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子猫のいる図書館  作者: 裡婀
図書館を訪れる人々

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13/30

第13話 積み重ねていく

布で包んだその一冊は、今の私の腕にはひどく重く感じられた。

分厚い表紙と、長い年月を経て黄ばんだページ。それは私が若い頃から、ずっと書斎の片隅に置き続けていた本だ。

文字を追うのが億劫になってから久しい。視力は落ち、指先はページをめくることすらもどかしくなった。もう二度と、この本を開くことはないだろう。


だからこそ、しかるべき場所へ置いてこなければならないと考えたのだ。街の古本屋に二束三文で売り払う気にはなれなかった。燃えるゴミとして捨てるなど、もってのほかである。

私より長く生き続けるであろうこの静かなる友には、静謐な眠りの場所が必要だった。


杖をつきながら、ゆっくりと歩を進める。

秋の陽射しは柔らかいが、風にはもう冬の気配が混じり始めていた。 枯れ葉がアスファルトの上を乾いた音を立てて転がっていく。息を切らしながら、街の外れにあるという古い建物を目指した。


町内会の寄り合いや、囲碁仲間の噂話で、その場所のことは何度か耳にしていた。

「誰のものでもない、古い本ばかりが集まる廃墟のような図書館がある」

誰もが自由に立ち入り、そして去っていくという。最初はただの都市伝説か、子供たちの作り話だろうと笑い飛ばしていた。


しかし、自分の終い支度を意識し始めた頃から、その存在が妙に現実味を帯びて感じられたのだ。

あそこなら、私の本を託すことができるかもしれない。確証のない直感だけを頼りに、私は見知らぬ路地を曲がった。


高いブロック塀が続く細い道を抜けると、急に視界が開けた。そこには、周囲の景色から完全に切り離されたような空間があった。外壁をびっしりと覆う蔦は、赤や黄色に色づき始めている。

その奥に隠れるようにして建つ、古びた和風平屋のような建物。入り口の引き戸には、「図書館」とだけ記された小さな木の看板がかかっていた。噂は本当だったのだ。


私は足を止め、荒くなった呼吸を整えた。建物の前に立つだけで、圧倒的な時間の重みを感じる。私が生きてきた八十余年の歳月など、ここでは一瞬の瞬きに過ぎないのかもしれない。


杖を持つ手に力を込め、ゆっくりと扉に手をかけた。ギイッと、木が軋む低い音が周囲の静寂を破る。少し重い扉を引っ張り、私は中へと足を踏み入れた。

空気の質が、外とは全く異なっていた。ひんやりとした空気に、古い紙とインク、そして埃の匂いが溶け込んでいる。カビ臭さはなく、むしろ不思議と心が落ち着く香りだった。


薄暗い室内には、床から天井まで届く木製の本棚が迷路のように立ち並んでいる。高い窓から差し込む一筋の光が、空気中を舞う埃を金色に輝かせていた。

聞こえるのは、自分の微かな呼吸音と、床を踏む杖の音だけだ。広大な静寂が、私の老いた体を優しく包み込んでくれるような感覚に陥る。


私は布で包んだ本を胸に抱き直し、本棚の間をゆっくりと歩き始めた。十進分類法のような無機質な規則性は、ここには存在しない。それでも、本たちは独自の調和を保って整然と並んでいるように見えた。


革張りの重厚な全集、色褪せた布張りの小説、文字の擦り切れた学術書。誰も読まなくなった知識や物語が、ここで静かな余生を送っているのだ。

この本の居場所は、どこがいいだろうか。私は棚の一つ一つを丁寧に眺めながら、迷路の奥へと進んでいった。


入り口近くの明るい場所は、少し騒がしい気がした。誰かがふらりと入ってきて、無造作に手に取るかもしれない。それはそれで本の本望なのかもしれないが、私の感傷がそれを拒んだ。もう少し静かで、人目に触れにくい奥底が良い。


床板が軋む音を響かせながら、さらに奥へ、さらに奥へと向かう。何度か角を曲がると、少し開けた行き止まりのような空間に出た。そこには天井近くまで、本棚がそびえ立っている。並んでいる本はどれも年季が入っており、どこか誇り高き沈黙を保っていた。


「ここがいい」


私は直感的にそう思い、歩みを止めた。


本を置くための適当な隙間を探そうと、棚の下段へ視線を移した時だった。ふと、視界の隅で何かが動いた。薄暗がりの中に、二つの小さな光が浮かび上がっている。目を凝らすと、それは一匹の猫だった。


全身は灰色と白のまだら模様で、まだ成猫にはなりきっていない。細くしなやかな体躯を持つ、美しい子猫だ。青みがかった灰色の瞳が、侵入者である私をじっと見つめている。野良猫特有の荒んだ空気はなく、毛並みは驚くほど滑らかだった。


こんな場所に生き物がいるとは思いもよらなかった。いや、あるいはこの不思議な図書館が生み出した幻影なのだろうか。私は驚きつつも、不思議と恐怖や警戒心は抱かなかった。


「驚かせてすまなかったね」

かすれた声で、静かに語りかける。子猫は逃げることなく、ピンと立てた耳を少しだけ動かした。まるで私の言葉を理解し、品定めをしているかのようだった。


私が抱えているこの本は、半世紀以上前に異国の古書店で見つけたものだった。

当時、仕事でヨーロッパを放浪していた私は、雨宿りのために入った小さな店でこれに出会ったのだ。

未知の言語で書かれた、分厚く重たい哲学書。内容など一行たりとも読めなかったが、装丁の美しさに惹かれて手に入れた。


それ以来、引っ越しのたびに荷物の底に詰め込まれ、私の人生をずっと共にしてきた。

妻が存命だった頃は、よくこの本を指して「あなたの読まないお守りね」と笑われたものだ。本当にその通りだった。


読まれることのない本は、ただの紙の束に過ぎない。それでも、書斎の棚にこの背表紙があるだけで、私は不思議な安心感を得ていたのだ。若き日の野心、挫折、そして静かな諦念。私の人生のすべての季節を、この本は黙って見守り続けてくれた。

その本と別れることは、自分の過去の一部を切り離すような作業でもある。


私が立ち止まったまま昔話に耽っていると、子猫がゆっくりと立ち上がった。音もなく棚から飛び降り、私の足元へと近づいてくる。その足取りは優雅で、全く隙がない。床に積もった埃すら舞い上がらないほどの、完璧な身のこなしだった。


子猫は私の革靴の匂いをふんふんと嗅ぎ、それから杖の先を少しだけ確認した。そして、私が胸に抱えている布包みへと視線を上げる。


「これが気になるのかい?」


私はゆっくりとしゃがみ込み、包みを解き始めた。関節の強張った指先では、結び目を解くのにも時間がかかる。子猫は焦る様子もなく、お座りの姿勢で私の不器用な作業をじっと見守っていた。

ようやく布がはらりと落ち、年季の入った革張りの表紙が姿を現す。深いボルドー色の革は、長年の摩擦で角が丸くなっていた。


子猫は首を伸ばし、その古い本の匂いを丁寧に嗅いだ。紙の匂い、私の書斎の匂い、そして半世紀分の時間の匂い。それらをすべて確認するように、目を細めて鼻をひくつかせている。私はその様子を、息を潜めて見つめていた。


人間と本と猫。本来なら交わるはずのない三つの時間が、この瞬間、静かに交差している。


この図書館には、奇妙な力がある。ただ本を保管するだけの場所ではない。本が持つ記憶や、持ち主の想いのようなものを、静かに濾過し、浄化していく空間。私はそう確信していた。


街の図書館では、本は知識の共有財産として扱われる。バーコードが貼られ、貸出期限が決められ、効率的に管理されている。

だがここでは違う。本は一つの完結した存在として、ただそこに在ることを許されているのだ。


そして目の前にいるこの子猫は、その静かな営みを守る小さな司祭なのかもしれない。外の世界の喧噪や、残酷な時間の流れから、この聖域を隔離するための存在。私の老いた瞳には、子猫の輪郭が微かに光を帯びているようにすら見えた。


もちろん、ただの老人の感傷に過ぎないだろう。それでも、私はこの小さな命に対し、深い敬意を抱かずにはいられなかった。


「ここに置かせてもらうよ」

私は子猫に向かってそう告げ、本棚に向き直った。ちょうど目の高さにある棚に、一冊分の絶妙な隙間が空いている。まるで、最初からこの本を迎え入れるために用意されていたかのような空間だ。


私は両手で本をしっかりと持ち、その隙間へと静かに押し込んだ。スッと、引っかかることもなく本が収まる。隣り合う他の古い本たちと、見事な調和を見せていた。半世紀の間、私の手元にあった異国の書物は、今ようやく本来の居場所を見つけたのだ。


その瞬間、肩の荷が下りたような、そして心にぽっかりと小さな穴が空いたような、複雑な感情が押し寄せてきた。寂しくないと言えば嘘になる。


しかし、後悔は微塵もなかった。私がこの世を去った後も、この本はここで静かに呼吸を続けるだろう。そしていつか、全く見知らぬ誰かが偶然この場所を訪れ、この本を手に取る日が来るかもしれない。それでいいのだ。

物の命は、そうやって人から人へと、あるいは場所から場所へと受け継がれていくものなのだから。


本を収め終えた私が立ち上がると、子猫が短く「ミャウ」と鳴いた。それは感謝の言葉のようでもあり、別れの挨拶のようでもあった。澄んだ青灰色の瞳が、私をまっすぐに見上げている。


「ありがとう。あとは頼んだよ」

私は皺だらけの手を伸ばし、子猫の頭をそっと撫でた。子猫は逃げなかった。それどころか、自分から頭を押し付けるようにして、目を細めたのだ。

手のひらに伝わってくる、驚くほどの温かさと柔らかさ。ドクン、ドクンという小さな心臓の鼓動。生命の力強さが、私の冷え切った指先から体中へと伝わってくるようだった。


死へ向かってゆっくりと下っていく私の時間と、これから力強く登っていくこの小さな命の時間。その二つが、一瞬だけ重なり合った。


私は深く息を吸い込み、子猫から手を離した。これ以上の長居は無用だ。目的は果たした。あとは、静かに立ち去るだけである。


杖をつき直し、私は入り口へ向かって歩き始めた。来た時と同じように、床板が微かに軋む。しかし、足取りは不思議なほど軽かった。

背中に、小さな視線を感じる。振り返らなくてもわかる。 あの子猫が、私が見えなくなるまで見送ってくれているのだ。


幾重にも重なる本棚の迷路を抜け、引き戸の前に立つ。最後に一度だけ、私は広大な図書館の奥へ向かって深く頭を下げた。本たちへ、そして小さな守り手へ。

ギイッと扉を引き、外へ出る。眩しい秋の夕陽が、容赦なく私の顔を照らした。冷たい風が吹き抜け、枯れ葉を遠くへと運び去っていく。


外の世界は、相変わらず無情なスピードで時を刻んでいる。私は扉を閉め、ゆっくりと歩き出した。手の中にはもう、あの重い本はない。ただ包んでいた古い布だけが、ポケットの中でくしゃりと丸まっている。


家へ帰ろう。温かいお茶を淹れ、妻の仏壇に線香をあげよう。

「無事に送り届けてきたよ」

と報告するために。


私の人生の残された時間は、決して長くはないだろう。それでも、あの静かな図書館の存在を知った今、死を恐れる気持ちは不思議と薄らいでいた。何かを遺し、そして静かに消えていく。 それもまた、悪くない結末だと思えたのだ。


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