第10話 雨から離れていった、雨巫女。
秋雨は社務所の横を通り、さらに奥へ進んだ。
水盤へ行く道よりも細い道だった。
木の根が土の上に浮いていて、ところどころ石が埋まっている。
まひるは足元を見ながら歩いた。
スニーカーにしてきたとはいえ、木の根を避けながら進むのは思ったより難しい。
秋雨が一度立ち止まり、振り返る。
「まひるちゃん、手」
「え?」
「こっち、滑りやすいから」
秋雨が手を差し出した。
まひるは、その手を少しだけ見た。
自分で歩けるし、転びそうになっているわけでもない。
でも、差し出された手に触れたいと思った。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
まひるが手を重ねると、秋雨は当たり前みたいに握った。
指先が冷たくて、一瞬、まひるの身体がぴくりと動いた。
「大丈夫?」
「大丈夫。秋雨ちゃんが引っぱってくれるし」
まひるの手を握ったまま歩き出した。
木の根をまたぐたびに、秋雨の指がほんの少し強くなる。
そのたびに、まひるは足元を見るふりをした。
「秋雨ちゃん、こういう道よく来るの?」
「毎日ではないけど、祭りの前は来ることがあるよ」
「準備?」
「挨拶、みたいなものかな」
誰に、とは聞かなくても分かった。
まひるはそれ以上すぐには質問しなかった。
道の先に、木々に囲まれた小さな空間が見えてくる。
祠というより、石を置くために開けられた場所だった。
「着いたよ、まひるちゃん」
中央に、背の低い石碑が並んでいる。
古いものは角が丸くなり、文字も薄くなっていた。
新しいものは表面が滑らかで、刻まれた文字の影がまだ濃い。
秋雨は石碑の少し手前で、まひるの手を離した。
まひるの手の中に、冷たさだけが残る。
水盤より何もない場所だと、秋雨は言っていた。
でも、まひるにはそう見えなかった。
ここには名前があった。
知らない人たちの名前が、石の中に残されていた。
「ここに、雨巫女だった人たちの名前が刻まれてる」
「昔の、雨巫女の、人」
「うん」
秋雨は一番手前の石碑の前に立った。
姿勢を正して、小さく頭を下げる。
まひるも慌ててそれに倣った。
顔を上げてから、石碑を見る。
いくつもの名前が刻まれていた。
苗字があるものと、名前だけのもの。
古い字で読みにくいもの。
まひるには読み方が分からないものもあった。
「秋雨ちゃんは全部読めるの?」
「全部は無理。古いものは、読み方も変わってるから」
「そっか、ずっと続いてるんだもんね」
「でも、この島にまだ居る人もいるよ」
「そうなの?」
「うん。ずっと同じ人が雨巫女でいるわけじゃないから」
秋雨の声は、さっき写真を見ていた時より落ち着いていた。
まひるはスマホに触れかけて、やめた。
「撮らないんだ」
秋雨の声は責めるものではなかった。
けれど、その静かな声はただの確認とも違った。
ここをどう見るのか、そっと見られているような気がした。
「うん」
「水盤と同じ?」
「ちょっと違う。ここは、今のわたしが撮ったら失礼な気がする」
口にしてから、まひるは自分の言葉に驚いた。
「まひるちゃんは、大切にしてくれるんだね」
秋雨はそう言って、石碑へ視線を戻した。
まひるも隣に並ぶ。
石に刻まれた名前は、ただそこにあるだけだった。
でも、ひとつひとつの奥に、まひるの知らない時間がある。
「秋雨ちゃんの名前も、ここに刻まれるの?」
「たぶんね。雨巫女としてお役目を終えたら、刻んでもらえるんじゃないかな」
「それって、嬉しい?」
秋雨は迷わず頷いた。
けれど、その声は浮ついたものではなかった。
「嬉しいと思う。ここに名前が残るのは、雨巫女としてちゃんと役目を果たしたってことだから」
「そう、なんだ」
まひるは、秋雨の横顔を見た。
秋雨は石碑を見ている。
自分の未来がそこにあるみたいに、静かに見ている。
やっぱり撮りたいとは、思えなかった。
「いつか私が雨巫女じゃなくなっても、ここには、雨巫女だった私がいる」
秋雨は石碑の端に落ちた葉を拾い、そっと脇へ寄せた。
「ここに刻まれたら、雨巫女だった私は、ずっと残ってくれる」
秋雨の声は穏やかだった。
まひるは、その穏やかさの方が少し怖かった。
朝が苦手で、布団を倒してきた秋雨。
まひるの写真を見て、画面とまひるを見比べて笑った秋雨。
その全部ではなく、雨巫女だった秋雨だけが、ここに残る。
そう思うと、喉の奥が詰まった。
「……変なこと言ってもいい?」
「いいよ」
「わたしは、秋雨ちゃんの名前が残るのは……ちょっと怖い」
「……外から見ると、そう見えるのかな」
「だって、石になっちゃうみたいだから」
「へ?」
言ってから、まひるは自分でも乱暴な言い方だと思った。
でも、他の言葉が出てこなかった。
秋雨は怒らなかった。
ただ、石碑を見たまま、ゆっくり瞬きをした。
「石になっちゃう?」
「変なこと言ってるよね、失礼かな、ごめんね」
「ううん。大丈夫だよ、まひるちゃん」
「本当?」
「私も、まひるちゃんの言いたいこと、分かる気がするから」
まひるは、ポーチの中のスマホを思い出した。
さっき見せた写真たちは全部軽かった。
雨巫女の重さとは全然違った。
雨合羽も、白い花も、看板も。
その軽さの中にいる秋雨の方が、まひるは好きだった。
「まひるちゃん。来てくれて、ありがとう」
「……うん」
まひるは頷いた。
ちゃんと見に来てよかったと思った。
急いで来て、流し見で帰らなくてよかった。
ただの石にしなくてよかった。
けれど、ここにあるものを全部受け取れたわけではない。
「……ん?」
名前の並びを見ているうちに、まひるは眉を寄せた。
古い石碑と新しい石碑の間、名前が詰まっている場所と妙に間が空いている場所がある。
欠けているわけではないが、そこだけ名前の流れが途切れて見えた。
「……ねえ、秋雨ちゃん」
「なに?」
「ここ、名前の間が空いてない?」
まひるが指を伸ばしかけると、秋雨が小さく手で制した。
触らないで、というより、ここではそうするものではない。
そういう、静かな止め方だった。
まひるは慌てて手を引っ込める。
「ご、ごめん」
「ううん。大丈夫……ほんとうだ、空いてるね」
「そうなの。これ、不自然じゃない?」
秋雨は空白を見て、しばらく黙った。
それを空白として見たことは、あまりなかったのかもしれない。
けれど、何かを思い出したように、ゆっくりと言葉を吐いた。
「私、前に聞いたことがある。ここには、名前を刻まれなかった雨巫女がいるって」
「名前を残してもらえなかった雨巫女がいたってこと?」
「ううん、ちょっと違う。私が聞いたのは、雨から離れた人がいたって話」
その言葉が、まひるの中に引っかかった。
「雨から、離れた……?」
「お役目から離れた人、ってことだと思うけど、詳しいことは私も知らないんだ」
「でも」
まひるは、石碑の空白を見た。
名前はないけど、何もないようには見えなかった。
「雨から離れたって……もしかして、雨巫女を辞めたってことじゃないの?」
秋雨は驚き、目を見開いた。息を呑む音だけが返事になった。
木々の間を抜けた風が、石碑の前を通っていった。




