第11話 大切だから、巻き込みたくない。
秋雨から「雨から離れた人がいる」と聞いた瞬間、その空白は別のものに見えた。
そこには名前の代わりに、手がかりが残っていると思えた。
過去の出来事も、雨巫女の決まりも、まひるはほとんど知らない。
石碑に刻まれなかった理由だって、本当は別にあるのかもしれない。
それでも、初めて手がかりに触れた気がした。
秋雨が泣かなくていい方へ続く、細い糸に。
「……私は、そういうふうに考えたことなかった」
秋雨の声は、雨が降る前の空気みたいに静かだった。
「私は、お役目から離れた人って意味だと思ってた。病気とか、家の事情とか、島を出たとか。何らかの理由で、雨巫女を続けられなくなった人のことだって」
「でも、続けられなくなったなら、それって辞めたってことじゃないの?」
「それで、いいのかな」
秋雨は否定しなかった。
でも、頷いたわけでもなかった。
まひるは秋雨を見る。
秋雨は石碑の空白から目を離さない。
そこに何かが書かれているわけでもないのに、読めない文字を追っていた。
「まひるちゃんの言っていることが、違うとは……思わない」
「じゃあ」
「でも」
秋雨の指が、自分の袖口をそっと掴んだ。
白と青の紐が、雨巫女のお守りが、風に小さく揺れる。
「もし、私が雨巫女じゃなくなったら、どうなるんだろう」
まひるには、その言葉が自分への問いにも、秋雨自身への問いにも聞こえた。
雨巫女を辞められたらいい。
秋雨がそう口にしたことはあった。
でもそれは、絵空事の願いだったのだと思う。
――もし、そうなったらいいな。
そんなふうに、手の届かない場所に置いておけるものだった。
それが今、石碑の空白という形を持って、急に目の前へ来てしまった。
「私、まだ……そこまでは、考えられてない」
まひるは、言葉を失った。
雨巫女を辞められるかもしれない。
その可能性は、まひるにとっては希望だった。
でも、当事者である秋雨の横顔は、希望に満ちたものではなかった。
雨巫女じゃなくなった秋雨。
それは、まひるが望んだ秋雨のはずなのに。
秋雨自身は、その秋雨をまだ想像できていない。
「でも」
まひるは、石碑の空白をもう一度見た。
そこには名前がない。
けれど、何もないようには見えなかった。
「でも、可能性はあるんだよね」
「まひるちゃん」
「だったら調べようよ。雨から離れた人が本当にいたのか。どうして名前がないのか。その人は雨巫女を辞めた人だったのか」
言いながら、まひるの身体が少しだけ前に出た。
まひるは気持ちが先走っていると思った。
でも、止められなかった。
秋雨が泣かなくていい方へ続く細い糸が、今、指先に触れている気がしたら止まらなかった。
「秋雨ちゃんが雨巫女から離れられる道も、どこかにあるかもしれないんだよ」
秋雨はすぐに答えなかった。
袖口を掴む指に、少し力が入る。
「まひるちゃんは、優しいね」
「え?」
「そうやって、私のために考えてくれる」
秋雨の声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさが、まひるには距離を取ったように聞こえた。
「でも、それはそんなに簡単に進めていいことじゃないと思う」
「簡単にって……」
「まひるちゃんは、この島に来たばかりだから」
秋雨の言っていることは、間違っていない。
まひるはこの島に来たばかりだ。
雨巫女のことも、神社のことも、石碑のことも、まだほとんど知らない。
だから、まひるは言葉を詰まらせた。
「雨巫女のことも、この場所のことも、まだ知らないことが多い」
「……うん」
「昔のことを調べるなら、踏み込んじゃいけない場所もあると思う。聞いていい人と、聞かない方がいい人もいると思う」
「それは、そうかもしれないけど」
「だから」
秋雨はそこで一度言葉を止めた。
石碑の空白ではなく、まひるの足元を見る。
さっきまで歩いてきた、木の根が浮いた細い道。
秋雨が手を差し出してくれた道。
「私がちゃんとしないと」
秋雨がまひるではなく、自分に向かって言ったであろう言葉。
それが、まひるの胸の奥に引っかかった。
そして、今度はまひるの方を向いて言う。
「まひるちゃんを、危ないところに近づけたくないから」
「……危ないところ?」
「知らないまま傷ついてほしくないの」
「秋雨ちゃん」
「それに、これは私のことだから」
「ねえ、秋雨ちゃん。待ってよ」
「私はね」
まひるの声は震えていた。弱々しく、小さかった。
秋雨はまひるを見る。その目は真剣だった。
真剣だからこそ、まひるは動けなくなった。
「まひるちゃんを、巻き込みたくない」
――巻き込みたくない。
秋雨は、まひるを傷つけるために言ったわけではない。
そんなことは分かっている。
秋雨の優しさから出た言葉だ。
だから、どうしてこんなに苦しいのか、まひるにもすぐには分からなかった。
それなのに、一言ずつ足場が崩れていく。
「巻き込むって……なに」
まひるは小さく繰り返した。
秋雨の表情が揺れる。
「まひるちゃんが迷惑とか、そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、どういう意味?」
「まひるちゃんは、私のために一生懸命考えてくれてる。だからこそ、私がちゃんと見てないと」
「見てないと?」
まひるは、秋雨の手を思い出した。
さっき、石碑へ向かう細い道で、秋雨が差し出してくれた手。
冷たくて、細くて、それでもちゃんとまひるを支えてくれた手。
まひるは握ってくれたことが嬉しかった。
足元の悪い道でも、一緒に同じ方向へ歩いている気がしたから。
「さっき、手を引いてくれたのも」
まひるの声は、自分でも驚くくらい静かだった。
「わたしが危なっかしかったから?」
秋雨はすぐに否定しなかった。
まひるの胸の奥が、すっと冷える。
「足元が悪かったから」
「うん」
「まひるちゃんが転んだら危ないと思って」
「うん」
秋雨は何も悪いことをしていない。
善意の言葉が耳を通る。
それでも、手の感触が変わっていく。
あれは、隣にいる人に差し出された手ではなかったのかもしれない。
危なっかしい外の子を支えるための手だったのかもしれない。
これまでと同じように、安全な場所に置かれるのかもしれない。
「私は、まひるちゃんを軽く見ていたわけじゃない」
秋雨は必死に言葉を探していた。
「まひるちゃんはちゃんと考えてくれるし、私が気づかないことにも気づいてくれるし」
「でも、守らないといけないって思ってたんだよね」
秋雨の言葉が止まった。
まひるは、ポーチの紐を握った。
たった数日でもまひるにとっては、一つひとつが大事だった。
友達記念日だと笑ったこと。
初めて会った日、雨の中で秋雨を見つけたこと。
写真を見せたら、秋雨が一つひとつ見てくれたこと。
水盤の前で、撮れないものと撮りたいものを分けたこと。
石碑までの道を、手を引かれて歩いたこと。
それらが折り重なって、少しずつ秋雨の隣に近づけていると思っていた。
でも、秋雨はまひるのことを、守ってあげなきゃいけない子として見ていたのかもしれない。
「……わたし、秋雨ちゃんの隣にいるつもりだった」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛くなった。
「一緒に考えてるつもりだった」
秋雨が息を止める。
まひるは言葉を出すたびに、喉の奥が痛くなる。
「秋雨ちゃんが泣かなくていい方法を、隣で探してるつもりだった」
「まひるちゃん」
「でも、秋雨ちゃんは、わたしのことそう見てなかったんだよね」
秋雨はすぐに首を振った。
「違う」
「違うなら、なんで巻き込みたくないって言うの」
「それは」
「わたし、秋雨ちゃんの外にいるの?」
言ってから、まひるは自分の言葉に傷ついた。
秋雨も、まひるの言葉を受け止めきれないみたいに立ち尽くしている。
まひるは小さく首を振った。
「ごめん。今の、違う」
秋雨を責めたいわけじゃない。
問い詰めたいわけでもない。
ただ、胸の奥が痛くて、どう言えばいいのか分からない。
「秋雨ちゃんに悪気がないのは分かってる」
言えば言うほど、言葉の形が崩れていく。
「分かってるんだけど――」
そこから先が出てこなかった。
秋雨は一歩近づこうとした。
前のめりだった姿勢は、いつの間にか身構えるように小さくなっていた。
けれど、まひるはそのぶんだけ下がった。
その動きで、秋雨の足が止まる。
「――秋雨ちゃん、ごめん」
まひるは、自分の声が小さくなっていくのを聞いた。
「わたし、帰るね」
「まひるちゃん」
秋雨が一歩踏み出す。
でも、まひるは振り返らなかった。
今振り返ったら、もっと嫌なことを言ってしまう気がした。
秋雨を責めたいわけではない。
傷つけたいわけでもない。
けれどこのままここにいたら、秋雨を傷つける言葉を選んでしまいそうだった。
「まひるちゃん……」
秋雨は追いかけようとした。
けれど、次の一歩が出なかった。
追いかけて、何を言えばいいのか分からなかった。
違う、と言いたかった。
でも、何が違うのかを、秋雨自身がまだ掴めていなかった。
まひるは細い道の向こうへ向かって歩く。
さっきは秋雨に手を引かれて通った道を、今度は一人で戻っていく。
手の中には、もう秋雨の冷たさは残っていなかった。
雨から離れた人。
その言葉だけが、頭の中でまだ消えない。
手がかりは見つかった。
秋雨が雨巫女から離れられる道も、どこかにあるのかもしれない。
そう思ったばかりだった。
なのに、石碑の前から離れていくのは、自分の方だった。
なにやってるんだろう、わたし。
秋雨の隣から。
秋雨の手から。
さっきまで一緒に見ていた空白から。
足元が悪くて、木々に手を添えながら。
まひるは、ひとりで道を戻っていった。




