第7話 しずかないちにち
朝の光が窓ガラスを抜け、古い木の床に白く四角い模様を落としていた。引き戸は固く閉ざされたままである。木枠の隙間からかすかに冷たい空気が流れ込んできていた。外を歩く人間の足音は聞こえない。遠くで小鳥が鳴く声がするだけだった。
本棚の最下段の奥から、灰色と白のまだら模様の小さな体が這い出してくる。子猫は前足をいっぱいに伸ばした。背中を弓のように反らせて、大きなあくびをする。小さな鋭い歯が朝日に照らされて白く光った。寝起きの体はまだ少し強張っている。ブルブルと一度身震いをして、子猫は図書館の中央へ向かって歩き出した。
誰もいない空間は、いつもより広く感じられた。人間の足音がしない。服の擦れる音も、ページをめくる音も聞こえない。子猫の爪が床板に当たる小さな音だけが、天井の高い空間に吸い込まれていく。子猫は引き戸の前に座り込んだ。木製の古い戸の隙間に鼻先を近づける。そこには微かに昨日の匂いが残っていた。
少し汗ばんだような、でも怯えたような人間の匂いである。昨日やってきた男の残滓だった。子猫にとって人間の匂いはいくつか種類がある。甘い匂い、泥の匂い、古い布の匂い。昨日の男の匂いは、どこか硬く尖っていた。しかし今はもう、風に吹かれて薄らいでいる。子猫は何度か鼻をひくひくさせた。やがて興味を失ったように背を向ける。
今日は誰も来ない。それを誰に教えられたわけでもないのに、子猫は本能で理解していた。
午前中の時間は、静かに、そしてゆっくりと流れていく。太陽が高くなるにつれて、床に落ちた光の模様が少しずつ形を変えていく。子猫は本棚の周囲をパトロールし始めた。いつもの日課である。左の壁際の棚から順に、鼻先をこすりつけながら歩く。古い本の匂いがした。紙とインクが長い時間をかけて熟成された、甘くて埃っぽい匂いだ。
ふと、子猫の足が止まった。下から三段目の棚に、ほんの少しだけ隙間がある。普段なら見過ごすような小さな隙間だった。しかし誰もいない静けさが、子猫の好奇心を刺激したのである。前足を棚の縁にかけた。後ろ足に力を込めて、軽く跳躍する。
爪が木に引っかかり、見事に三段目へと登り切った。子猫にとって、ここは初めて到達する高さだった。いつも見上げていた背表紙が、今は目の前にある。赤や青、緑の色褪せた布張りの本がずらりと並んでいた。子猫は慎重に足を踏み出す。本の隙間には薄く埃が積もっている。歩くたびに小さな足跡が残った。
そこから見下ろす図書館の景色は、床から見るものとは全く違っていた。本棚の列が迷路のように入り組んでいるのが分かる。天井のシミの形もはっきりと見えた。子猫は尻尾をピンと立てて、誇らしげに棚の上を歩く。冒険者の気分だったのだろう。一冊の本の背表紙に顔をこすりつけた。ざらざらとした手触りが心地よい。
しかし、冒険は長くは続かなかった。棚の奥に張られた小さな蜘蛛の巣が、鼻先に引っかかったのである。子猫は驚いて首を振った。前足で顔を洗うようにして蜘蛛の糸を取り払う。その拍子に足元が滑り、子猫は棚から転げ落ちた。
短い悲鳴を上げて、床にドスンと着地する。幸い怪我はなかった。しかしひどく自尊心を傷つけられたような顔で、子猫は急いで本棚の陰に隠れた。しばらく毛繕いをして、自分を落ち着かせる。誰も見ていなかったことが救いだった。人がいたら、きっと笑われていただろう。
昼時になっても、引き戸が開く気配はない。窓の外では風が吹き、伸び放題の草が揺れていた。太陽の光はすっかり図書館の中央まで差し込んでいる。埃の粒が光の帯の中で、ゆっくりと雪のように舞っていた。
子猫はお腹が空いたことに気づく。部屋の隅にある小さな皿の前に向かった。そこにはいつかの小柄な老婆が置いていってくれた、小さな丸い粒が残っている。カリカリと音を立ててそれを食べた。静かな空間に、自分の咀嚼音だけが響き渡る。水を飲み、口の周りを丁寧に舐めて綺麗にした。
満腹になると、急激な眠気が襲ってきた。子猫は光の当たる一番暖かい場所を探す。窓際の古い木製椅子の上が、今日の特等席だった。軽くジャンプして座面に乗り、体を丸くする。太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ木は、とても温かい。子猫は目を細め、静かな呼吸を始めた。
夢を見た。
大きな金色の犬が、外を駆け回っている夢だ。風の匂いと、土の匂いが混ざり合っている。子猫はそれを窓の内側から眺めていた。安全な場所から見る外の世界は、恐ろしくもあり魅力的でもある。犬が遠吠えをしたところで、子猫は目を覚ました。
風の音で目が覚めたらしい。窓ガラスがガタガタと鳴っている。日はすでに西へ傾き始めていた。図書館の中の光は、白から淡いオレンジ色へと変わっている。子猫は大きく伸びをして、椅子から飛び降りた。
午後になると、空気は少しだけ冷たさを帯びてきた。古い建物は外の気温に影響されやすい。子猫は冷たくなった床を避けるように、再び本棚の隙間へと潜り込んだ。今度は登るのではなく、一番下の段の奥深くへ進む。そこは薄暗く、本の背表紙が壁のようになって冷気を遮ってくれている。
周囲には古い紙の束がある。誰かが落としたのか、それとも昔からそこにあるのかは分からない。子猫はその紙の束を前足で掻き寄せ、自分の周りに小さな巣のように形作った。紙の擦れる乾いた音が心地よい。
誰も来ない一日は、とても長い。人間の訪問があれば、子猫は身を隠したり、時には近寄ってみたりと忙しい。感情も揺れ動く。好奇心、警戒心、そしてほんの少しの安心感。人間が来るたびに、図書館の空気はかき混ぜられる。しかし今日は、空気がずっと淀んだままだ。
それは決して悪いことではない。子猫は丸くなりながら、静寂の味を噛み締めていた。誰も自分のテリトリーを侵さない安心感がある。いつでも好きな時に眠り、好きな時に歩き回れる。この巨大な本棚の森は、今日一日は完全に自分だけのものだった。
夕暮れが近づくにつれ、窓からの光は赤みを増していく。本棚の背表紙が、夕日を浴びて燃えるように赤く染まった。図書館全体が黄金色に包まれる。一日の中で最も美しい時間である。子猫は再び這い出し、その赤い光の真ん中に座った。
自分の影が、床の上に長く伸びている。子猫はその影を不思議そうに見つめた。前足を動かすと、影も動く。首を傾げると、影も傾く。小さな頭で何かを考えているように、子猫はじっと影と見つめ合っていた。世界には自分と、この黒い影しか存在しないような錯覚に陥る。
やがて太陽が地平線の下に沈み、急激に世界から色が失われていった。青暗い夜が、音もなく図書館に忍び込んでくる。窓の外からは虫の鳴き声が聞こえ始めた。昼間とは違う、冷たい夜の風が建物を撫でる。
引き戸は結局、一度も開かなかった。
子猫は窓辺に移動し、外の暗闇をじっと見つめた。人間の来ない夜は、どこか少しだけ寂しい。あんなに一人が心地よかったはずなのに、今は誰かの足音を探している自分がいる。あの老婆の穏やかな声や、泥だらけの女の子の小さな手。彼らがもたらす微かな騒がしさが、少しだけ恋しかった。
だが、明日はまた誰かが来るかもしれない。この扉が開いて、新しい匂いが流れ込んでくるはずだ。子猫はそう信じているように、引き戸の方へ一度だけ振り返った。
夜の闇が完全に図書館を覆い尽くす。月明かりが床をうっすらと青く照らしていた。子猫はいつものお気に入りの場所、本棚の最下段の奥へと戻っていく。冷たい床と、古い本の匂いに包まれて、小さな体を丸くした。
誰も扉を開けない日。図書館は静かな呼吸だけを繰り返し、子猫は一人で自分の世界を少しだけ広げた。明日の訪問者を待ちわびながら、静かな眠りにつく。明日もまた、ここで新しい物語が始まる。それを知っているのは、この小さな猫と、古い本たちだけだった。
図書館に誰も来ない日。
というのも、ありかなと。




