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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第3章 秋雨ちゃんと、雨巫女さまのあいだ。
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第13話 友達役じゃなくて、友達でしょ。

 あの日の雨のあと、島には晴れが続いた。

 二日目も、三日目も、一週間ほど経っても空はよく晴れていた。

 宿の窓から見える海は、朝になるたび白く光っている。

 まるで、あの日の雨を遠ざけていくみたいだった。


 そのあいだ、秋雨(あきさめ)とは会えない日が続いていた。

 雨巫女には、泣くこと以外にもたくさんのお役目があるらしい。

 だからまひると秋雨は、毎日短いメッセージを交わしていた。

 長い話はしない。雨巫女の話も、まだしない。

 それでも『おはよう』とか『今日も暑いね』とか。

 まひるはそんな言葉が画面に残ると安心する。

 あの日の傘の中で交わしたものが、残っていると思えたから。


 そんなある日のことだ。


『これからお祭りの準備を手伝う予定なんだけど』

『まひるちゃんがよければ来る?』


 まひるは、ほとんど考える前に『行く』と返していた。

 送ってから、自分の返事が前のめりすぎたことに気づく。

 けれど、すぐに既読がついて、秋雨から待ち合わせ場所が送られてきた。


 今日は、画面越しではなく会える。

 そう思ったら、急に跳ねてる癖っ毛が気になった。

 まひるは顔を洗い、髪を整え、動きやすい服に着替える。

 祭り準備がどういうものなのか分からないから、汚れてもいい靴を選んだ。

 玄関で靴を履いていると、紗和が白い帽子を差し出してきた。


「出かけるなら、被っていきなさい。今日は日差しが強そうだから」

「……子どもじゃないんだけど」

「子ども扱いじゃなくて、熱中症対策」

「大人ってずるい」

「事実だもの」


 まひるは帽子を受け取った。

 言い返す言葉はあった。

 でも、白い布地が手の中でさらりと鳴って、口から出る前にほどけた。

 帽子をかぶると、つばの影が視界の上に落ちる。


「……変じゃない?」

「似合ってるわよ」

「本当に?」

「本当に。娘に変な帽子を被せて送り出さないわよ」


 紗和が即答する。

 まひるは帽子のつばを指で直してから、背を向けて、呟くように声を出した。


「……お母さん、ありがとう。いってきます」


 紗和は、湯呑みを持つ手を止めた。


「いってらっしゃい。気をつけて」



 宿を出ると、朝の空気はもう温まっていた。

 日差しは白く、坂道を上がるたびに海の匂いが薄くなり、土と草の匂いが濃くなった。


 神社へ続く道の途中に、秋雨はいた。

 あの日の雨の中にいた白い装束ではない。

 薄い色のシャツに、膝下までのスカート。

 肩には布のトートバッグをかけている。

 髪はいつもより高い位置でまとめられていて、首元が涼しそうだった。


 普通の女の子みたいだ。

 そう思ってから、まひるは胸が痛くなった。

 その言葉だけで括りたくない。秋雨は秋雨なのに。


「おはよう、まひるちゃん。久しぶり、かな?」


 秋雨がこちらを見て、ふわりと笑った。

 あの日、傘の中で最後に見たものより軽い笑顔だった。

 けれど、まひるの顔を見て、ほっとした色も混ざっている。


「おはよう、秋雨ちゃん。ちょっとだけ、久しぶりだね」


 返事をすると、秋雨の視線がまひるの頭の上で止まった。


「帽子、かわいいね」

「あ、これ。お母さんが持っていけって」

「似合ってるよ」

「……秋雨ちゃんまでそういうこと言う」

「え?」

「なんでもない」


 まひるは帽子のつばを下げた。

 顔が熱いのを、日差しのせいにできるのはありがたかった。

 秋雨は不思議そうにしながら、道の先へ視線を向ける。


「今日は、神社の倉庫から道具を運んだり、飾りを出したりするんだって」

「わたし、何か持ってきた方がよかった?」

「軍手はあると思う。タオルは……持ってきてたら助かるかも」

「タオルある。ちゃんと持ってきた」

「じゃあ、大丈夫だね」


 見学じゃない。手伝う側に入れてもらえる。

 まひるは鞄の肩紐を握り直して、秋雨の隣に並んだ。

 歩き出す前に、秋雨が小さく息を吸う。


「それと、まひるちゃん」

「うん?」

「今日は島の人もたくさんいると思うから……その、雨巫女を辞める話は、人前ではしない方がいいと思う」


 秋雨の声は慎重だった。

 傘の中で話したことを、避けているわけではない。

 けれど、今はまだ、外へは出せないのだ。

 まひるは頷いた。


「うん。分かってる」

「ごめんね」

「謝ることじゃないよ。秋雨ちゃんが困るの嫌だもん」


 秋雨はトートバッグの紐を一度握って、それから小さく笑った。


「ありがとう」


 まひるは肩の力を抜いた。

 言いたいことはある。聞きたいこともある。

 けれど、全部出せばいいわけではない。

 あの日、そういうことを学んだつもりだ。


「じゃあ今日は、秋雨ちゃんが案内役?」

「案内役……というより、友達役のつもり」

「友達役じゃなくて、友達でしょ」


 秋雨が瞬きをした。

 それから、柔らかく笑う。


「うん。そうだった」



 二人は並んで神社へ向かった。

 参道へ近づくにつれて、静かだった道にざわめきが混ざってきた。

 人の声。木材を置く音。布が風に鳴る音。どこかで子どもが笑っている。


 祭りの準備。

 言葉で聞いていたものが、音になって近づいてくる。

 境内には、いつもより人の気配があった。

 大人たちが箱を運び、社務所の前では誰かが紙の束を仕分けている。

 石段の端には畳まれた提灯が並べられている。

 それらはまだ灯っていないのに、そこだけもう祭りの雰囲気を醸していた。


 まひるは足を止めた。

 知らない場所に、知らない役割がたくさんある。

 その中へ入っていくのだと思うと、自分の立ち位置が分からなくなる。

 それは望んでいたことけれど、不安と隣り合わせだった。


「大丈夫」


 まひるの隣にいた、秋雨が言った。


「私が一緒にいるから」


 その声は、まひるの前に立つためのものではなかった。

 隣から、そっと支えてくれる声だった。


 社務所の人に挨拶をし、最初に向かったのは社務所の裏手にある倉庫だった。

 木の扉を開けると、湿った木と紙の匂いがした。

 棚には箱が積まれ、丸められた布や縄、提灯の骨組みのようなものが並んでいる。

 秋雨は慣れた様子で棚の前に立った。


「まずは、この箱と、こっちの布を外へ運ぶんだって」

「けっこうあるね」

「うん。でも、これくらいなら私が持っていけるから」


 そう言いながら、秋雨は自然に二つ目の箱へ手を伸ばしかけた。

 指が取っ手にかかったまま、戻ってくる。

 まひるは、その動きを見ていた。

 秋雨は少し考えて、まひるの方を見る。


「これは、まひるちゃんに任せてもいい?」


 差し出されたのは、両腕で抱えるくらいの箱だった。


「うん。任せて」

「前、見える?」

「なんとか、見える」

「無理だったら言ってね」

「大丈夫……ううん、違う。困ったら、ちゃんと言う」

「よし行こう」


 箱は大きいけれど、思ったより軽かった。

 でも、両腕の中にちゃんと重さがある。

 祭りの一端を、任されたような気がした。


 倉庫を出ると、日差しが差した。

 箱で視界の下半分が隠れる。

 足元の段差が少し怖い。

 そう思った時、秋雨が歩く速度を落とした。


「今、歩幅合わせた?」


 秋雨は驚いた顔をした。


「分かった?」

「分かるよ」

「じゃあ一緒に行こうよ」


 何気ない言葉だった。

 けれど、まひるは箱を抱える腕に力を入れた。

 一緒に行こうよ。

 その言葉は、あの日の雨の中で戻ってきた距離を、もう一度そっと確かめてくれるみたいだった。


「……そっか」

「うん」

「じゃあ、ちゃんと隣歩いてね」

「もちろん」


 秋雨は真面目に頷いた。

 その真面目さがおかしくて、まひるは箱の陰で小さく笑った。

 参道の方へ運んでいく途中で、腰に手ぬぐいを下げた年配の女性が声をかけてきた。


「お嬢ちゃんたち、そっち重くないかい?」

「ありがとうございます。大丈夫です」


 秋雨が答えると、女性はまひるの箱にも目を向けた。


「あんたは朝倉さんの所の子かい?」

「あ、はい。朝倉まひるです」

「手伝ってくれてるんだねぇ。助かるよ」


 まひるは慌てて頭を下げた。

 朝倉さんの所の子。

 そう呼ばれることが、不思議だった。

 ここでは自分は、秋雨の隣にいるだけの知らない子ではなく、母の名前を通じて誰かに認識されている。

 まひるの箱を抱える力が強くなった。


「秋雨ちゃんも、無理しないんだよ」

「はい。ありがとうございます」


 女性はそれで終わらず、秋雨の腕の中の布束まで見た。


「ほんとに重かったら言いなよ。祭りは逃げないんだから」

「はい、その時はお願いします」


 秋雨が、少し困ったように笑った。

 荷物を置く場所に着くと、別の男性が秋雨に声をかけた。


「雨巫女さま、今年もよろしくお願いします」


 まひるは箱を下ろしかけた手を止めた。

 同じ秋雨なのに、呼び方が変わった。

 秋雨は驚きもせず、背筋を伸ばして会釈する。


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 声が、ほんの少し整った。

 まひるはそれを見ていた。

 秋雨ちゃん。雨巫女さま。

 どちらも秋雨に向けられている。

 けれど、同じではない。

 さっきの女性も、この男性も、悪い人には見えなかった。

 どちらの声にも、秋雨を大切に思う響きがある。

 それなのに、呼び方が変わった瞬間、秋雨の肩が遠くなった。


「まひるちゃん」


 秋雨に呼ばれて、まひるは我に返った。


「あ、ごめん。ここでいい?」

「うん。そこに置いて大丈夫」


 箱を下ろすと、腕が軽くなった。

 秋雨が布の束を隣に置く。

 まひるは自分が置いた箱を見て、それが祭りの準備の一部になったことを遅れて実感した。

 自分の持ってきたものが、ここにある。

 もう、ただ見ているだけではない。


 けれど、さっきの「雨巫女さま」という声が、耳の奥に残っていた。

 荷物を下ろしたあとも、境内は落ち着かなかった。

 誰かが道具を探し、誰かが名前を呼び、子どもたちが走っては大人に注意されている。

 眺めていると、秋雨が隣に戻ってきた。


「疲れてない?」

「大丈夫。箱、思ったより軽かったし」

「よかった」

「秋雨ちゃんこそ、大丈夫?」

「うん。午前中は準備だけだから」


 その言い方に、まひるは引っかかった。

 けれど、ここで聞いていいことではない。


「次は、飾りの方を手伝うと思う。人が集まるとこに行こう」

「うん、わかった」


 秋雨もそれを分かっているようで、すぐ別の方へ視線を向けていた。

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