09話 さりげなくて優しい人
朝のホームルーム前。
教室に入ったマサキは、いつも通り窓際の一番後ろへ向かった。
いつもなら、このあたりで声が飛んでくるはずが、今日はなかった。
教室を見回した先に、如月さんの姿はまだない。
珍しいな、と思う。
いや、別に珍しくもないか。
鞄を机に掛け、席に着く。
イヤホンを片方だけつけて、教室のざわめきはそのまま耳に残すようにした。
昨日のことを変に意識しているのかも知れない。
自分から少しだけ話しかけたこと。
(いや、今日もいつも通りだ)
自分の毎日に、特別変わったことなど起きない。
朝、教室に来て、授業を受けて帰る。
誰かに話しかけられることもなければ、自分から話しかけることもない。
休み時間はイヤホンをつけて、窓の外かスマホを見る。
それで困ったことはない。
現実の方には、何も期待していない。
ポケットからスマホを取り出したところで、教室がふっと賑やかになった。
顔を上げると、あとから教室へ入ってきた如月さんが目に入る。
入ってくるなりすぐ、何人かの友達に囲まれている。
「如月さん、おはよー」
「おはよー、今日も可愛いね」
「えー、ありがとー」
軽やかな声が教室に広がる。
教室の中心が、如月さんのいる場所に引っ張られていく。
自分のいる窓際からは、遠い存在の人だった。
それでも朝、目が合えば「おはよー」と挨拶してくれる。
オレも短く返す。
今日は、そのやり取りはない。
オレの方が先に教室へ来て、そのタイミングがなかっただけのことだ。
スマホの画面をつけようとした、その時。
ふわり、と甘い香りが近づく。
「松前くん」
顔を上げると、如月さんがすぐ隣に立っていた。
「おはよー」
いつもの声。
でも、いつもの距離じゃない。
机に手をつき、オレの顔を覗き込むように身を屈めている。
視線が、真正面からぶつかった。
(近っ)
しかも、
(いい匂いする)
目を逸らそうと思うのに、逸らす先が見つからない。
透き通るような白い肌。
まっすぐこちらを映す大きな瞳。
すっと通った鼻筋。
柔らかそうな淡いピンクの唇。
瞬きのたび揺れる長いまつ毛。
綺麗すぎて情報量が多い。
頭が追いつかない。
見るな。
いや、近いから目に入るだけだ。
こんな距離にいれば、匂いがするのだって当たり前だ。
別に嗅ごうとしているわけじゃない。
早く、普通に挨拶を返せ。
「……おはよ」
短く返す。
精一杯だった。
声、変じゃなかったか。
顔、変じゃなかったか。
自分では分からない。
如月さんは、その一言を聞くと、小さく笑った。
目が合ったまま、一度だけ満足そうに頷く。
「うん」
机についていた手を離し、如月さんがゆっくりと身体を起こす。
その動きに遅れて、ブラウスを押し上げるふくらみが弾んで上下した。
(揺れた)
目のやり場を、一瞬見失った。
如月さんはそんなことに気づいた様子もなく、友達の方へ戻っていく。
オレは、その背中を数秒だけ目で追った。
(え、なに)
なんだったんだ、今の。
何か用があったのかと思った。
でも、挨拶をしただけだった。
おはよう。
おはよう。
それだけで終わった。
挨拶をするためだけに、わざわざ席まで来た。
(勘違いするな)
如月さんは誰にでもああなんだろう。
自分だけが特別扱いされたわけじゃない。
5月になってもクラスに馴染めていない自分が、教室で浮いているように見えたんだ。
だから気を遣った。
あぶれてる人間がいれば、彼女は誰であっても放っておかない。
そういうところが、如月さんの人気の理由でもあるんだろう。
それだけだ。
結論は出た。
なのに、耳の熱だけが引かない。
ふいうちであの距離まで来られたら、誰だってこうなる。
周りの何人かが、こちらをちらちら見ていた。
「如月さんが自分から行くのって珍しくない?」
「しかも松前じゃん、なんで」
「え、なんかあった?」
「如月さんと松前が」
「いや、だって昨日もなんかさ…」
声が、そこで途切れる。
聞かれてはまずいとでも思ったのか、それとも本人も確信がないのか。
(大げさなんだよ)
昨日のことも、今のことも、それ以上でも以下でもない。
挨拶をして、挨拶を返した。
毎朝どこの教室でも起きていることに、わざわざ理由なんて要らないはずだ。
好奇の目を感じたまま、マサキはスマホを取り出し、ロックを解除する。
開いたのは、ゲームの攻略サイトだった。
◇ ◇ ◇
放課後の掃除の時間。
掃除当番の生徒たちが、それぞれの持ち場で作業を始める。
机を運ぶ、窓を拭く、いくつもの作業がばらばらに進んでいた。
リサは机が寄せられたあとの床を、はじからモップでなぞっていく。
(あーあ、昨日はやっちゃったな……)
昨夜、ゲームの中でMくんに聞いてしまったことを思い出す。
『彼女いますか』
『好きな子は』
『気になる子は』
顔が見えないと、遠慮がなくなってしまった。
Мくんが松前くんだと気づいてから、知りたいことばかり増えていく。
松前くん本人には、絶対聞けないことだから。
現実では話せない分、Мくんの前でだけ、あんなに突っ込んだことを聞いていた。
我ながら、調子がよすぎる。
でも、ゲームの中のMくんは、何を聞いてもちゃんと答えてくれた。
雑談にも付き合ってくれるし、話していて楽しい。
でも、現実の松前くんは違うんだよね。
ぜんぜんこっちを見てくれない。
朝、挨拶は返してくれるけど、それだけ。
構ってもらえない拗ねが、ゲームの中の質問攻めになって出ていた。
(バレたら気まずいんですけど……)
思い出すと、頬のあたりがまた熱くなる。
今朝、いつもなら遠くから「おはよー」で済ませるのに、わざわざ輪を抜けて席まで行って挨拶をした。
あれ、松前くんは何とも思わなかったんだろうか。
こっちだけが変に意識しているみたいで、それもまた少し悔しい。
モップを動かす手を止め、バケツの水へ目を向ける。
(そろそろお水替えなきゃ)
そう思った矢先だった。
いったん机を運び終えた松前くんが、ふらっとそのバケツを持って教室を出ていく。
リサはモップを持ったまま、その後ろ姿をぼんやり目で追っていた。
しばらくして、水を替えて戻ってきた。
バケツを元の場所に置くと、そのまま何事もなかったように机を運び始める。
モップがけは、あたしの担当だ。
松前くんの仕事じゃない。
水を張ったバケツは、結構な重さがある。
あたしが見ていなければ、誰がやったのかも分からないくらいの早さだった。
「松前くん、お水ありがと」
声をかけると、松前くんがちらとこちらを見る。
「……勝手にやって悪い」
お礼を言ったのに、謝られた。
意味が分からない。
「え、ううん……助かった」
リサはモップの柄を握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
松前くんはもう次の机に手をかけていて、無言のまま運んでいく。
はっとして、リサはモップを持ち直す。
松前くんが机をどかしたばかりの床に、モップの先を滑らせた。
初めてゲームで会った日のことが頭をよぎる。
誰も足を止めなかった初心者の自分に、松前くんは高い蘇生アイテムを迷わず使って助けてくれた。
お礼を言うと、居心地悪そうにしていた。
誰に言われたわけでもないのに、先に動いている。
感謝されると、なぜか申し訳なさそうにする。
(あの時と、おんなじだ)
◇
モップがけが終わり、今度はゴミ箱の袋を替えようと口を縛る。
持ち上げようとしたところで、近くにいた男子が寄ってきた。
「如月さん、それ俺が捨ててくるよ」
「え? 大丈夫だよ」
「いいっていいって、重そうだから」
返事を待たず、リサの手から抜き取るように袋を持ち上げた。
「ほんと? ありがとう」
声のトーンを一段上げて、いつもの笑顔でお礼を言うと、男子は得意げに教室を出ていった。
(……なんか違う)
自然と松前くんへ目が向く。
床に落ちていた画鋲を拾って、掲示板に刺し直している。
黒板消しが端に寄って落ちそうになっているのを、ついでのように直す。
目についたことを当たり前みたいに済ませていた。
なのに、褒められたそうにも、見られたそうにもしていない。
(……ああいうところ)
やっぱり、松前くんはMくんだ。
頭では、もう分かっていたことのはずだった。
それでも、目の前で同じことをされると、確信の重みがまるで違う。
やっていることだけ見れば、どっちも人助けだ。
でも、片方は見てほしくてやっていて、もう片方は見られたくないようにしている。
松前くんの場合は、意識してやっているわけじゃない。
考えて動いているわけでもない。
気づいたら、もう手が伸びている。
だから本人には、それが<やってあげた>にすらならない。
そういう優しさだった。
その事実だけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
でも、
(優しいからって、甘えてちゃダメだ)
このままだと、ずっと頼りっぱなしになる。
装備も、戦い方も、お金の稼ぎ方も、全部教えてもらって、手伝ってもらってばっかりで、まだなに一つ返せてない。
面倒みてもらって、お世話になってばっかりで、何もできない初心者があたしでしたなんて……言えない。
名乗るなら、少しでも成長してからじゃないと恥ずかしい。
(レベル上げくらいは、もう一人でやれるはず)
町で流れていた討伐パーティー募集のチャットを思い出す。
知らない人ばかりなのは、正直ちょっと怖い。
うまくいかないかもしれない。
強い人に怒られるかもしれない。
それでも、Mくんに迷惑をかけ続けるよりずっといい。
まずは一回だけ、挑戦してみよう。
(今日は一人で、他の人のパーティーに参加する!)
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