第16話 雨巫女さまと、秋雨ちゃん。
社務所の外に出ると、境内の空気が変わった。
さっきまで机の上にあった飾りが、外へ運ばれていく。
提灯の紐。柱に結ばれた布。参道の端に積まれた木箱。
大人たちが行き交い、子どもたちが端の方で走っている。
島全体が、少しずつ祭りの形になっていくみたいだった。
「チハル、それどこ置く?」
「そっちじゃなくて、社務所の横。あとでまとめて吊るすから」
「はいはい」
「秋ちゃん、上の方お願いしていい?」
「うん」
「まひるちゃんはこっち。低いところからやろっか」
「なんで低いところ限定?」
「脚立デビューはまだ早いかなー」
「チハルちゃん、もう!」
チハルは笑いながら、箱の中の飾りをいくつか手渡してくれた。
その中に、まひるが作った飾りも混ざっていた。
「これ、まひるちゃんのだよね」
秋雨が、箱の中から一つを持ち上げる。
「分かるの?」
「うん。ここの折り目がね、少しだけ斜めになってる」
「うっ……やっぱりよくないかな」
「違う違う。褒めてるよ。まひるちゃんのって分かるのがいいんだから」
秋雨は真面目に言った。
まひるは返事に困って、戸惑って、結局笑ってしまう。
「じゃあ、それ、ここに吊るしてもいい?」
「もちろん」
秋雨が紐を持ち上げる。
まひるも横から手を伸ばした。
「ここ、結び目を裏に回すと綺麗に見えるの」
「裏?」
「うん。こうやって……ほら、できた」
まひるの作った飾りが、参道の端で揺れる。
他の飾りと並んで、雨避けの下で風を受けている。
少し歪んでいるはずなのに、外に出ると、それも祭りの景色の一部に見えた。
「あら、朝倉さんのところのお嬢ちゃん?」
声をかけられて、まひるは振り返った。
年配の女の人が、布を抱えて立っている。
「はい。朝倉まひるです」
「まひるちゃんね。手伝ってくれてるの、助かるわあ」
「あ、いえ。わたし、まだ全然」
「いいのいいの。飾りは人の手が多いほど賑やかになるのよ。ありがとうね、まひるちゃん」
女の人は、まひるの作った飾りを見上げて、にこにこ笑った。
秋雨の隣にいる子としてだけではなく、朝倉まひるとしてここに立っている。
そう思うと、胸の奥がふわっと軽くなった。
「秋雨ちゃん、そっち手足りてるかい?」
「大丈夫です」
少し離れたところで、若い男の人が秋雨に声をかけていた。
秋雨はいつもの調子で微笑んで返す。
「雨巫女さま、今年もよろしくお願いします」
そのすぐあと、腰の曲がった男の人が、深く頭を下げた。
秋雨は同じように微笑んだけれど、背筋が少し伸びた。
「はい。よろしくお願いします」
どちらも、秋雨に向けられた声だった。
けれど、呼び方は同じではない。
小さな子が「秋雨ちゃん」と手を振る。
若い人たちも、秋雨ちゃん、と声をかける。
その横を、年配の人が「雨巫女さま」と頭を下げて通り過ぎた。
秋雨ちゃん、と呼ばれた時、秋雨は目元を緩めた。
雨巫女さま、と呼ばれた時、秋雨は背筋を伸ばした。
「まひるちゃん、次こっちね」
チハルが箱を抱え直して、次の場所へ歩き出す。
まひるも慌ててその後を追った。
まひるの作った飾りは、もう風の中で揺れている。
他の飾りと混ざって、どれが自分のものか、もうすぐ分からなくなりそうだった。
その向こうで、秋雨が手を振る。
秋雨ちゃん、と呼ばれて。
雨巫女さま、と呼ばれて。
まひると秋雨は同じお祭りの中にいた。
そのはずなのに、秋雨だけが、手の届かない場所に立っているように見えた。
外の飾りつけが一段落したころには、まひるの手のひらは汗ばんでいた。
参道にある雨避けの下、両側に吊るされた飾りが、風に揺れている。
自分の作ったものも、その中に混ざっていた。
形は不揃いで、他の人が作ったものと比べて、まだ手つきの拙さが残っている。
それでも、遠目に見れば、ちゃんと祭りの景色の一部になっていて安心した。
「はーい、休憩!」
チハルが手を叩いた。
その合図でまひると秋雨だけでなく、準備をしていたほかの人たちも各々切り上げていく。
三人は社務所の近く、木陰に作られた休憩場所へ移動する。
木陰には、いつの間にか長机が出されていた。
「まひるちゃん、顔赤いよ。水分取っとこ」
「え、まだ大丈夫だけど」
「りんごみたいな顔してなに言ってんの。ほら、秋ちゃんも」
「私は飲んだよ」
「もう一口飲んどいて。秋ちゃん、赤ちゃんみたいな量しか飲まないんだから」
チハルに言われて、秋雨は少し困ったように笑った。
長机には、麦茶の入ったポットや、塩飴、小さな菓子の袋が並んでいる。
境内にいた人たちも、ぽつぽつと木陰に集まり始めていた。
「あら、あなたがまひるちゃんね。暑かったでしょう」
年配の女の人が、まひるに紙コップを差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「お母さんには、うちも世話になってるのよ」
「母が、ですか?」
「ええ。特異現象……だっけね」
女の人は、言い慣れない言葉を確かめるように首を傾げた。
「私らにとって雨巫女さまは雨巫女さまだけどね、外向けの話になると、私らだけじゃ分からないこともあるからねえ」
女の人はそう言って、まひるの手元を見た。
「でも、あなたもよく手伝ってくれてるわ。飾り、吊るしてくれたんでしょう」
「あ、はい。ちょっとだけですけど」
「助かるわあ。雨巫女さまと一緒に手伝ってくれて、ありがとうね」
雨巫女さま。
秋雨ちゃんのことを言っているのだと、すぐに分かった。
だけど、その人は秋雨ちゃんとは呼ばなかった。
「ゆっくり休んでね」
「はい、ありがとうございます」
女の人は、最後までやわらかい声でそう言うと、別の人に麦茶を配りに行った。
まひるに向けられた笑顔も、本当に優しかった。
それなのに、その優しさの中で、秋雨だけが別の呼び方をされている。
そのことが気になったけど、まひるは麦茶と一緒に疑問を飲み込んだ。
「ねぇねぇ」
チハルが、まひるのスマホを指さした。
「せっかくだしさ、三人で撮っとかない?」
「え、いいの?」
「いいでしょ。祭り準備、手伝った記念」
「私も?」
「秋ちゃんが入らないでどうすんの」
秋雨は照れたように笑って、まひるの隣に肩を寄せた。
反対側から、チハルが顔を寄せる。
まひるが持つ画面の中に、三人の顔が並ぶ。
汗をかいて、麦茶の紙コップを持って、少しだけぎこちなく笑っている。
「じゃあ、撮るよ」
シャッター音が鳴った。
まひるが手を下ろすと、秋雨とチハルはスマホの画面を覗き込む。
「見せて見せて」
「ちょっと待ってね……はい」
「お、いいじゃん。あはは、でも秋ちゃんの口元、硬ったいね」
「そ、そうかな?」
「秋ちゃんは相変わらず、写真撮られるの苦手だねー」
「いつも『頑張って笑ってます!』みたいな顔してる気がする」
「まひるちゃんまで、もう」
秋雨が小さく咎めて、まひるとチハルが笑う。
その瞬間だけは、三人とも普通の女の子みたいだった。
だけど、すぐに別の声が秋雨を呼んだ。
「雨巫女さま、午後も控えていますから、ちゃんとお休みくださいね」
「はい。ありがとうございます」
秋雨の返事は、まひるたちに向ける声とは違っていた。
落ち着いた、よく通る声だった。
「秋雨ちゃん、今年も雨、お願いね。ここのところ晴れ続きだったから」
「畑も少し乾いてきてるしねぇ、本当、助かるわあ」
「はい。がんばります」
秋雨はそう言って、静かに頭を下げた。
みんな秋雨を心配している。
紙コップを渡して、暑くないかと声をかけている。
それなのに、同じようにやわらかい声で、雨を待つ言葉も出てくる。
「今日、お役目があるの?」
「うん。お祭り準備とは別にね」
「……みんな、秋雨ちゃんのこと心配してるんだね」
まひるがぽつりと言うと、チハルは秋雨の方を見た。
「するよ。そりゃ」
「……うん」
「みんなにとって大切なんだよ。雨巫女さまは」
最後の呼び方だけが、まひるの中で引っかかった。
秋雨ちゃん、ではなかった。
チハルの口から出たのは、雨巫女さま、だった。
「チハルちゃんは」
まひるは、紙コップの縁を指で押さえた。
「秋雨ちゃんを送り出すの、嫌じゃないの?」
「嫌とか嫌じゃないとかで止められるなら、たぶんもっと簡単なんだけど」
チハルはそう言って、空になった紙コップを指で軽く潰した。
「……もちろん、心配してる。でも、秋ちゃんは雨巫女さまだから」
冷たくはなかった。
むしろ、秋雨を大切にしている言い方だった。
だけど、チハルの横顔は、どこか静けさを帯びていた。
(やっぱり、チハルちゃんも嫌なんだ)
秋雨を送り出すことが、平気なわけじゃない。
そう思うと、まひるは少しだけほっとした。
チハルはそれ以上何も言わず、社務所の方へ歩いていった。
秋雨のそばに残っているのは、まひるだけだった。
秋雨は、島民からもらった紙コップを両手で包んでいる。
その横顔は穏やかだった。
だから、まひるは小声で秋雨に問いかけた。
「秋雨ちゃんは、こういうの……お役目に行くの、嫌にならないの?」
まひるが聞くと、秋雨はすぐには答えなかった。
紙コップの中の麦茶を見つめて、それから、ゆっくり顔を上げる。
「大変じゃないわけじゃないよ」
「……うん」
「でも、嫌なだけじゃないんだと思う」
秋雨は、まひるにだけ聞こえるような声で言った。
嫌なだけじゃない。
その言葉を、まひるはうまく飲み込めなかった。
泣くことが役目になるなら、苦しいに決まっていると思っていた。
苦しいなら、嫌だと思うはずだった。
でも秋雨は、嫌なだけじゃないと言う。
休憩のざわめきから離れた木陰で、その言葉だけがまひるの胸に残った。




