第4話 興味と興味
車が止まった。エンジンが切れて、急に静かになった。窓の外には畦道と、その向こうに小さな建物が見えた。
「ねえ、あれ何」
運転席の男が言った。助手席の女は顔を上げた。スマートフォンを見ていた。
「何って、どれ」
「あの建物。ほら、あそこ」
男は窓越しに指さした。瓦屋根の平屋だった。壁に蔦が這っていて、入口の横に看板が立っていた。文字は遠くて読めなかった。
「さあ。倉庫じゃない?」
「いや、看板あるよ。ちょっと見てこない?」
女は男の顔を見た。目が輝いていた。こういう顔をするときの彼を、彼女は知っていた。古い建物、知らない路地、地図に載っていない場所。そういうものを見つけると止まらなくなる人だった。
「えー」
「すぐ戻るから」
「一人で行ってきてよ」
「一緒に行こうよ」
女はシートベルトを外さなかった。男はもう外していた。ドアを開けて、外の空気が車内に入ってきた。草と土の匂いがした。
「虫いそう」
「いないって」
「絶対いる」
男は笑って、先に歩き出した。女はしばらく車の中から彼の背中を見ていた。畦道を歩いていく背中が小さくなって、建物の前で立ち止まった。看板を見上げている。それから振り返って、手招きした。
女はため息をついて、ドアを開けた。
サンダルの底に草が触れた。道は舗装されていなかった。足元を気にしながら歩いた。男はもう入口の前にいて、引き戸に手をかけていた。
「図書館だって」
「図書館? こんなところに?」
「だから面白いんじゃん」
引き戸が開いた。木が溝を擦る音がした。男は中を覗いて、すぐに入った。女は入口に立ったまま、中を見た。
薄暗かった。本棚が並んでいるのは分かった。埃の匂いがした。古い木の匂いも。窓から光が入っていたが、隅のほうは暗かった。
「ちょっと、暗くない?」
「大丈夫だよ、窓あるし」
男はもう本棚のあいだに入っていた。背表紙を眺めながら、楽しそうに歩いていた。指先で棚の縁をなぞって、一冊を引き抜いた。
「すごい、昭和の本とかある。この装丁、今じゃ見ないよ」
女は入口から二歩だけ中に入った。それ以上は進まなかった。腕を組んで、男の背中を見ていた。
「誰もいないの? 管理人とか」
「いないみたい。鍵もかかってなかったし」
「それって大丈夫なの」
「大丈夫じゃない? 自由に入れる図書館なんだよ、きっと」
男は本を開いて、ページをめくっていた。女は棚の上のほうを見た。埃が積もっていた。蜘蛛の巣が、棚と天井のあいだに張っていた。
「やっぱり外で待ってる」
「えー、もうちょっとだけ」
女が振り返りかけたとき、足元で何かが動いた。
小さかった。床の上を、するすると横切っていった。灰色と白のまだらの、手のひらに乗りそうな——
女は声を上げた。短い、高い声だった。
「何、今の」
男が振り返った。
「どうした?」
「何かいた。足元」
男が近づいてきた。女は一歩下がっていた。二人で床を見た。
本棚の脚の陰に、子猫がいた。
前よりもまた少し大きくなっていた。毛並みに艶が出て、体つきがしっかりしてきていた。目は青みがかった灰色で、はっきりと二人のほうを向いていた。尻尾が床の上でゆっくり揺れていた。
「猫だ」
男が言った。しゃがんで、手を伸ばした。子猫は身を引いた。男の手が近づくと、棚の下にするりと入った。
「逃げた」
「当たり前でしょ、いきなり手出したら」
女は男の後ろから覗き込んでいた。さっきまで外で待つと言っていたのに、いつの間にか男の肩越しに棚の下を見ていた。
「小さいね」
「うん。まだ子猫だね。こんなところに一匹でいるのかな」
「飼い猫じゃないよね。首輪ないし」
子猫は棚の下から二人を見ていた。逃げたが、遠くには行っていなかった。棚の脚の向こう側で、じっとこちらを見ていた。
女はしゃがんだ。男の隣ではなく、少し離れた場所で。膝を揃えて、ゆっくりと。
「おいで」
小さな声だった。男が出したのとは違う声だった。高くもなく低くもなく、ただ静かだった。
子猫の耳が動いた。
しばらく何も起きなかった。男は手を引っ込めて、女のほうを見ていた。女は子猫を見ていた。子猫は女を見ていた。
やがて子猫が動いた。棚の下から、一歩。それからもう一歩。慎重に、でも怯えてはいなかった。女の膝の前まで来て、立ち止まった。鼻先を持ち上げて、女の指の匂いを嗅いだ。
女は動かなかった。指を差し出しもしなかった。ただ、しゃがんだまま待っていた。
子猫が、自分から女の指に頭を押しつけた。
「あ」
女の声が変わった。さっきまでの警戒が消えていた。指先で子猫の頭に触れた。耳の後ろを撫でた。子猫は目を細めた。
「かわいい」
その声には、作った甘さがなかった。ただ本当にそう思ったから出た声だった。
男は隣で見ていた。
「俺のときは逃げたのに」
「声が大きいからでしょ」
「そんな大きくなかったよ」
「大きかったよ」
女は子猫を撫で続けていた。顎の下に指を入れると、子猫は首を伸ばした。喉の奥から、小さなゴロゴロが聞こえた。前よりも少しだけ上手になったゴロゴロだった。途切れることはまだあったが、音が続く時間が長くなっていた。
「すごい、喉鳴らしてる」
「……俺にもやらせて」
「だめ、逃げちゃうから」
男は膝を抱えて座った。手持ち無沙汰だった。さっきまで古い本の装丁に夢中だったのに、今は彼女と子猫のあいだに入れないことが気になっていた。
「ねえ、俺もうちょっと静かにするからさ」
「しー」
女は振り向きもしなかった。子猫の背中を指先でなぞっていた。子猫は体を伸ばして、女の膝に前足をかけた。登ろうとしているのか、ただ寄りかかっているのか。女は両手で子猫の体を支えた。
「軽い。すごく軽い」
「持ち上げないほうがいいんじゃない?」
「持ち上げてない、支えてるだけ」
男は黙った。それから本棚のほうを見た。さっき途中まで見ていた昭和の本のことを思い出したが、立ち上がる気にならなかった。彼女が楽しそうだった。さっきまで車から降りたくないと言っていた人が、床に座って子猫を撫でている。その変わりように、少しだけ悔しくて、でもそれ以上に可笑しかった。
「お前、さっき外で待ってるって言ってたよね」
「言ってない」
「言った」
「言ったかもしれないけど、それはこの子に会う前の話」
子猫は女の膝の上に前足を乗せたまま、男のほうをちらりと見た。それからまた女のほうに顔を戻した。
「今、こっち見たよね。絶対馬鹿にしてる」
「してないよ。興味がないだけ」
「それいちばん傷つくやつ」
女は笑った。声を出して笑った。図書館の中に、笑い声が響いた。本棚のあいだを抜けて、天井に当たって、静かに消えた。この建物の中で笑い声が鳴ったのは、ずいぶん久しぶりのことだったかもしれない。
子猫は笑い声に驚いて、女の膝から降りた。数歩離れて振り返った。耳をぴんと立てて、二人を見ていた。
「あ、驚かしちゃった」
女は声を落とした。手を差し出した。子猫はすぐには戻らなかった。耳を立てたまま、二人を交互に見ていた。それから、ゆっくりと女のほうに歩いてきた。男のほうには行かなかった。
「……もういいよ、俺は本見てるから」
男は立ち上がった。わざとらしくため息をついて、本棚のほうへ歩いた。背中で彼女の小さな笑い声が聞こえた。
棚の前に立って、背表紙を眺めた。さっき見つけた昭和の短編集を手に取った。ページを開いたが、文字が頭に入らなかった。後ろで彼女が子猫に話しかけている声が聞こえた。何を言っているかは聞き取れなかった。小さな、柔らかい声だった。
ふと振り返ると、彼女は子猫を膝に乗せて、窓際の椅子に座っていた。いつの間に移動したのか。子猫は丸くなって、彼女の膝の上で目を閉じかけていた。彼女はその頭を指先で撫でながら、窓の外を見ていた。午後の光が彼女の横顔を照らしていた。
男は本を棚に戻した。
「そろそろ行こうか」
「……もうちょっとだけ」
「さっきから『もうちょっと』って俺が言うたびに嫌がってたよね」
「それとこれとは別」
男は笑った。腕を組んで、棚に寄りかかった。急ぐ理由はなかった。ドライブの目的地は決めていなかった。もともと、どこかへ行くことが目的ではなく、二人で車に乗っていること自体が目的のような休日だった。だから、ここにいてもよかった。
しばらくして、彼女が立ち上がった。子猫を膝からそっと降ろした。子猫は床に着地して、一度だけ体を震わせてから、本棚のほうへ歩いていった。
「バイバイ」
彼女は小さく手を振った。子猫は振り返らなかった。
二人で入口に向かった。男が引き戸を開けた。彼女が先に出て、男が続いた。
外に出ると、日差しが眩しかった。車のボンネットが光を反射していた。草の匂いが濃かった。
「よかったね」
男が言った。
「何が」
「来てよかったでしょ」
彼女は答えなかった。でも口元が少しだけ緩んでいた。
車に乗り込んで、シートベルトを締めた。男がエンジンをかけた。
「また来たい」
彼女が言った。窓の外を見ていた。図書館の建物が、バックミラーの中で小さくなっていった。
「俺は?」
「何が」
「俺も来ていい?」
「……考えとく」
男は笑った。車が畦道を走り出した。窓を少しだけ開けると、風が入ってきた。草の匂いと、かすかに、古い紙の匂いがした。
図書館の中では、子猫が窓辺に座っていた。車のエンジン音が遠ざかっていくのを、耳を傾けて聞いていた。音が完全に消えると、子猫は窓辺から降りて、さっきまで彼女が座っていた椅子に飛び乗った。座面はまだほんのり温かかった。
子猫はそこで丸くなった。誰かの温もりが残っている場所で眠ることを、この子猫は覚え始めていた。




