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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第2章 友達になったばかりの雨。
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第12話 雨の中で、重なる手。

 宿に戻って、階段を上がる。部屋の扉を閉める。

 まひるはスマホをベッドの上に投げるように置いた。

 そのまま、自分もベッドに倒れ込む。

 ぼふっと、布団が鈍い音を立てた。

 でも、横になっても落ち着かなくて、身体の向きをころころ変える。

 変えるたびに、心の置き場所まで変わってくれたらよかった。

 けれど、どこを向いても、胸の奥の重さは同じ場所に残っている。


 小さく見られることも、護られる対象になることも、初めてではない。

 それなのに、秋雨(あきさめ)には違っていてほしかった。

 枕の横で、スマホが黒い画面のまま沈んでいた。



 しばらくして、まひるはスマホを手元に寄せる。

 画面には、秋雨からのメッセージが届いていた。

 まひるは、息を止めた。

 受信時間を見ると、宿へ戻る前にはもう届いていたのかもしれない。

 まひるは、息を吸って、吐いて、意識的に落ち着こうとしてからそれを開いた。


『まひるちゃん。

 さっきのこと、ちゃんと話したいです。

 今のままだと、私はまた間違えたことを言うかもしれません。

 だから、少し考えたあとに、直接話す時間をもらえませんか。』


 それは秋雨らしい、少し硬い文だった。

 でも、謝らずに、ちゃんと話す時間をほしいと書いている。

 秋雨ひとりなら、ここまで踏みとどまれただろうか。


(……誰かに、相談したのかな)


 誰がそばにいるのか、まひるには分からない。

 誰かが、黙り込もうとする秋雨の背中を押したのだと思った。

 何が悪かったのか分からないまま謝るより、ちゃんと話す場を作る。

 それは、きっと正しい。


 まひるだって、謝ってほしいわけではなかった。

 ごめん、で終わらせてほしいわけではない。

 何に傷ついたのか、分かってほしかった。

 隣にいるつもりだったことを、ちゃんと見てほしかった。

 だから、このメッセージは間違っていない。

 でも、分かることと、寂しくないことは別だった。


(秋雨ちゃん本人の言葉で聞きたかったなんて、図々しいのかな)


 まひるはスマホを胸の上に置いたまま、また天井を見た。

 返信はできなかった。

 分かった、と打つのは違う。

 いいよ、と返すのも違う。

 わたしもごめん、と書くのも、まだ違う。

 まひるはボタンを押して、画面を閉じた。



 部屋の中が、さっきより少し暗くなっていた。

 まひるは横を向いて、窓の外を見る。

 帰ってきた時にはまだ明るかった空が、いつの間にか鈍い灰色に変わっている。

 雲が低くなり、日の落ちる時間と合わさって島の輪郭を少しずつ曖昧にしていた。


 ぼんやりとした光の中で、スマホの画面がまた目に入る。

 ロック画面の端に、写真の小さなサムネイルが並んでいた。

 撮ったものも、撮らなかったものも、まひるは鮮明に思い出せる。

 そして、それらを覚えている理由は全部、秋雨に繋がっていた。


(雨が、降るのかな)


 秋雨がどうしてここまで気になるのか、自分でもよく分からない。

 出会ってから、まだそんなに経っていない。

 この島で、どこへ帰るのかも知らない。

 雨の日に、どこで過ごすのかも知らない。

 傷ついた時に、誰が隣にいるのかも知らない。


 それでも、秋雨と友達でいたかった。

 友達が泣いているかもしれないなら、傍にいたい。

 まひるはもう一度、スマホを開く。

 入力欄は白いまま、画面の下で待っていた。

 まひるは、石碑の前での秋雨の言葉を思い出す。


『もし、私が雨巫女じゃなくなったら、どうなるんだろう』


 まひるは、その言葉をまだうまく受け取れていなかった。

 石碑の前で見た秋雨の横顔が、まだ目の奥に残っている。

 辞められるかもしれないと聞いたのに、秋雨は笑わなかった。

 でも。

 それでも。

 秋雨に泣いてほしくない。

 その気持ちは、消えなかった。

 理由をうまく言葉にできなくても、それだけはなくならなかった。




 ――スマホが、震えた。


『ごめんなさい』


 それだけだった。

 さっきの文より、ずっと短い。

 説明も、理由もなかった。


 まひるは画面を見つめたまま、唇を噛んだ。

 謝ってほしいわけじゃない。

 でも、その一言を見た瞬間、胸の奥が痛くなった。


「……直接言ってよ、そういうのは」


 窓の外で、音がした。

 ぽつ、と小さく。

 まひるは顔を上げる。

 窓ガラスに、水滴がひとつついていた。

 すぐに、もうひとつ。

 ぽつ、ぽつ、と雨粒が増えていく。

 さっきまで低く垂れていただけの雲から、雨が落ち始めていた。


 この雨がお役目の雨なのかただの雨なのか、まひるには分からない。

 分からないのに、雨を見ると秋雨のことを考えてしまう。

 返信画面を閉じ、スマホを握ったままベッドから起き上がる。

 部屋の隅に置いていた傘を掴み、部屋を飛び出した。


 宿の玄関を抜けると、雨の匂いがした。

 走りながら傘を開こうとして、手がもたつく。

 足元の水たまりを踏んで、靴の先が濡れる。

 息が上がり、濡れた前髪が額に張りついた。


 秋雨が神社にいるとは限らない。

 家に帰っているかもしれない。

 社務所にいるかもしれない。

 誰かと一緒に、まひるの知らない場所にいるのかもしれない。

 だから、神社へ行ったって会えないかもしれない。

 それでも、まひるが行ける場所は、神社しか思いつかなかった。


 雨巫女の秋雨と出会った場所。

 秋雨ちゃんと友達になった場所。

 会って何を言うかは分からない。

 でも、会わないままでいたくない。

 衝動のままに、感情を引き連れてまひるは走っていた。



 神社の鳥居が見えてくる。

 石段は雨に濡れて、昼間より暗く見えた。

 まひるは石段の前で傘を握り直し、息を吸う。

 境内まで登ると、奥で白と青が揺れた気がした。

 傘を差していない誰かが、雨の中に立っている。


 まひるは足を止めた。

 雨の音だけが、境内の奥まで満ちていた。

 傘を差していない誰かは、秋雨だった。


 秋雨は水盤の手前に立っている。

 白と青の紐が雨に濡れて、昼間よりも色を濃くしていた。

 髪の先から雫が落ちて、肩の布地に跡を作っている。

 泣いているのか、ただ雨に濡れているだけなのか。

 まひるには見分けられなかった。

 でも、雨に打たれたまま立っていていい理由なんて、まひるの中にはなかった。


「秋雨ちゃん」


 声をかけると、秋雨の肩が跳ねた。

 濡れた前髪の奥で、秋雨がまひるを見つける。

 唇が開いたまま、雨粒が頬を伝う。

 声が出たのは、そのあとだった。


「まひるちゃん」


 その声は雨に濡れて、細くなっていた。

 まひるは傘を握り直したまま、秋雨の方へ歩く。

 足元の石畳に雨粒が跳ねて、靴の先がまた濡れた。


 秋雨は動かなかった。

 逃げるでもなく、近づいてくるでもなく、ただそこに立っていた。

 秋雨は、雨から逃げる場所を知っているはずだった。

 けれど、軒下へ行くことも、水盤へ進むこともせず、そこに立ち尽くしていた。


「傘、忘れたの?」


 秋雨は答えなかった。

 否定も、肯定もしない。

 濡れた袖口を指先で掴んだまま、まひるを見ている。


「ごめんね、まひるちゃん。雨に、なっちゃったね」


 まひるの指が、傘の柄を握りしめた。

 そういうことを聞きたかったわけじゃない。

 でも、目の前で友達がひとりで濡れていることの方が、ずっと嫌だった。


 まひるは秋雨の隣に立った。

 傘の中心を、秋雨の方へずらす。

 秋雨の肩が傘の下に入る。

 そのぶん、まひるの右肩に雨粒がかかった。

 傘の縁から落ちた雫が、服の布地を冷たくする。

 それでも、まひるは傘を戻さなかった。


「まひるちゃん、濡れるよ」

「いい」


 秋雨が、まひるの肩を見る。

 まひるはその視線に気づいていたけれど、傘の位置を変えなかった。


「秋雨ちゃんがひとりで濡れる方が嫌」


 言い終えても、傘は秋雨の方へ傾いたままだった。

 秋雨は何も言わなかった。

 傘を叩く雨音だけが、二人の間を埋めている。

 狭い傘の下にいるのに、肩と肩の間には、まだ細い隙間があった。


 秋雨の指が、袖口の濡れた紐に触れる。

 まひるは傘の柄を握り直した。

 それだけで、傘の中心が揺れる。


「……ごめんなさい」


 秋雨が言った。

 声は小さく、呟くようにこぼした。

 画面の中にあった文字と同じ言葉なのに、雨の中で聞くと、まるで別のものみたいだった。


 まひるはすぐに返事をしなかった。

 秋雨が、もう一度まひるを見た。

 今度は、濡れた前髪の奥からまっすぐに。


「ごめんなさい」


 まひるの目の奥が熱くなる。

 傘の柄を見たまま、口を開く。


「……わたしは、謝ってほしかったわけじゃない」


 秋雨の指が、傘の柄の手前で迷った。

 まひるの手には触れない。

 触れないまま、雨粒だけが二人の指の間を落ちていく。


「でも、文字だけで終わるのは嫌だった」


 秋雨は頷いた。

 説明しようとはしなかった。

 違う、とも言わなかった。

 まひるの指から、傘の柄を握る力が抜けた。

 でも、「いいよ」はまだ出てこなかった。

 どこが痛かったのかを、秋雨に分かってほしかった。

 分かってほしいと思うことが、勝手なのかもしれないと思っても。


「わたしね」


 まひるは言って、傘の柄を握る指に力を込めた。


「お母さんの仕事でいろんな特異現象に、連れて行ってもらったことがあるんだ」


 雨が石畳を叩く。

 水盤へ続く石の上に、水の輪がいくつも広がった。


「でも、肝心なところには入れてもらえなかった。ここから先は危ないから、とか。子供だから、とか」


 秋雨は何も言わない。

 ただ、まひるの方を向いている。


「お母さんが悪いわけじゃないのは分かってる。わたしが小さいのも、力がないのも、本当だし。守られるのが間違ってたわけじゃないと思う」


 言えば言うほど、喉の奥がつかえた。

 それでも、まひるは続けた。

 ここで止めたら、きっとまた同じところで苦しくなる。

 だから、吐き出すように言葉を絞り出した。


「でも、ほんとは、誰かの力になりたかった」


 傘の縁から落ちた水が、まひるの肩を濡らす。


「友達も、ほとんどいなかった。同じクラスの子とか、部活の子とかはいたけど、同じグループにいるだけだった」


 言ってから、まひるは唇を結んだ。

 こんなことまで話すつもりはなかったのに。

 そんなことを考えているからすれ違ったのに。


「特異現象に関わるからって、なんとなく大事にされて。遠巻きにされて。嫌われてたわけじゃないけど、一緒にいるのとは違ったんだ」


 秋雨の袖から、雨粒が落ちる。

 白い布が、雨を含んで重たげに垂れていた。


「だから、わたしね、秋雨ちゃんに友達になろうって言うの――怖かったんだよ」


 秋雨の目が揺れた。

 息を呑む音が雨に吸い込まれていった。

 まひるは、傘の柄を握ったまま続ける。


「でも、秋雨ちゃんの隣に行きたかったから。秋雨ちゃんとなら、一緒にいてもいいんだって思えたから」


 雨音が一度、強くなった。

 それでも、まひるの声は消えなかった。

 まひるは俯いて、最後の言葉を吐き出した。


「わたしの勝手なのは分かってる。でも……嫌だった」


 秋雨はすぐには答えなかった。

 袖口を掴んでいた指が、ゆっくりほどける。

 その指は白く、冷たく、境内の灯りに照らされていた。


「そう、だったんだ」


 秋雨の指が、自分の胸元に触れた。

 両手の先が、白い布の上で小さく重なる。

 そこで自分の声を確かめるように、秋雨は一度だけ唇を結んだ。


「……私、まひるちゃんを守らないといけないって思ってたのは、本当だと思う」


 雨が傘を叩く音が、弱くなっていた。

 けれど、まひるの指に、柄の冷たさが移ってくる。


「まひるちゃんはこの島に来たばかりで、知らないことがたくさんあって。だから、私がちゃんとしないとって思ってた」


 秋雨は言葉を選んでいた。

 一つ言うたびに、傘の縁から雫が落ちた。


「でも、それで、隣に立ってくれたことを見落としてたんだね」


 まひるの肩から、雨粒が一つ落ちた。

 秋雨がそれを見て、今度は傘の柄に指を伸ばした。

 二人の手が、重なった。


 まひるは手を離さなかった。

 秋雨も、引かなかった。

 白い指が、まひるの手と一緒に傘の柄に触れる。

 傘の中心が、二人の間へ戻った。


「まひるちゃん」

「うん」

「私、許してもらえるかな」


 まひるはすぐには答えなかった。

 触れた秋雨の指は冷たかった。

 手を引いてくれた時よりずっと冷たかった。

 さっきまで雨の中にいたからだと思うと、胸が痛くなる。


「……許すよ」


 秋雨の指が、ほんの少しだけ動いた。

 まひるは、傘の縁から落ちる雫を見ていた。


「友達だもん」


 言ってから、まひるは秋雨を見た。

 秋雨の頬を、雨粒が伝っていた。

 それがどこから来たものなのか、まひるには見分けられなかった。


「それに、わたしも、ごめん」

「まひるちゃんがどうして謝るの」


 まひるは首を横に振った。


「わたしも、勝手に決めてたかも。泣かなくていい方がいいって、わたしがそう思っただけなのに」


 秋雨は何か言おうとして、やめた。

 傘を叩く雨音が、言葉の代わりに落ちてくる。


「でも」


 まひるは、秋雨の目を見た。


「秋雨ちゃんに泣いてほしくないのは、まだ変わらない」


 秋雨はまひるを見返した。

 濡れたまつ毛の先に、小さな雫がついている。

 それが雨なのか、涙なのか、まひるには分からなかった。

 でも、それはどちらでもよいと思った。


「うれしいよ。そう言ってもらえるのは、うれしい」


 秋雨の視線が、傘の外へ滑った。

 雨粒が、石畳を黒くしていく。

 水盤の縁から溢れた水が、細い線になって流れていた。


「でも私ね、雨巫女じゃない普通の子になりたいのかは、まだ分からない」


 まひるは、傘の柄を握る手に力を込めた。

 ただ、傘の柄に添えた指をそのままにしている。


「まだ、分からないんだ」

「うん」


 まひるは、その「うん」に込められている意味は、自分が感じる以上に複雑なのだと思った。

 けれど、まひるはそれ以上聞かなかった。

 今ここで、答えを急かす言葉は出てこなかった。

 傘の縁から落ちる雨粒が、二人の肩に同じように触れた。


「……雨から離れた人のこと」


 まひるは傘の柄を握り直した。

 秋雨は、傘の下でまひるの言葉を待っていた。


「また、一緒に考えてもいい?」


 秋雨の手は、触れたままだった。

 雨粒が、白い袖を濡らしていく。

 それから、秋雨は小さく頷いた。


「うん」


 それだけだった。

 でも、まひるには十分だった。

 雨はまだ止まない。

 石畳も、水盤も、白い袖も、色を深くしていく。

 傘の縁から、雨粒が落ちる。

 まひるの肩も、秋雨の肩も、まだ少し濡れていた。


 傘の柄には二人分の手があった。

 指先の冷たさが少しずつほどけていった。

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