06話 現実の距離は、これくらい
もう、疑う余地はなかった。
確かめずにはいられなくなって、狩り場に行く前に聞いてしまった。
『Mさんは高校生ですか』
返ってきたのは、ほんの二文字。
『まぁ』
それだけでMさんが松前くんと重なり、普通じゃいられなくなった。
昨夜、連れていってもらった狩り場は<青の洞窟>、モンスターは<しびれコウモリ>。
攻撃の避け方まで、松前くんの落としたメモのとおりだった。
でも、まだ言い切れなかった。
あのメモは、松前くんが書いたものじゃないのかもしれない。
同じゲームをしてる友達にもらったり、ゲーム内のフレンドに聞いたことを写しただけかもしれない。
(もう一つだけ確かめよう)
本人しか知らないことなら、偶然は重ならない。
だから、何を飲んでいるのか聞いた。
返ってきた答えは、
『コーラ』
あの日、購買帰りの松前くんが手に持っていたのも、コーラのペットボトルだった。
そこで気づく。
(学校でもコーラ、家でもコーラ…そんなに好きなんだ。なんか可愛い)
可愛いって何。
顔も名前も知らない、画面の向こうの相手が、同じクラスの男の子だった。
毎朝「おはよー」と声をかけて、「おはよ」とだけ返してくるだけの人。
今朝は、髪をひとつに束ねようか、下ろしたままにしようか、いつもならすぐに決められることがやけに時間がかかった。
結局、いつも通り下ろしたまま、前髪だけ時間をかけて整えてきた。
昨夜、洞窟の中でもらった短い言葉のひとつひとつを、頭の中で何度も再生する。
あの飾り気のない返し方が、今はもう彼の顔と結びついてしまっている。
(今日、話せるかな)
もちろん、現実とゲームは別だと分かっている。
あれはゲームの中での出来事。
それでも、期待してしまう自分を止められなかった。
「如月さん、おはよー」
教室に着くと、いつも通り数人が声をかけてくる。
「おはよー」
返事をしながら、教室の中を見回す。
(……まだ来てない)
窓際の一番後ろ。
松前くんの席は空いたままだった。
少しだけ肩の力を抜いて、自分の席へ向かう。
鞄を置くと、すぐに何人かが集まって話しかけてくる。
小テストで思ったより点が良かった話、昨日の部活で活躍した話、新しく買った腕時計をさりげなく見せてきたり、先生のモノマネで笑わせようとしてきたり。
誰も彼も、自分の話を聞いてほしそうに話しかけてくる。
リサは笑顔で相槌を返す。
だけど、視線だけは何度も教室の入口へ向いてしまう。
教室のドアが開くたび、反射的に顔がそちらへ向く。
そして、次に開いたドアから、イヤホンをつけた松前くんが入ってきた。
(あ……)
いつもなら、その場から声をかけるだけだったのに、今日は違った。
気づけば、椅子を引いて立ち上がって入口まで歩いていた。
「松前くん、おはよー」
「……おはよ」
いつも通りの短い返事。
松前くんは一歩進んだところで足を止めた。
少しだけ迷うように視線を落としてから、こちらを見る。
「あの、如月さん」
初めてだった。
挨拶だけで終わる松前くんが、自分から続きを口にしたのは。
もしかして。
(気づかれた?!)
思い当たることが次々と並ぶ。
同じ高校生。
小テスト。
何度も止まるチャット。
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
松前くんは言葉を切ってから、ぽつりと言った。
「昨日の……ありがと」
昨日、ありがとう。
ゲームでパーティーを組んで、一緒に遊んだ。
そのお礼だ。
やっぱりバレてる。
松前くんは、分かった上でお礼を言っている。
「こ、こちらこそ!」
「え」
「え?」
松前くんは視線をこちらに戻し、少しだけ眉を寄せた。
互いに相手の顔を見たまま、会話が止まる。
「あ、覚えてないか」
松前くんが、視線を教室の奥へ逃がしながら言った。
「昨日、紙拾ってもらって……どうもしか言えなかったから」
(あ……そっちの話か)
勝手に勘違いして、一人で慌てていた自分が急に恥ずかしくなる。
お礼なんて、昨日の「どうも」で十分だったはずだ。
それでも、わざわざ言い直しにきた。
普段、自分から話しかけに行くような人じゃないのに、松前くんが、自分から。
ゲームのリサだとは、気づかれていない。
それにほっとしたはずなのに、胸はまだどきどきしたままだった。
「ううん、忘れてないよ」
できるだけ普段通りの声を出す。
「大事なものだった?」
「うん、まぁ……大事」
「そ、そうなんだ……大事なんだ」
声が、少しだけ上ずった。
あの紙に書かれていたのは、あたしのレベルと、狩り場と、装備の目安だった。
全部、初心者のあたしのために考えて書かれたもの。
そのメモを、松前くんは<大事>だと言った。
画面の向こうにいる顔も知らない<あたし>のために、そこまで考えてくれる。
ゲームの中だけのフレンドなのに。
自分で聞いておいて、頬のあたりが急に熱くなった。
(もっと話したいな)
あの、と言いかける。
ゲームのこと。
学校のこと。
コーラ好きなんだねってこと。
なんでもいいから、もう少しだけ。
「引き止めて悪い、それだけ」
言うだけ言って、松前くんはもう背を向けていた。
早い。
あたしの顔はまだ熱いままなのに、目の前の本人はもう、いつもと変わらない足取りで自分の席へ向かっている。
窓際の一番後ろに座って、鞄を机にかけ、スマホに視線を落とす、いつもの姿に戻っていた。
「……」
リサはしばらく、その横顔を見ていた。
(大事、って言ったのは)
あたしにじゃない。
ゲームの中のリサには、狩りも、装備も、雑談も、育成メモまで。
現実のあたしには『昨日の、ありがと』で終わり。
(……寂しい)
と思いかけて、リサは自分で打ち消した。
だって、これが普通だ。
現実の松前くんは、誰に対してもこうだろう。
群れない人、踏み込まない人。
それでも、もう少しだけ話したかった。
もし、あたしがゲームの中のリサだと知ったら、松前くんはどんな顔をするんだろう。
驚くかな。
困るかな。
それとも、ただ「そうか」とだけ返すんだろうか。
想像しかけて、リサは慌てて首を振った。
まだ、言うつもりはない。
急に打ち明けたら、今の距離が壊れてしまう気がした。
ゲームだから、あんなふうでいられる。
その関係を、自分から手放したくなかった。
「如月さん、今の何?」
不意に声をかけられて、はっとする。
松前くんが席へ戻るのを待っていたみたいに、入口の近くへ男子たちが集まってくる。
「松前と喋るの珍しくない?」
「んー、そう?」
ここで一つ答えたら、次々聞かれる。
「何の紙?」「何て書いてあったの?」と質問攻めになる。
だから、ただにこっと笑って、小さく首をかしげる。
このあとは何を聞かれても、適当に相手の話へ持っていけば終わるはず。
「……ていうか、如月さん。なんか顔赤くない?」
(えっ!?)
予想もしなかった一言に、笑顔がこわばった。
「そ、そうかな?」
頬に触れながら笑ってみせる。
「あ、今日ちょっと暑くない?」
苦しいごまかしだと、自分でも分かった。
今はまだ5月だ。
このままじゃ、追及される。
相手が次の言葉を言う前に、リサは慌てて口を開いた。
「そういえば、昨日の試合ってどうだったの?」
「ああ! それがさー」
男子の表情がぱっと明るくなる。
あとはもう、昨日の部活の話で盛り上がる。
リサは笑顔で相槌を打ちながら、小さく胸をなで下ろした。
そのまま話を聞いているうちに予鈴が鳴り、男子たちはそれぞれの席へ戻っていく。
教室が授業前の落ち着きを取り戻した。
リサは、窓際の一番後ろへ視線を向ける。
松前くんは、いつも通りイヤホンをつけてスマホを見ていた。
こっちを見ることは、やっぱりない。
(現実だと、これくらいなんだよね)
現実の距離感に、寂しさを感じる。
それでも、自分の中で結論を出した。
(いいよ、別に)
現実で踏み込めないなら、それでいい。
誰かに話しかけることもなく、自分から輪に入ることもない。
群れることをしない人。
でも、夜になれば違う。
画面の向こうでは、あたしの話をちゃんと拾ってくれる。
教室では見せない顔を知っているのは、今、この教室で自分だけ。
授業が始まる。
先生の「ここ、テストに出るぞ」という声よりも、さっき言われた『大事』という二文字の方が、ずっと頭に残っていた。
(あと何時間だろう)
学校が終わるまで。
まだ一時間目なのに。
今夜も、Mくんはログインしてくれるかな。
ゲームのこと。
学校のこと。
それとも、もっと違うこと。
考え始めると、少しだけ頬がゆるむ。
(今日は、何を聞こうかな)
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