに言葉をもらったみたいだった。


 なんて返せばいいのか分からないまま、秋雨は神社の奥へ向かった。


 まだ雨は降っていなかった。

 だけど境内はもう、雨を待つ場所になっていた。

 秋雨が神社の奥へ消えてからも、まひるはしばらくその場を動けなかった。


「――まひるちゃん」


 チハルに呼ばれて、ようやく顔を上げる。


「ここで休んでいいよ」

「えっ」

「人手は足りてるし、このあと雨が降ってくると、動き方が変わるから」


 チハルは軽く笑った。


「慣れてないと、ちょっと大変なんだよね。しまうものとか、濡らしていいものとか、場所移すものとか」

「……でも、手伝い」

「初めてなのに本当に十分手伝ってくれたって。まひるちゃんは、今日はここまでで大丈夫」


 そう言いながら、チハルはまひるの手から空の紙コップを取った。

 その手つきは、さっき秋雨の髪を整えていた時と同じくらい自然だった。


「雨、すぐ来ると思うからさ、もう動き始めるんだ。だから、屋根の下に入っててね。今日はありがとう」


 チハルはそれだけ言うと、すぐに長机の方へ戻っていった。

 まひるは言われた通り、社務所の軒下に入る。


 境内では、人が動き始めていた。

 長机を少し奥へ寄せる人。

 濡らしたくない箱を社務所へ運ぶ人。

 外してはいけない飾りを確認する人。

 雨を迎える準備が、当たり前のように進んでいく。


 手持ちぶさたになって、まひるはなんとなくスマホを開いた。

 画面には、さっき撮った三人の写真があった。

 まひると、秋雨と、チハル。

 麦茶の紙コップを持って、少しぎこちなく笑っている。


 でも、その前後がなかった。


 祭りの準備も。

 秋雨が雨巫女さまになっていくところも。

 雨が降り始める前の境内も。

 どこにも残っていなかった。


 準備の写真を撮らなかったのは、余裕がなかったからだ。

 ちゃんと手伝わなきゃ、邪魔にならないようにしなきゃ。

 そればかり考えていた。

 まひるは、祭りを見に来た人ではなかった。

 飾りを作って、運んで、秋雨を送り出す準備の中にいた。


 でも、秋雨ちゃんが雨巫女さまになっていくところは、いいよって言われても撮れなかった。

 あの姿を画面の中に残してしまうのが、少し怖かった。

 スマホの画面の中で、三人はまだ笑っている。

 秋雨は、まだ秋雨ちゃんの顔をしている。

 その先の写真は、ない。


 ――ぽつり、と音がした。


 まひるはスマホから視線を外した。

 石畳に、小さな黒い点ができている。

 もう一粒、今度は軒先から垂れた葉の上に落ちた。


「来たねえ」

「ありがたいね」

「これで畑も安心だ」


 境内のあちこちで、ほっとした声が上がった。

 強い雨ではなかった。静かで、細くて、それでも確かに空から降ってきている。


 境内にいる人はみんな安心した顔で、誰も神社の奥を覗き込もうとはしない。

 恵みの雨だけが、みんなの前に降っている。

 それなのに、まひるには、その恵みの雨が秋雨の涙にも見えてしまった。


 雨は、細く降り続いた。

 石畳の黒い点が少しずつ増えて、参道に吊るされた飾りの端が湿っていく。

 まひるは軒下に立ったまま、神社の奥を見ていた。



 やがて、秋雨が戻ってきた。

 表情は大きく崩れていない。

 泣きじゃくってもいない。

 背筋は伸びていて、歩き方は静かだった。


 戻ってきた秋雨は、雨巫女さまとして立っていた。

 それなのに、目元だけが赤く染まっていた。

 髪の端と袖口が、雨を含んで湿っていた。

 まひるは、それらから視線を外せなかった。


「雨巫女さま、雨をありがとうございます」

「助かりました」

「お身体は冷えていませんか」


 秋雨に向けられる声は、どれもやわらかかった。

 感謝と気遣いが、同じ声の中に混ざっている。


「ありがとうございます。雨が降ってよかったです」


 秋雨は丁寧に頭を下げた。


 雨で助かった人がいる。

 それは、まひるにも分かっていた。

 畑を心配していた声も、雨を見上げてほっとした顔も、ちゃんと見ていた。

 だから、秋雨の「よかった」を間違いだとは言えなかった。


 社務所の軒下には、腰を下ろせる低い縁があった。

 人の声が落ち着いた頃、秋雨がそこへ戻ってきた。

 まひるの隣に、静かに腰を下ろす。


 だけど、さっき休憩中に並んだ時とは違う。

 背筋はまだ伸びたままだった。

 声も、島の人たちへ返事をしていた時の温度が残っている。


 雨巫女さまから、まだ戻りきっていないと思った。

 ただ、疲れていないわけではないのだとも分かった。

 秋雨は手にしたタオルを、胸の前で軽く握っている。

 指先が白くなるほどではないけど、離すこともしなかった。


「秋雨ちゃん」


 呼ぶと、秋雨がまひるを見た。


「なに?」


 返事はやわらかかった。

 だけど、休憩中に隣で笑っていた時の近さはなかった。


「さっきの雨……秋雨ちゃんが、降らせたんだよね」


 秋雨は静かに首を横に振った。


「ううん。雨は、降ってきたんだよ」

「秋雨ちゃんが泣いたからでしょ」


 秋雨はタオルの端を指で押さえた。


「うーんとね、私が降らせてるっていうより……雨が、来るんだよ」


 その言い方は、まひるの中でうまく形にならなかった。

 降らせるのも、降ってくるのも、結果は同じ雨だった。

 でも秋雨は、その二つを分けていた。


 まひるの視線は、また秋雨の目元に戻ってしまう。

 まひるには、さっきまで見えなかった涙の痕跡だけが、そこに残っていた。


「つらくないの?」


 聞いた声が、自分で思ったよりも硬かった。

 秋雨はまひるから、雨の方へ目を向けた。


「つらくないわけじゃないよ」

「……うん」

「でも、降ってよかったとも思う」


 まただ、と思った。

 きっと嘘ではない。

 雨で助かった人がいることも、秋雨がそれを知っていることも、まひるには分かる。

 それでも、目元の赤い秋雨がそう言うことを、どうしてもそのまま飲み込めなかった。


「……みんな、優しいよね」


 言葉が、考えるより先に出た。


「うん」

「秋雨ちゃんのこと心配してる」


 秋雨はタオルの端を見たまま、短く答えた。


「知ってる」

「だからさ、相談してみようよ」


 秋雨はすぐには答えなかった。


「せめて、チハルちゃんだけでも」


 タオルの端を押さえていた秋雨の指が、少しだけ緩んだ。

 だけど、次に出てきた声は、さっきよりも静かだった。


「……ごめんね」

「え?」

「まひるちゃんがそう言ってくれるの、嫌じゃないよ」

「だったら」

「私が、中途半端なことを言ったからだよね」


 秋雨は雨の方を見た。


「辞めたいのかもしれないって。そう思わせること、言った」

「秋雨ちゃん……?」

「だから、まひるちゃんがそう言うのは、分かる」


 秋雨の声は静かだった。

 だけど、次の言葉だけは、静かなのに強く重かった。


「でもね、そんな簡単じゃないんだよ」


 まひるは、たった一言聞けばよかったと思った。

 簡単じゃないって、どういうことなのか。

 チハルちゃんも言ってた。簡単じゃないって、どういう意味なのか。

 秋雨が何を選べなくて、何を手放せないでいるのか。

 でも、その時のまひるには聞けなかった。


「そうだけど」


 普通の秋雨ちゃんなら、きっとまた大丈夫だと言う。

 嫌なだけじゃないから、と笑ってしまう。

 今の秋雨は、雨巫女さまの顔を残したまま、まひるを見ていた。

 いつも遠くに感じる雨巫女さまのまま、それでも友達の秋雨ちゃんとして、まひるを見てくれていた。

 だから、届くと思ってしまった。


「泣くのが役目なんて、やっぱりおかしいよ」


 まひるは止まれなかった。


「そうかもね」

「秋雨ちゃんだけが、そんなに背負わなくてもいいはずだよ」


 秋雨の喉が、小さく動いた。


「……私たち、言い訳ばっかりだね」

「え?」


 秋雨の笑い方は、まひるを責めるものではなかった。

 秋雨自身にも向けられているみたいだった。


「まひるちゃんは、私のためって言う。私は、雨が降ってよかったって言う」

「秋雨ちゃん、それって」

「どっちも、嘘じゃないのにね」


 聞き返せばよかったのかもしれない。

 それってどういう意味、と。でも、喉が詰まってしまった。

 聞けていたら、まだ違う言葉が返ってきたのかもしれない。


 だけど、聞けなかった。

 さっき見た赤さが、先に浮かんでしまう。

 雨が降ってよかった、と言った秋雨の声が、耳に残っている。

 まひるは、もう赤い目尻を見たくなかった。

 問いは、喉の奥で形にならないまま消えた。

 代わりに、別の言葉が出た。


「みんな優しいんだから、ちゃんと言えば分かってくれるよ」


 今じゃないのかもしれない。

 こんな場所で、こんなふうに言うことではないのかもしれない。

 それでも、まひるは止まれなかった。

 秋雨の目元の赤さが、意識の中央からずっと消えてくれなかった。


「――だから、辞めちゃってもいいんじゃないかな」


 軒先の雨音が、大きくなった。

 秋雨は、まひるを見ていた。

 怒っているようには見えなかった。

 でも、さっきまでかすかに残っていたやわらかさが、すっと遠くなるのを感じた。


「まひるちゃんには、そう見えてたんだ」

「そうって……」

「私がしてきたことも」


 秋雨の声が小さく、雨の音が大きくなる。


「秋雨ちゃん、違う」

「みんなが受け取ってきた雨も」

「違う、そうじゃなくて」

「全部、ない方がいいものに見えてたんだ」


 まひるの言葉がどこに触れたのか、まひるには分からなかった。

 でも、秋雨の表情から、何か大事なものを踏んでしまったことだけは分かった。

 ただ、泣いてほしくなかった。

 その気持ちだけは、嘘じゃなかったのに。


「違う」


 まひるは首を振った。


「そうじゃない。わたしは、秋雨ちゃんが」

「うん」

「秋雨ちゃんが、泣かなくていいようにって」

「分かってる」


 秋雨の声は静かだった。

 静かすぎるくらいだった。


「まひるちゃんが、私のことを心配してくれてるのは分かってる」

「だったら」

「でも、それだけじゃないんだよ」


 秋雨はタオルから手を離した。

 袖口をそろえるように、指先で布を撫でる。

 その仕草が、さっき雨巫女さまとして戻ってきた時のものに似ていた。


「みんなが優しいことくらい、私だって知ってるよ」

「……」

「チハルが心配してくれてることも、分かってる」


 まひるは、うなずくことしかできなかった。


「でもね。だから、簡単には手放せないんだよ」


 まひるは何も言えなかった。

 みんなが優しいなら、言えば分かってくれる。

 秋雨がつらいと言えば、ちゃんと受け止めてくれるはずだと思っていた。


 だけど秋雨は、その優しさを知らずにいるわけではなかった。

 チハルの心配も、雨を待つ人たちの顔も、全部知っていた。

 知っているから、手放せないと言っている。


「まひるちゃんには、分からないよ」


 秋雨が言った。

 雨が、軒先を叩く。

 細い音が、何度も重なる。


「外の人のまひるちゃんには、分からない」


 ――息が止まった。

 外の人。

 その言葉だけが、雨の音よりもはっきり聞こえた。

 まひるは島の中に入ったつもりでいた。

 祭りの準備を手伝って、飾りを作って、秋雨を送り出す場所の中にいた。

 でも今、秋雨の言葉で、そこから押し戻された。


「――雨巫女さま」


 神社の人の声がした。


「少し、こちらへ」


 秋雨はその声に反応した。

 まひるの前にいた秋雨ちゃんではなく、雨巫女さまとして背筋を伸ばす。

 秋雨は一度だけ、まひるを見た。


 でも、何も言わなかった。

 さっきは、まひるちゃん、行ってくるね、と言ってくれた。


 今は、何も言わなかった。

 秋雨が神社の人の方へ歩き出す。


「秋雨ちゃん」


 まひるの声は小さかった。

 雨の音に混ざって、すぐに消えた。

 秋雨は振り返らなかった。

 届いたのかどうかも分からないまま、雨の音だけが軒下に残った。

 秋雨は雨巫女さまとして、境内の奥へ戻っていく。

 まひるだけが、軒下に残された。



 雨はまだ細く降っていた。

 さっきまで、みんなが待っていた雨だった。

 秋雨が、降ってよかったと言った雨だった。

 でも今のまひるには、その音がただ冷たく聞こえた。

 何を間違えたのかは、分からなかった。

 ただ、秋雨を傷つけたことだけは分かった。


 外の人のまひるちゃんには、分からない。

 雨の音の中、その言葉だけがずっと残っていた。

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