第2話 無邪気な激励
引き戸を開けたのは、小さな手だった。
その手は汚れていた。泥と、草の汁と、たぶん涙を拭いた跡が混ざって、指の腹が黒っぽくなっていた。手の持ち主は女の子だった。ランドセルは背負っていない。靴は片方だけ泥がついていて、もう片方はきれいだった。どこかで片足だけ水たまりを踏んだのだろう。
女の子は引き戸の隙間から中を覗いた。覗いて、しばらくそのまま立っていた。暗いのか、怖いのか、それとも入っていいのか分からなかったのか。どれでもあったのかもしれない。
唇を噛んで、それからするりと体を滑り込ませた。
中は静かだった。窓から差す午後の光が、床の上に四角い模様を作っていた。埃が光の中をゆっくり泳いでいた。本棚が並んでいる。女の子の背丈よりずっと高い本棚が、壁のように左右に立っていた。天井が高かった。家の天井より高い気がした。声を出したら響きそうだったが、声を出す気にはならなかった。
女の子は本棚を見上げた。
背表紙の文字は読めなかった。漢字が多かった。絵もなかった。ただ色だけが並んでいた。赤、茶色、紺、深い緑。色褪せたものと、まだ鮮やかなものが交互に並んで、それが女の子にはなんとなくきれいに見えた。指先で一冊の背表紙に触れてみた。ざらざらしていた。布みたいな手触りだった。
奥へ歩いた。足音が静かに響いた。自分の足音を聞くのが不思議だった。家では足音なんか気にしたことがなかった。ここでは自分の足音しか聞こえなかった。一歩踏むたびに、古い床板がかすかに軋んだ。
本棚と本棚のあいだを抜けると、窓があった。窓の外には草が見えた。伸び放題の草が、風に揺れていた。窓の桟に小さな蜘蛛の巣が張っていて、光を受けて白く光っていた。
窓際に椅子があった。木の椅子で、座面がすこしへこんでいた。女の子はそこに座った。足が床に届かなかった。ぶらぶらさせて、やめて、また、ぶらぶらさせた。
座ったまま、何もしなかった。
本を読もうとは思わなかった。読める本があるかどうかも分からなかった。ただ座っていた。家にいたくなかった。外にもいたくなかった。走って走って、気がついたらここにいた。ここがどこなのかも知らなかった。でも、座れる場所があったから座った。それだけだった。
膝の上に手を置いた。汚れた手を見て、ズボンで拭こうとして、やめた。ズボンも汚れていた。
しばらくすると、音が聞こえた。
小さな音だった。何かが床の上を引っ掻くような、軽い、乾いた音。女の子は足のぶらぶらを止めた。音のほうを見た。
本棚の下から、何かが出てきた。
灰色と白のまだらの、小さな生き物だった。四本の足で歩いていた。歩き方はまだおぼつかなくて、ときどき自分の足にひっかかるようによろけた。耳は小さくて、尻尾は短かった。
女の子は息を止めた。
子猫だった。
子猫は女の子を見ていなかった。床の上の何かに興味があるらしく、鼻先を近づけたり離したりしていた。埃の塊か、虫か、それとも床に落ちた光の模様か。前足で軽く叩いてみて、動かないのを確かめて、また鼻を近づけた。今度は前足で引っ掻いた。爪が床を擦る小さな音がした。子猫にとっては、床の上にあるものはどれも同じくらい不思議で、同じくらい確かめる価値があるらしかった。
しばらく見ていた。子猫は女の子に気づいていないようだった。あるいは気づいていても、気にしていなかった。自分の世界に夢中だった。前足で何かを転がして、それを追いかけて、本棚の脚にぶつかって止まった。ぶつかったことに驚いたのか、一瞬だけ体を縮めて、それからまた歩き出した。
女の子は椅子から降りた。音を立てないように降りたつもりだったが、靴の底が床を鳴らした。子猫が顔を上げた。
目が合った。
子猫の目は丸くて、色がうすかった。青とも灰色ともつかない、まだ色が決まっていないような目だった。その目が女の子をまっすぐ見ていた。逃げなかった。怖がりもしなかった。ただ、見ていた。小さな目が、確かに女の子のほうを向いて、じっと見ていた。
女の子はしゃがんだ。
手を伸ばした。指先が子猫の鼻に触れる直前で止まった。子猫は逃げなかった。鼻先をわずかに持ち上げて、女の子の指の匂いを嗅いだ。泥と草の匂いがしたはずだった。子猫はとくに嫌がらなかった。ひげが女の子の指先にかすかに触れた。くすぐったかったが、手を引っ込めなかった。
女の子の指が、子猫の頭に触れた。
柔らかかった。温かかった。指の下で、小さな頭蓋骨の形が分かった。こんなに小さいのに、ちゃんと骨がある。ちゃんと温かい。女の子はそんなことを言葉にして考えたわけではなかった。ただ触っていた。触って、指を動かして、耳の後ろを撫でた。
子猫は目を細めた。
嫌がっているのか気持ちいいのか、女の子には分からなかった。でも逃げなかった。逃げないから、撫で続けた。子猫の体が少しだけ傾いて、女の子の手のひらに重みが乗った。体重と呼ぶにはあまりに軽い、でも確かにそこにある重さだった。
どのくらいそうしていたか分からない。窓の光が傾いて、床の四角い模様が伸びて、本棚の影が濃くなった。女の子は子猫の隣に座り込んでいた。床は冷たかったが、気にならなかった。子猫は女の子の膝の横で丸くなっていた。眠っているのか起きているのか分からなかった。ときどき耳がぴくりと動いた。何かの音を拾っているのか、夢を見ているのか。
女の子は泣いていなかった。家を飛び出したときは泣いていたかもしれない。走っているあいだも泣いていたかもしれない。でも今は泣いていなかった。泣く理由を忘れたわけではなかった。胸の奥にはまだ、硬くて熱いものが残っていた。ただ、今は泣かなくてよかった。
ふと、棚の一番下の段に絵本が見えた。
背表紙に動物の絵が描いてあった。女の子は手を伸ばして抜き取った。表紙は少し破れていて、角が丸くなっていた。誰かがたくさん読んだ本だった。表紙の動物はうさぎだった。うさぎが野原に立っている絵で、空が夕焼け色だった。
ページを開いた。
絵が大きくて、文字が少なかった。ひらがなだった。読めた。声には出さなかった。口の中だけで読んだ。うさぎが遠くへ行って、帰ってくる話だった。どうして遠くへ行ったのかは、あとになっても思い出せなかった。ただ、帰ってきたとき誰かが待っていた場面の絵がやさしかったことだけ覚えていた。
読み終わって、本を棚に戻した。
戻すとき、子猫が目を開けた。女の子が動いたから起きたのだろう。子猫は伸びをした。前足をぐっと前に出して、背中を反らせて、小さな口を開けてあくびをした。歯が見えた。小さな、白い、針みたいに細い歯だった。あくびが終わると、子猫は女の子の顔を見た。何か言いたそうな顔だったが、何も言わなかった。猫だから当たり前だった。
女の子は立ち上がった。
帰らなければいけなかった。どこに帰るのかは分かっていた。帰りたいかどうかは別の話だった。でも、暗くなる前に帰らないといけないことは知っていた。それは誰かに言われたからではなく、自分で知っていた。暗い道はこわい。それだけのことだった。
入口まで歩いて、引き戸に手をかけた。振り返った。
子猫は本棚のあいだにいた。女の子のほうを見ていた。さっきと同じ、色の決まっていない目で、まっすぐ見ていた。尻尾の先だけがゆっくり揺れていた。
女の子は何も言わなかった。手を振ることもしなかった。ただ見て、それから引き戸を開けて、外に出た。
外は夕方だった。空がオレンジ色で、畦道の草が風に揺れていた。虫の声が急に近くなった。図書館の中がどれだけ静かだったか、外に出てはじめて分かった。
来たときの道を覚えていなかった。でも、なんとなく歩き出したら、見たことのある電柱が見えて、その先に知っている曲がり角があった。
歩きながら、女の子は自分の指を見た。右手の人差し指と中指。さっき子猫の頭を撫でた指だった。まだ少しだけ温かい気がした。
泥は乾いて、白っぽくなっていた。
家の屋根が見えたとき、女の子は足を止めた。少しだけ止まって、それからまた歩いた。玄関の前に誰かの靴があった。女の子は靴を揃えて、ドアを開けた。
ただいま、とは言わなかった。言わなかったけれど、ドアの音で誰かが気づいた気配がした。
女の子は自分の部屋に行って、ベッドに座った。窓の外はもう暗くなりかけていた。
右手を開いて、閉じた。
まだ少しだけ、あの柔らかさが残っていた。




