第1話 小さな出会い
道の先に、建物があった。
それだけのことだった。休日の昼下がり、隣町まで歩いてみようと思い立って、知らない道を選んで歩いていたら、畦道の向こうに小さな建物が見えた。瓦屋根の、平屋の、どこにでもありそうな——いや、どこにもなさそうな建物だった。
看板が出ていた。文字は薄れていたが、読めた。
図書館。
彼はとくに驚かなかった。驚くような人間ではなかった。二十代の終わりか三十の手前か、そのあたりの年齢で、今日が休みで、散歩に出て、ここまで来た。それだけの男だった。仕事で何かあったわけでもない。天気がよかったから歩いた。歩いたら遠くまで来た。遠くまで来たら、図書館があった。
入口の引き戸に手をかけると、鍵はかかっていなかった。
中は薄暗かった。窓から入る光が、埃の粒を照らしていた。本棚が並んでいる。木製の、古い本棚だった。背表紙の色が褪せているものもあれば、まだ新しいものもある。誰かが最近置いたらしい文庫本が、棚の端にぽつんと立っていた。
空気が静かだった。外の虫の声が遠くに聞こえるだけで、建物の中には音がなかった。
彼は本棚のあいだを歩いた。指先で背表紙をなぞるようにして、一冊ずつ眺めた。並びに規則はなかった。小説の隣に図鑑があり、図鑑の隣に詩集があった。誰かが読みたいものを持ち寄って、読み終わったら棚に戻す——そういう場所なのだろうと、彼はなんとなく思った。
奥の棚の前でしゃがんだとき、足元に何かが触れた。
柔らかくて、温かかった。
見下ろすと、棚の最下段の隙間に、小さな塊があった。灰色と白のまだらで、耳が折れていて、目がまだ開ききっていないような——子猫だった。
彼は息を止めた。
子猫は彼を見ていなかった。正確には、彼のほうを向いてはいたが、見ているのかどうか分からなかった。目の焦点が合っていないような、まだ世界の輪郭を覚えていないような顔をしていた。
彼はしゃがんだまま動かなかった。
子猫も動かなかった。
しばらくそうしていた。どのくらいの時間だったか分からない。窓の光が少しだけ傾いて、本棚の影が床の上をゆっくり動いた。子猫は目を閉じた。眠ったのか、飽きたのか、それも分からなかった。
彼は立ち上がった。
棚から一冊、短編集を抜き取って、窓際の椅子に座った。椅子は木製で、座面が少しへこんでいた。誰かがずっとここに座っていたのだろう。彼はページを開いた。
読みながら、ときどき奥の棚のほうを見た。子猫の姿は見えなかった。棚の隙間に引っ込んだのかもしれない。
一時間ほど読んで、本を棚に戻した。
帰り際、入口の引き戸に手をかけたとき、振り返った。
薄暗い室内に、本棚が並んでいた。埃が光の中を漂っていた。奥のほうは暗くて見えなかった。子猫がどこにいるのかも分からなかった。
でも、いた。
さっきまで確かに、あの棚の下に、小さな温かいものがいた。
彼は引き戸を閉めた。鍵はかけなかった。かけようがなかった。
畦道を歩いて帰りながら、彼はとくに何も考えなかった。考えるような人間ではなかった。ただ、足の裏に残った図書館の床の冷たさと、あの一瞬だけ触れた柔らかさのことを、しばらく忘れなかった。
1話の後書きでいいのかな。
猫と本という、筆者が好きなものをまとめたいというのが事の発端です。
とはいえ、下手をすると本にとって猫は天敵で……。
そのあたりをどうするのかを、AIに相談しながら作っていっています。




