↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
子猫のいる図書館  作者: 裡婀
真を垣間見る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/30

第22話 静寂を視る

ある種の秘密は、共有しないことでのみその美しい輪郭を保ち続ける。それがたとえ、親しい友人を欺くことになったとしてもだ。


少し暖かい日差しが、真新しい住宅街のアスファルトを照らしていた。ようやく厳しい寒さも終わり、乾いた風が吹き抜ける。街路樹にはちらほらと青葉見え、眩しい光を反射して揺れていた。


青年は額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、スマートフォンに表示された地図アプリの目的地へと歩を進めていた。彼の足取りはどこかのんびりとしており、明確な目的意識よりも単なる好奇心に支配されている。


数日前の夜、居酒屋のテーブルでジョッキを乱暴に叩きつけた友人の顔が、青年の脳裏に鮮明に蘇っていた。


友人はひどく苛立っていた。SNSで見かけたという古い図書館の写真を血眼になって解析し、ついに場所を特定したと意気揚々と出かけていったのはまだ冬の名残がある寒い日のことだった。


しかし、彼がそこへたどり着いた時、あるはずの古い平屋は跡形もなく、ただ枯れ草の揺れる空き地が広がっていただけだったという。


友人はそれを「悪質な合成写真だ」「誰かがデマを流して喜んでいるんだ」と声高に非難し、無駄にした時間を酷く呪っていた。青年は友人のその剣幕に相槌を打ちながらも、心のどこかで奇妙な違和感を覚えていた。


写真に写っていたあの建物の圧倒的な存在感や、古い本の上に座る子猫の瞳の奥深さが、単なる偽造や悪戯だとはどうしても思えなかったのだ。だからこそ、休日の暇を持て余した今日、彼は友人が残した座標を頼りにこの場所までやってきた。友人の言う通りただの空き地なら、それでいい。納得して帰るだけのつもりだった。


目的の角を曲がった瞬間、青年の歩みは完全に停止した。友人が「ただの空き地だった」と吐き捨てたその場所には、周囲の近代的な戸建て住宅とは明らかに異質な、古い建物が堂々と佇んでいた。


黒ずんだ外壁の板には深い木目が浮き上がり、苔の生えた瓦屋根の平屋が初夏の陽光を静かに受け止めている。正面には木枠にすりガラスがはめ込まれた引き戸があり、その上の軒下には「図書館」とかすれた文字で記された木の看板が掲げられていた。


幻でも合成でもない。それは圧倒的な質量と歴史を伴って、確かにそこに存在していた。青年はしばらくの間、呆然とその光景を見つめていた。


友人はなぜ、これほどまでに明白な存在を見落としたのだろうか。いや、見落としたというレベルではない。友人はこの目の前まで来て、ここが空き地であると確信して帰っていったのだ。背筋に微かな悪寒が走るのを感じながらも、青年は吸い寄せられるようにその敷地へと足を踏み入れた。


枯れ草を踏む音が、静かな空間にひどく大きく響く。


引き戸の木枠に手をかけ、ゆっくりと横へスライドさせる。ギイッと低い摩擦音が鳴り、中からひんやりとした空気が流れ出してきた。外の春の心地よさとはまるで違う、別の季節に属する空気だった。


青年は中へ入り、背後の引き戸を閉めた。その瞬間、外で鳴り響いていた遠くの車の音や風の音が完全に遮断される。代わりに彼を包み込んだのは、古い紙とインクの匂い、そして長い時間をかけて積もった乾いた埃の匂いだった。


薄暗い室内には、床から高い天井の太い梁まで届く木製の本棚が、幾重にも連なって迷路のように立ち並んでいる。色褪せた布張りの小説、金箔の擦り切れた分厚い事典、和紙で装丁された和本。あらゆる時代の知識が、誰の手にも触れられることなく、この巨大な沈黙の中で深い眠りについている。


青年は圧倒されながら、本棚の間をゆっくりと歩き始めた。床板が微かに軋む音だけが、彼の鼓膜を打つ。ここは廃墟ではない。時間が止まったまま生き続けている、ひとつの完全な世界だった。


迷路のような本棚の奥深くへと進むと、不意に視線を感じて青年は足を止めた。少し高い位置にある棚板の上。分厚い外国の画集の上に、一匹の子猫が静かに香箱を組んでいた。灰色と白のまだら模様。青みがかった灰色の瞳が、薄暗がりの中で微かな光を放ちながら青年を真っ直ぐに見下ろしている。


SNSの写真で見た姿と全く同じだった。子猫は驚いて逃げ出すことも、警戒して鳴き声を上げることもない。ただ、自分の領域に迷い込んだ新しい訪問者を、底知れぬ静けさとともに観察している。青年はその神秘的な佇まいに息を呑み、動くことすら忘れてその瞳を見つめ返した。


この古い本たちと、しなやかな若い命。その対比があまりにも美しく、一枚の完璧な絵画のように完成されている。青年は、SNSの投稿者がなぜこの場所を秘密にしたのか、その理由が痛いほどよく理解できた。この絶対的な静寂は、無責任な好奇心や喧騒に晒されていいものではない。


青年の右手は、無意識のうちにポケットの中のスマートフォンを握りしめていた。画面を開けば、メッセージアプリの履歴には友人からの愚痴が今も残っている。


カメラを起動してこの光景を撮り、「お前の目は節穴だ、確かにここにあったぞ」と送信することは簡単だ。友人は驚愕し、血相を変えてこの場所へ駆けつけてくるだろう。そして今度こそこの建物を発見し、自分の正しさを証明するためにSNSで大々的に場所を公開するに違いない。


何人もが押し寄せ、フラッシュが焚かれ、足音と話し声がこの静寂を無残に踏み荒らす。想像しただけで、青年の胸に強い拒絶反応が生まれた。


なぜ友人はこの図書館を見つけることができなかったのか。


もしかすると、この場所は自ら訪問者を選んでいるのではないか。何かを暴き、暴利をむさぼるように消費しようとする者の目には、ただの空き地にしか映らないようになっているのかもしれない。対して、何の執着も持たず、ただそこにあることを受け入れられる者にだけ、このすりガラスの引き戸は姿を現すのではないか。


青年はスマートフォンの画面を暗くし、ポケットの奥深くへと押し込んだ。


友人には、何も言わないでおこう。今夜また酒を飲む機会があれば、「お前の言う通り、ただの空き地だったよ」と笑って嘘をつこう。それが、彼を信じなかったことへの意地悪だと思われても構わない。この美しくも孤独な空間を守るためなら、喜んで共犯者になろう。


青年は棚の上にいる子猫に向かって、深く一度だけ頭を下げた。子猫は青灰色の瞳をゆっくりと瞬きさせ、それに応えるように頬の長い髭を微かに震わせた。青年は踵を返し、来た時と同じように足音を殺しながら本棚の迷路を戻っていく。引き戸を開けると、再び初夏の眩しい日差しと熱気が彼を包み込んだ。戸をしっかりと閉め、青年は一度も振り返ることなく住宅街の路地へと歩き出す。


彼が去った後の図書館には、再び底なしの静けさが舞い戻った。かすれた文字の木の看板が、乾いた風に吹かれて微かに揺れる。迷路のような本棚の奥深くでは、子猫が目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返している。


外の世界がどれほど変わろうとも、誰が真実を知り誰が嘘をつこうとも。この和風の平屋は何も変わることなく、ただ無言でそこに立ち続ける。古い紙と埃の匂いが澱む空間で、時間は再び、ゆっくりと止まったように流れ始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。