第6話 理解する
その人は、入口の前で立ち止まった。
看板を見上げて、建物を見て、もう一度看板を見た。図書館、と書いてあった。文字は薄れていたが読めた。瓦屋根の平屋で、壁に蔦が這っていて、窓は曇っていた。古い建物だった。でも廃墟ではなかった。入口の引き戸は閉まっていたが、鍵がかかっている様子はなかった。
男だった。三十代の半ばくらいで、眼鏡をかけていた。休日の服装だったが、どこか几帳面な印象があった。シャツの裾がきちんとズボンに入っていて、靴は汚れていなかった。手には何も持っていなかった。
引き戸に手をかけた。少しだけ力を入れると、木が溝を擦る音がして、戸が開いた。中を覗いた。薄暗かった。本棚が並んでいるのが見えた。埃の匂いがした。古い紙の匂いも。
一歩、中に入った。
本棚は木製で、天井近くまであった。背表紙が並んでいた。色褪せたものが多かったが、ところどころに新しい本も混じっていた。窓から入る光が、床の上に四角い模様を作っていた。静かだった。外の虫の声が遠くに聞こえるだけだった。
悪くない場所だ、と思った。本が好きだった。古い本も好きだった。こういう場所があることを知らなかった。近所を散歩していて、たまたま見つけた。入ってみようと思ったのは、本があると分かったからだった。
棚のあいだを歩き始めた。指先で背表紙をなぞるようにして、一冊ずつ眺めた。並びに規則はなかった。小説の隣に図鑑があり、図鑑の隣に画集があった。分類されていない本棚は、普段行く図書館とは違っていた。でも、それが不快ではなかった。何が隣に来るか分からない棚には、整理された棚にはない偶然があった。
三つ目の棚の前で足を止めた。中段に、気になる背表紙があった。古い短編集だった。手を伸ばして抜き取ろうとしたとき、棚の下のほうで何かが動いた。
体が固まった。
棚の最下段の隙間から、小さな生き物が顔を出していた。灰色と白のまだらの毛並み。青みがかった灰色の目。耳がぴんと立っていて、こちらをまっすぐ見ていた。
猫だった。
男は一歩下がった。反射的だった。手が棚から離れた。抜きかけていた本が、元の位置に戻った。
猫が苦手だった。
嫌いというのとは少し違った。怖いというのとも違った。ただ、どうしていいか分からなかった。犬なら分かる。犬は呼べば来るし、尻尾を振るし、何を考えているか大体分かる。猫は違った。何を考えているか分からない。急に引っ掻くかもしれない。急に飛びかかるかもしれない。予測できないものが苦手だった。
子猫は男を見ていた。逃げなかった。近づきもしなかった。棚の下の隙間から顔だけ出して、じっとこちらを見ていた。尻尾が見えた。床の上でゆっくり揺れていた。
男は棚から離れた。別の棚に移った。子猫がいる棚から、二つ分離れた場所。ここなら大丈夫だろう。背表紙を眺めた。さっきとは違う本が並んでいた。歴史書が多かった。一冊を引き抜いた。地方の郷土史だった。ページを開いてみた。活字が古くて、紙が黄ばんでいた。
読みながら、ときどき子猫がいた方向を見た。見えなかった。棚の陰になっていた。見えないなら大丈夫だった。いないのと同じだった。
窓際に椅子があった。座面がへこんだ木の椅子。男はそこに座った。郷土史を膝の上に開いて、読み始めた。
静かだった。ページをめくる音だけが聞こえた。外の風が窓を揺らす音がときどき混じった。悪くなかった。こういう時間は好きだった。知らない場所で、知らない本を読む。それだけで休日としては十分だった。
猫のことは忘れかけていた。
三十ページほど読んだとき、足元で音がした。
小さな音だった。爪が床を擦る音。男は本から目を上げた。足元を見た。
子猫が、椅子の脚のそばを通り過ぎていった。
男の体がこわばった。足を引いた。椅子が少しだけ後ろにずれて、床が鳴った。子猫は立ち止まった。男を見上げた。青みがかった灰色の目が、下からまっすぐ見ていた。
動けなかった。
子猫は三秒ほど男を見て、それから興味を失ったように視線を外した。椅子の脚の横を通り過ぎて、隣の本棚のほうへ歩いていった。足音はほとんど聞こえなかった。肉球が床を踏む、かすかな音だけ。
男は息を吐いた。止めていたことに気づいた。
子猫は隣の棚の前で立ち止まった。棚の下段に鼻を近づけて、何かの匂いを嗅いでいた。それから前足で棚の縁を引っ掻いた。爪が木を擦る音がした。男はそれを見ていた。見ないようにしていたのに、見ていた。
子猫は男に近づいてこなかった。
男がいることを知っているのか知らないのか分からなかった。でも、近づいてこなかった。棚の前で自分の用事をしていた。匂いを嗅いで、爪を研いで、ときどき床の上の何かを前足で転がして。男のことは気にしていないようだった。
男は本に目を戻した。
読んだ。郷土史の続きを読んだ。この地域にかつて小さな私設文庫があったという記述を見つけた。明治の終わりに、地元の教師が自宅の一室を開放して本を並べたのが始まりだという。それがこの建物なのかどうかは分からなかった。でも、そうかもしれないと思った。
読みながら、子猫の気配を感じていた。音で分かった。爪が床を擦る音。棚の下に潜り込む音。何かを転がす音。どれも小さな音だった。男を脅かすような音ではなかった。ただ、そこにいるという音だった。
いつの間にか、音が気にならなくなっていた。
最初は音がするたびに体がこわばった。足元を通り過ぎたときは椅子ごと後ずさった。でも子猫は近づいてこなかった。一度も近づいてこなかった。男の足元を通ったのは、ただ通り道だっただけだ。男に用があったわけではない。
そのことに気づいたのは、本を半分ほど読み終えた頃だった。
子猫は棚のあいだを自由に歩き回っていた。ときどき男の視界の端を横切った。最初はそのたびに目で追っていたが、やがてそれもしなくなった。横切るものがあっても、ページから目を上げなくなった。音が聞こえても、体がこわばらなくなった。
子猫がいる。それだけのことだった。
窓の外で鳥が鳴いた。子猫の耳がそちらに向いた。男もつられて窓を見た。同じものを見ていた。同じ音を聞いていた。同じ空間にいて、それぞれ別のことをしていて、でもときどき同じものに反応する。それだけの関係だった。それだけでよかった。
本を閉じたとき、窓の光が傾いていた。午後の遅い時間だった。男は椅子から立ち上がって、本を棚に戻した。元あった場所に、正確に。背表紙の位置を指で確かめてから、手を離した。
帰ろうとして、入口のほうへ歩いた。本棚のあいだを抜けて、引き戸の前まで来た。
ふと、足を止めた。
振り返った。
子猫は本棚の上にいた。中段の棚の上に座って、前足を揃えて、こちらを見ていた。さっきと同じ目だった。青みがかった灰色の、静かな目。逃げもしないし、近づきもしない。ただ、見ていた。
男は子猫を見た。子猫は男を見ていた。
怖くなかった。
そのことに、今、気づいた。さっきまで怖かったのに、今は怖くなかった。いつから怖くなくなったのか分からなかった。本を読んでいるあいだに、いつの間にか。子猫が何もしなかったから。近づかなかったから。ただそこにいただけだから。
男は小さく頭を下げた。誰に対してなのか、自分でもよく分からなかった。図書館に対してか、本に対してか、あるいはあの小さな生き物に対してか。
引き戸を開けて、外に出た。日差しが眩しかった。草の匂いがした。風が吹いて、シャツの裾が揺れた。図書館の中の空気が、服の繊維に少しだけ染み込んでいるような気がした。埃と、古い紙と、それからもうひとつ、名前のつけられない匂い。
畦道を歩きながら、男は自分の手を見た。本を持っていた手だった。ページをめくっていた指だった。その指が、さっきまで猫のいる空間にいたのだと思うと、少しだけ不思議だった。
怖くなかった。あの猫に限っては。
それが全部の猫に当てはまるかどうかは分からなかった。たぶん、当てはまらない。街で猫を見かけたら、やっぱり道を変えるだろう。でも、あの図書館の、あの棚のあいだにいる、あの灰色と白の子猫については、怖くなかった。
理由は分からなかった。分からなかったが、分からないままでいいと思った。
男は眼鏡を指で押し上げて、畦道の先を見た。道は真っ直ぐだった。来たときと同じ道だった。でも、帰り道の空気は少しだけ違って感じた。何が違うのかは、うまく言えなかった。
猫がメインの話ですが、あえて猫NGな人という話を。
余談というか。基本的に補助はquarterfullのAIですが、quarterfullは使用上限などもあって、この話は普段から使っているGoogleGeminiに補助を任せたもの。
AIの個性というか、Geminiの場合は文章がややぶつ切りというか、1文が短いなどの違いがあります(その分端的ではあるかも?加筆修正の余裕ができたら詳しく見直してみたいなとも思ったり)。
quarterfullは、そもそも物語を作るためのAIですが、Geminiは何でもやるタイプなので、専門家と、極めてはないオールラウンダーというあたりの差が出るのでしょうか。




