第5話 生きるもの
朝から風が強かった。
図書館の窓がかたかたと鳴っていた。古い木枠の窓は隙間が多くて、風が吹くたびに小さく揺れた。窓の外では草が一斉に倒れて、起き上がって、また倒れた。空は晴れていたが、雲が速かった。
子猫は窓辺にいた。
前足を揃えて、窓の桟の上に座っていた。窓辺に座ることを、この子猫は最近覚えた。ここに座ると外が見える。草が揺れるのが見える。虫が飛ぶのが見える。ときどき鳥が横切る。それを目で追うのが好きだった。追いかけられないことは分かっていた。ガラスの向こうには出られない。でも目だけは追えた。
体つきは、また少し変わっていた。足が伸びて、顔の丸さが少しだけ減った。毛並みは相変わらず灰色と白のまだらだったが、灰色の部分が濃くなって、模様がはっきりしてきていた。目は青みがかった灰色のまま、でも光の加減で色が変わることがあった。朝の光の中では薄く、夕方の光の中では深く見えた。
風がひときわ強く吹いて、窓ががたんと鳴った。子猫の耳がぴんと立った。
窓の外に、何かがいた。
最初は草の揺れだと思った。風で草が動いているだけだと。でも違った。草の向こうに、大きな影が動いていた。草よりも高い位置で、何かが揺れていた。
子猫は首を伸ばした。前足を窓ガラスにかけて、少しでも高い位置から見ようとした。爪がガラスの表面を滑って、小さな音がした。
影が近づいてきた。
畦道の上を、四本の足で歩いていた。大きかった。子猫が今まで見たどんなものよりも大きかった。人間は二本の足で歩くから、あれとは違う。四本の足で、体が低くて、でも大きい。毛が長くて、金色だった。風に吹かれて毛が靡いていた。
犬だった。
子猫は犬を知らなかった。この図書館の中で生まれて、この図書館の中で育った子猫にとって、世界は本棚と窓と床と、ときどき来る人間でできていた。四本足の大きな生き物は、世界の中に存在しなかった。
犬は畦道をまっすぐ歩いてきた。歩き方は速かったが、どこかぎこちなかった。足が大きすぎるように見えた。体に対して足が大きくて、一歩ごとに少しだけよろけた。耳が垂れていて、舌が出ていた。息が荒かった。走ってきたのかもしれない。
ゴールデン・レトリーバーの子犬だった。生後半年くらいだろう。体はもう中型犬ほどの大きさがあったが、動きは子犬のままだった。足の運びが定まらず、尻尾が体ごと振れるほど大きく揺れていた。
犬は図書館の前で立ち止まった。
鼻を地面に近づけて、匂いを嗅いだ。入口の前の地面を、左から右へ、右から左へ、鼻先で舐めるようになぞった。何かの匂いを追っているようだった。でも、追っている匂いが見つからないようだった。鼻を上げて、あたりを見回した。耳が風に吹かれてめくれた。
尻尾が下がった。
さっきまで大きく振れていた尻尾が、ゆっくりと下がって、後ろ足のあいだに近づいた。犬は入口の前に座った。座って、また立ち上がった。三歩歩いて、戻ってきた。また座った。鼻を上げて、風の匂いを嗅いだ。何も見つからなかった。
子猫は窓の内側から、それを見ていた。
ガラス一枚を隔てて、二匹は同じ方角を向いていた。子猫は窓の桟の上から外を見下ろし、犬は入口の前の地面に座って、どこかを見上げていた。お互いの存在に気づいているのかいないのか、分からなかった。
犬がまた立ち上がった。今度は入口の引き戸に鼻を近づけた。木の匂いを嗅いでいた。前足で引き戸を引っ掻いた。爪が木を擦る音がした。引き戸は動かなかった。犬の力では開けられなかった。犬は引き戸の前で座り直した。
それから、伏せた。
前足を前に投げ出して、顎を前足の上に乗せた。大きな体が地面に沈んだ。目は開いていたが、どこも見ていなかった。ときどき耳がぴくりと動いた。風の音に反応しているのか、遠くの何かを聞いているのか。
子猫は窓辺から降りなかった。
犬を見ていた。見たことのない生き物だった。大きくて、金色で、音を立てて息をしていた。ガラスの向こうから、その息の音がかすかに聞こえた。子猫の知っている音ではなかった。人間の足音とも、風の音とも、本棚が軋む音とも違う、生き物の音だった。
子猫は前足をガラスにつけたまま、じっとしていた。尻尾が低い位置でゆっくり揺れていた。警戒しているのか、興味があるのか、子猫自身にも分かっていなかっただろう。ただ、目を離さなかった。
時間が経った。
風が少し弱まった。窓のがたつきが減って、図書館の中が静かになった。犬は入口の前に伏せたまま動かなかった。眠っているようにも見えたが、目は薄く開いていた。ときどき鼻がひくひくと動いた。
子猫は窓辺から降りた。
床に着地して、本棚のあいだを歩いた。入口のほうへ向かった。引き戸の前まで来て、立ち止まった。引き戸の下の隙間から、外の空気が入ってきていた。草の匂いと、土の匂いと、それからもうひとつ、知らない匂いがした。温かくて、濃くて、子猫が今まで嗅いだことのない匂いだった。
犬の匂いだった。
子猫は隙間に鼻を近づけた。匂いを嗅いだ。ひげが引き戸の木に触れた。匂いは強かった。子猫の体の何倍もある生き物の匂いだった。
引き戸の向こうで、犬が動いた気配がした。鼻息の音が近づいた。犬も隙間の向こう側から匂いを嗅いでいた。
木の板一枚を挟んで、二匹の鼻先が向かい合っていた。
子猫は後ずさった。一歩だけ。匂いが強すぎたのかもしれない。でも逃げはしなかった。一歩下がったところで止まって、引き戸の下の隙間を見つめていた。隙間は細くて、向こう側は見えなかった。匂いだけが流れ込んでいた。
犬は隙間の向こうで、くうん、と鳴いた。
小さな声だった。体の大きさに似合わない、細い、高い声だった。何かを訴えているような声だった。寂しいのか、不安なのか、ただ誰かにいてほしいのか。子犬の声だった。体がどれだけ大きくても、まだ子犬だった。
子猫は耳を立てた。その声を聞いていた。聞いたことのない音だった。人間の声とも、風の音とも違った。でも、何かが分かった。分かったというより、体が反応した。子猫の喉の奥で、小さな音が鳴った。ゴロゴロではなかった。もっと短い、かすかな音だった。返事だったのかもしれない。
犬がまた鳴いた。今度はさっきより少しだけ長く。
子猫は引き戸の前に座った。隙間に向かって、じっと座っていた。逃げもしなかったし、近づきもしなかった。ただ、そこにいた。引き戸の向こうにいる、大きくて知らない生き物の気配を、匂いと音で感じながら。
どのくらいそうしていたか分からない。
風がまた強くなった。窓ががたがた鳴り始めた。犬が顔を上げた気配がした。引き戸の隙間から流れ込む匂いの向きが変わった。犬が動いた。立ち上がった音がした。爪が地面を掻く音。
それから、声が聞こえた。
遠くから、人間の声が聞こえた。何を言っているかは分からなかった。でも犬には分かったらしい。引き戸の向こうで、犬の尻尾が地面を叩く音がした。速い、強い音だった。さっきまで下がっていた尻尾が、全力で振れている音だった。
犬が立ち上がった。爪が地面を蹴る音がして、足音が遠ざかっていった。走っていた。大きな体が地面を蹴って、畦道を駆けていく音が聞こえた。足音はどんどん小さくなった。
人間の声がもう一度聞こえた。今度は少しだけ近かった。声の調子が変わっていた。呼んでいた。名前を呼んでいた。犬の名前だろう。子猫にはその音の意味は分からなかったが、犬には分かっていた。
足音が止まった。声も止まった。風の音だけが残った。
子猫は引き戸の前に座ったまま、しばらく動かなかった。隙間から流れ込む空気を嗅いでいた。犬の匂いはまだかすかに残っていた。でも薄れていた。風が運んでいた。
やがて子猫は立ち上がった。引き戸の前を離れて、本棚のあいだを歩いた。窓辺に戻った。桟の上に飛び乗って、外を見た。
畦道の上には、もう何もいなかった。草が風に揺れているだけだった。遠くに、小さな影が二つ見えた。一つは大きくて、一つはもっと大きかった。犬と、犬を連れた人間だろう。二つの影は並んで歩いていた。同じ方向に、同じ速さで。やがて道の曲がり角を曲がって、見えなくなった。
子猫は窓辺に座ったまま、影が消えた場所をしばらく見ていた。
それから、あくびをした。大きな、ゆっくりとしたあくびだった。小さな口が開いて、細い歯が見えて、舌が丸まった。あくびが終わると、子猫は前足を折りたたんで、窓辺の上で丸くなった。
目を閉じる前に、もう一度だけ外を見た。
畦道には何もいなかった。草が揺れていた。風が吹いていた。
子猫は目を閉じた。鼻の奥に、まだ知らない匂いが残っていた。温かくて、濃くて、大きな匂い。それが何だったのか、子猫には名前がなかった。でも覚えた。この図書館の外には、自分の知らない生き物がいるということを、子猫は今日、覚えた。
初めて、人間以外の訪問者を出してみることにした回。
仔犬だけど大型犬なので体格はある。
でも子供なので、どこか幼さがある。
そんなワンちゃんと子猫の遭遇。




