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子猫のいる図書館  作者: 裡婀
図書館を訪れる人々

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12/30

第12話 当番

私は目当ての古い本を棚から抜き出すと、主のように座る小さな影に軽く視線を送った。余計な干渉はせず、静かにその古い引き戸を閉める。

深く立ち入らないことこそが、あの特別な空間と彼らに対する最大の敬意なのだと知っているからだ。


役場の窓口は今日も単調な喧騒に包まれていた。蛍光灯の冷たい光の下で、住民票を発行するプリンターの稼働音が絶え間なく響いている。


私は普段、この無機質な空間で公務員として働いている。電話の応対をし、書類の不備を指摘し、規則に従って正確に事務処理を進めるのが日常だ。

司書の資格を持っているため、便宜上あの一風変わった図書館の管理も兼任している。


しかし専任というわけではなく、基本的にはこの役場のデスクが私の居場所である。あの蔦の絡まる古い建物へ足を運ぶのは、今日のようにどうしても必要な時だけだ。


午後の気怠い空気が漂う中、一人の老婦人が窓口へやってきた。彼女は少し申し訳なさそうに、色褪せたメモ用紙を差し出した。


そこには震える字で、ある本のタイトルが書かれている。半世紀以上前に地元の一部でだけ出回った、古い詩集を探しているという。現在は絶版となり、市立図書館の検索システムにもデータは存在しない。


孫にどうしてもその詩を読んで聞かせたいのだと、彼女は切実な声で語った。他の職員なら「システムにないので不可能です」と冷たくあしらう場面だろう。


だが私はメモを受け取り、少しだけ席を外す許可を上司にもらった。正規のルートから外れ、時代に取り残された記憶の断片。そういうものがどこに吹き溜まるのかを、私はよく知っていた。


役場を出て、町の外れへと歩き出す。秋の風が少し肌寒く、街路樹から乾いた葉がカサカサと音を立てて落ちてきた。整備されたアスファルトの道は、歩を進めるごとに少しずつひび割れていく。近代的な住宅街を抜け、人気の少ない古い路地へと入る。町が急ぎ足で進めてきた近代化から、ポツンと取り残されたような一角。その突き当たりに、目的の建物は静かに佇んでいた。


外壁をびっしりと覆う濃緑の蔦は、まるで建物を外界から隠す結界のようだ。色褪せた木の看板には「図書館」とだけ記されている。普通の人間なら、この異質な空気に気圧されて立ち止まるだろう。あるいは、好奇心に駆られて恐る恐る近づくかもしれない。


私はそのどちらでもない。ただ事務的に、しかし確かな敬意を持って、古い引き戸に手をかけた。

ガラガラと木が溝を擦る低い音が響き、引き戸が開く。


一歩足を踏み入れると、空気が急激に変わった。外の風の音は遠のき、絶対的な静寂が鼓膜を圧迫する。紙とインクの匂いに、長い時間をかけて積もった埃の匂いが混ざり合う。私は深く息を吸い込み、肺の中の空気をこの場所のものと入れ替えた。


薄暗い室内には、天井近くまである木製の本棚が迷路のように並んでいる。高い窓から差し込む午後の光が、空中に舞う埃の粒を金色に照らし出していた。ここは時間が淀み、独自のルールで動いている場所だ。私は足音を忍ばせ、迷路の奥へと迷いなく進んでいく。


本棚の並びには、明確な規則性がないように見える。十進分類法などという近代的なシステムは、ここでは全く無意味だ。だが、確かな脈絡がそこには存在している。

本の装丁、紙の匂い、あるいはそこに込められた念のようなもの。それらが複雑に絡み合い、この空間の秩序を保っている。


私は指先で背表紙を軽くなぞりながら、老婦人が探している詩集の気配を探った。床板が微かに軋む音だけが、私の歩みを追跡してくる。


三つ目の角を曲がり、少し開けた場所に出た時だった。私は足を止め、視線を少しだけ上に向けた。


目の前の本棚の中段。分厚い百科事典が並ぶその隙間に、小さな姿があった。灰白の毛並みを持つ、一匹の猫だ。かつては手のひらに乗るほど小さかったその体は、今はもう立派な子猫のサイズに成長している。丸かった顔つきは少し引き締まり、野生の気配を微かに漂わせていた。青みがかった灰色の瞳が、静かに私を見下ろしている。


私は驚きの声を上げることも、駆け寄ることもない。こんな埃っぽい場所に子猫がいることを、不思議に思うこともない。ただ立ち止まり、その静寂の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。子猫も逃げる様子はなく、警戒して毛を逆立てることもない。ピンと立てた耳を少しだけ動かし、私の存在を正確に認識している。


「今日もご苦労様」

声には出さず、心の中でそう呟く。子猫はそれに応えるように、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。


世間一般の常識で考えれば、公共の施設に野良猫が住み着いているのは問題だ。衛生面を危惧し、動物管理センターに連絡するのが公務員としての正しい手順だろう。だが、私はそんな野暮な真似をしようとは微塵も思わない。


この場所の成り立ちと、この小さな命の因果。文書として残された記録もなければ、引き継ぎ事項に書かれているわけでもない。


それでも、私は確信を持って理解している。この子猫は、外から迷い込んだ哀れな迷子ではないのだ。この図書館という特異な生態系を維持するための、必要不可欠な歯車の一つ。あるいは、この淀んだ時間が生み出した一つの結晶のようなもの。


私がどうこうできる次元の話ではないし、干渉するべきでもないのだ。


子猫は前足を舐め、耳の後ろを丁寧に毛繕いし始めた。その仕草は落ち着き払っており、完全にここを自分の領土だと認識している。私はその姿に小さく微笑み、再び本棚へと意識を戻した。


子猫が座っている場所のすぐ下。色褪せた布張りの本が並ぶ区画に、私の探していた気配があった。古い背表紙が並ぶ中から、目的のタイトルを見つけ出す。そっと指をかけ、周囲の本を崩さないように慎重に引き抜いた。和紙のようなざらついた手触りが、指先に心地よく伝わってくる。


本を抜き出したことで生じた小さな隙間から、向こう側の光が漏れた。その光に反応したのか、上の段にいた子猫がひょいと顔を覗かせる。私は詩集を胸に抱え、子猫に向かって小さく頷いた。


「借りていくね」

視線だけでそう告げる。子猫は短い尻尾をパタンと一度だけ振り、興味を失ったように奥の暗がりへと歩き去っていった。肉球が木板を踏む音すら聞こえない、見事な身のこなしだった。私はその後ろ姿を見送り、来た道を静かに引き返し始めた。


入り口に向かう足取りは、不思議と軽やかだった。この空間に満ちているのは、死んだ知識の重さではない。忘れ去られたものたちが、静かに呼吸を続けるための温かい揺り籠だ。そしてあの灰白の子猫は、その揺り籠を揺らす小さな番人なのだ。


私は引き戸の前に立ち、もう一度だけ広大な本棚の森を振り返った。深い静寂が、私の視線を柔らかく跳ね返す。ガラガラと音を立てて引き戸を開け、外の世界へと足を踏み出す。眩しい秋の陽射しが目に飛び込み、一気に現実の時間が流れ込み始めた。


役場へ戻る道すがら、私は胸に抱えた古い詩集の重みを感じていた。冷たい風が吹くたびに、服に染み付いた古い紙の匂いが微かに香る。私の仕事は、この現実社会で正確に事務処理をこなすことだ。

だが同時に、あの時間が止まった領域を誰にも邪魔させず、そっと守り続けることも大切な役割だと思っている。


あの場所の秘密は、誰にも話すつもりはない。同僚にも、上司にも、そしてもちろん、この本を待つ老婦人にも。世の中には、白日の下に晒してはならない美しい秘密がある。


役場の窓口に戻ると、老婦人は不安げな顔で待っていた。私が背後に隠し持っていた古い詩集を差し出すと、彼女の顔にパッと花が咲いたような喜びが広がった。


「ああ、これです。本当に、ありがとうございます」


震える手で本を受け取り、何度も何度も頭を下げる。どこにあったのかと聞かれたら、倉庫の奥で埃を被っていたとでも答えようと思っていた。

しかし老婦人は、本の出処など気にする様子はなかった。ただ、探していた記憶の断片に出会えたことだけを純粋に喜んでいる。私は「お孫さんに、たくさん読んであげてください」とだけ告げて、彼女を見送った。


定時を迎え、役場の蛍光灯が次々と落とされていく。私は自分のデスクを片付け、パソコンの電源を落とした。窓の外はすでに暗く、町の灯りが点々と灯り始めている。


遠くの方で、秋の虫が鳴く声が微かに聞こえた。


あの図書館は今頃、さらに深い闇と静寂に包まれていることだろう。高い窓から差し込む月明かりの下で、あの子猫は本棚の上を軽やかに飛び回っているに違いない。私はそんな情景を頭の中に思い描きながら、ふっと小さく息を吐いた。バッグを肩にかけ、誰もいなくなった役場を後にする。


明日もまた、私は窓口で単調な業務をこなすだろう。苦情を聞き、書類の束と格闘し、現実の時間を生きる。それでいい。それが私の選んだ日常であり、責任だからだ。

ただ、あの町の外れにある蔦の絡まる建物と、そこに生きる小さな存在のことを知っている。その事実だけで、私の平坦な毎日はほんの少しだけ豊かなものになっている。


誰にも知られることのない、私だけの秘密の誇り。これからも私は、必要があればあの引き戸を開けるだろう。そして目当てのものを探し出し、また静かに引き戸を閉める。


深く干渉しないこと。それが、私なりのあの場所への、最大の愛し方なのだから。


都合よく回せる人(?)ということで、管理側の人を登場させることに。

全てを知る人にはしなかったんですが、彼女結構な働き者で、この後もちょいちょい登場します。

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