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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第2章 友達になったばかりの雨。
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第11話 大切だから、巻き込みたくない。

 秋雨(あきさめ)から「雨から離れた人がいる」と聞いた瞬間、その空白は別のものに見えた。

 そこには名前の代わりに、手がかりが残っていると思えた。

 過去の出来事も、雨巫女の決まりも、まひるはほとんど知らない。

 石碑に刻まれなかった理由だって、本当は別にあるのかもしれない。

 それでも、初めて手がかりに触れた気がした。

 秋雨が泣かなくていい方へ続く、細い糸に。


「……私は、そういうふうに考えたことなかった」


 秋雨の声は、雨が降る前の空気みたいに静かだった。


「私は、お役目から離れた人って意味だと思ってた。病気とか、家の事情とか、島を出たとか。何らかの理由で、雨巫女を続けられなくなった人のことだって」

「でも、続けられなくなったなら、それって辞めたってことじゃないの?」

「それで、いいのかな」


 秋雨は否定しなかった。

 でも、頷いたわけでもなかった。


 まひるは秋雨を見る。

 秋雨は石碑の空白から目を離さない。

 そこに何かが書かれているわけでもないのに、読めない文字を追っていた。


「まひるちゃんの言っていることが、違うとは……思わない」

「じゃあ」

「でも」


 秋雨の指が、自分の袖口をそっと掴んだ。

 白と青の紐が、雨巫女のお守りが、風に小さく揺れる。


「もし、私が雨巫女じゃなくなったら、どうなるんだろう」


 まひるには、その言葉が自分への問いにも、秋雨自身への問いにも聞こえた。

 雨巫女を辞められたらいい。

 秋雨がそう口にしたことはあった。

 でもそれは、絵空事の願いだったのだと思う。

 ――もし、そうなったらいいな。

 そんなふうに、手の届かない場所に置いておけるものだった。

 それが今、石碑の空白という形を持って、急に目の前へ来てしまった。


「私、まだ……そこまでは、考えられてない」


 まひるは、言葉を失った。

 雨巫女を辞められるかもしれない。

 その可能性は、まひるにとっては希望だった。

 でも、当事者である秋雨の横顔は、希望に満ちたものではなかった。


 雨巫女じゃなくなった秋雨。

 それは、まひるが望んだ秋雨のはずなのに。

 秋雨自身は、その秋雨をまだ想像できていない。


「でも」


 まひるは、石碑の空白をもう一度見た。

 そこには名前がない。

 けれど、何もないようには見えなかった。


「でも、可能性はあるんだよね」

「まひるちゃん」

「だったら調べようよ。雨から離れた人が本当にいたのか。どうして名前がないのか。その人は雨巫女を辞めた人だったのか」


 言いながら、まひるの身体が少しだけ前に出た。

 まひるは気持ちが先走っていると思った。

 でも、止められなかった。

 秋雨が泣かなくていい方へ続く細い糸が、今、指先に触れている気がしたら止まらなかった。


「秋雨ちゃんが雨巫女から離れられる道も、どこかにあるかもしれないんだよ」


 秋雨はすぐに答えなかった。

 袖口を掴む指に、少し力が入る。


「まひるちゃんは、優しいね」

「え?」

「そうやって、私のために考えてくれる」


 秋雨の声は穏やかだった。

 けれど、その穏やかさが、まひるには距離を取ったように聞こえた。


「でも、それはそんなに簡単に進めていいことじゃないと思う」

「簡単にって……」

「まひるちゃんは、この島に来たばかりだから」


 秋雨の言っていることは、間違っていない。

 まひるはこの島に来たばかりだ。

 雨巫女のことも、神社のことも、石碑のことも、まだほとんど知らない。

 だから、まひるは言葉を詰まらせた。


「雨巫女のことも、この場所のことも、まだ知らないことが多い」

「……うん」

「昔のことを調べるなら、踏み込んじゃいけない場所もあると思う。聞いていい人と、聞かない方がいい人もいると思う」

「それは、そうかもしれないけど」

「だから」


 秋雨はそこで一度言葉を止めた。

 石碑の空白ではなく、まひるの足元を見る。

 さっきまで歩いてきた、木の根が浮いた細い道。

 秋雨が手を差し出してくれた道。


「私がちゃんとしないと」


 秋雨がまひるではなく、自分に向かって言ったであろう言葉。

 それが、まひるの胸の奥に引っかかった。

 そして、今度はまひるの方を向いて言う。


「まひるちゃんを、危ないところに近づけたくないから」

「……危ないところ?」

「知らないまま傷ついてほしくないの」

「秋雨ちゃん」

「それに、これは私のことだから」

「ねえ、秋雨ちゃん。待ってよ」

「私はね」


 まひるの声は震えていた。弱々しく、小さかった。

 秋雨はまひるを見る。その目は真剣だった。

 真剣だからこそ、まひるは動けなくなった。


「まひるちゃんを、巻き込みたくない」


 ――巻き込みたくない。

 秋雨は、まひるを傷つけるために言ったわけではない。

 そんなことは分かっている。

 秋雨の優しさから出た言葉だ。

 だから、どうしてこんなに苦しいのか、まひるにもすぐには分からなかった。

 それなのに、一言ずつ足場が崩れていく。


「巻き込むって……なに」


 まひるは小さく繰り返した。

 秋雨の表情が揺れる。


「まひるちゃんが迷惑とか、そういう意味じゃないよ」

「じゃあ、どういう意味?」

「まひるちゃんは、私のために一生懸命考えてくれてる。だからこそ、私がちゃんと見てないと」

「見てないと?」


 まひるは、秋雨の手を思い出した。

 さっき、石碑へ向かう細い道で、秋雨が差し出してくれた手。

 冷たくて、細くて、それでもちゃんとまひるを支えてくれた手。

 まひるは握ってくれたことが嬉しかった。

 足元の悪い道でも、一緒に同じ方向へ歩いている気がしたから。


「さっき、手を引いてくれたのも」


 まひるの声は、自分でも驚くくらい静かだった。


「わたしが危なっかしかったから?」


 秋雨はすぐに否定しなかった。

 まひるの胸の奥が、すっと冷える。


「足元が悪かったから」

「うん」

「まひるちゃんが転んだら危ないと思って」

「うん」


 秋雨は何も悪いことをしていない。

 善意の言葉が耳を通る。

 それでも、手の感触が変わっていく。

 あれは、隣にいる人に差し出された手ではなかったのかもしれない。

 危なっかしい外の子を支えるための手だったのかもしれない。

 これまでと同じように、安全な場所に置かれるのかもしれない。


「私は、まひるちゃんを軽く見ていたわけじゃない」


 秋雨は必死に言葉を探していた。


「まひるちゃんはちゃんと考えてくれるし、私が気づかないことにも気づいてくれるし」

「でも、守らないといけないって思ってたんだよね」


 秋雨の言葉が止まった。

 まひるは、ポーチの紐を握った。

 たった数日でもまひるにとっては、一つひとつが大事だった。

 友達記念日だと笑ったこと。

 初めて会った日、雨の中で秋雨を見つけたこと。

 写真を見せたら、秋雨が一つひとつ見てくれたこと。

 水盤の前で、撮れないものと撮りたいものを分けたこと。

 石碑までの道を、手を引かれて歩いたこと。

 それらが折り重なって、少しずつ秋雨の隣に近づけていると思っていた。


 でも、秋雨はまひるのことを、守ってあげなきゃいけない子として見ていたのかもしれない。


「……わたし、秋雨ちゃんの隣にいるつもりだった」


 言葉にした瞬間、胸の奥が痛くなった。


「一緒に考えてるつもりだった」


 秋雨が息を止める。

 まひるは言葉を出すたびに、喉の奥が痛くなる。


「秋雨ちゃんが泣かなくていい方法を、隣で探してるつもりだった」

「まひるちゃん」

「でも、秋雨ちゃんは、わたしのことそう見てなかったんだよね」


 秋雨はすぐに首を振った。


「違う」

「違うなら、なんで巻き込みたくないって言うの」

「それは」

「わたし、秋雨ちゃんの外にいるの?」


 言ってから、まひるは自分の言葉に傷ついた。

 秋雨も、まひるの言葉を受け止めきれないみたいに立ち尽くしている。

 まひるは小さく首を振った。


「ごめん。今の、違う」


 秋雨を責めたいわけじゃない。

 問い詰めたいわけでもない。

 ただ、胸の奥が痛くて、どう言えばいいのか分からない。


「秋雨ちゃんに悪気がないのは分かってる」


 言えば言うほど、言葉の形が崩れていく。


「分かってるんだけど――」


 そこから先が出てこなかった。

 秋雨は一歩近づこうとした。

 前のめりだった姿勢は、いつの間にか身構えるように小さくなっていた。

 けれど、まひるはそのぶんだけ下がった。

 その動きで、秋雨の足が止まる。


「――秋雨ちゃん、ごめん」


 まひるは、自分の声が小さくなっていくのを聞いた。


「わたし、帰るね」

「まひるちゃん」


 秋雨が一歩踏み出す。

 でも、まひるは振り返らなかった。

 今振り返ったら、もっと嫌なことを言ってしまう気がした。

 秋雨を責めたいわけではない。

 傷つけたいわけでもない。

 けれどこのままここにいたら、秋雨を傷つける言葉を選んでしまいそうだった。


「まひるちゃん……」


 秋雨は追いかけようとした。

 けれど、次の一歩が出なかった。

 追いかけて、何を言えばいいのか分からなかった。

 違う、と言いたかった。

 でも、何が違うのかを、秋雨自身がまだ掴めていなかった。




 まひるは細い道の向こうへ向かって歩く。

 さっきは秋雨に手を引かれて通った道を、今度は一人で戻っていく。

 手の中には、もう秋雨の冷たさは残っていなかった。


 雨から離れた人。

 その言葉だけが、頭の中でまだ消えない。

 手がかりは見つかった。

 秋雨が雨巫女から離れられる道も、どこかにあるのかもしれない。

 そう思ったばかりだった。

 なのに、石碑の前から離れていくのは、自分の方だった。


 なにやってるんだろう、わたし。

 秋雨の隣から。

 秋雨の手から。

 さっきまで一緒に見ていた空白から。

 足元が悪くて、木々に手を添えながら。

 まひるは、ひとりで道を戻っていった。

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