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93話 向いていない

不知火過去回嘘なしver

翌朝。


教室へ入った不知火は、違和感を覚えた。

いつもなら。


「おはようございます!」


真っ先に聞こえる千夏の声がない。

静かな教室。


千夏は席に座っていた。

窓の外を眺めたまま、一度もこちらを見ない。


「起立。」


号令がかかる。

全員が立つ。


千夏だけが、一拍遅れた。

ほんの些細な違和感。

けれど、不知火の胸には小さな棘が刺さった。


昼休み。

職員室。


「先生。」


聞き慣れた声は、今日はどこか弱々しかった。

振り返る。

千夏が立っている。


「質問です。」


そう言ってノートを差し出す。

不知火は少し安心した。


(いつも通りか。)


ページを開く。

倫理の問題が並んでいる。


昨日の『好きです。』は、まるで何事もなかったかのように。


不知火は静かに書き込んだ。

説明を終える。


「ありがとうございます。」


千夏は笑う。

けれど、その笑顔は以前より短かった。


「先生。」


「ん?」


「私、ちゃんと笑えてますか?」


突然の質問だった。

不知火は少し考え、


「笑えてるよ。」


そう答えた。

千夏は小さく頷く。


「そっか。」


その一言だけ残して、職員室を出ていった。


夕方。


廊下を歩いていると、女子トイレの前から声が聞こえた。


「調子乗ってるよね。」


「先生のお気に入り。」


「告白までしたらしいよ。」


笑い声。

誰かが言う。


「気持ち悪。」


不知火は足を止めた。

女子生徒たちは、不知火に気付くと慌てて散っていく。


廊下には静寂だけが残った。


(……告白?)


胸がざわつく。

昨日のノート。


『好きです。』


あの四文字が頭をよぎる。


(もう、広まっているのか。)


思っていた以上に早かった。


その日の放課後。

千夏は職員室へ来なかった。


翌日も。

その翌日も。

不知火は何度も教室へ目を向ける。


千夏はいる。

授業も受けている。

けれど、放課後だけは姿を見せなくなった。


距離を置かれている。

それくらい、不知火にも分かった。


「……これでいい。」


誰に言うでもなく、小さく呟く。

教師と生徒。

本来あるべき距離に戻っただけ。


そう思おうとした。

だが、その距離は。

千夏を守るための距離ではなく。

千夏が、一人で抱え込む距離になってしまっていた。


千夏は笑わなくなった。

机には落書き。


教科書はなくなる。

靴箱にはゴミ。


廊下を歩けば、肩がぶつかる。

教室では、誰も隣に座らない。


それでも。

彼女は誰にも助けを求めなかった。


「大丈夫です。」


その一言だけで、全部を飲み込んでしまう。


不知火も気付いていた。

気付いていたからこそ、迷っていた。


教師として。

一人の生徒と必要以上に距離を縮めるべきではない。


ましてや、好意を向けられている今は尚更だ。

優しくすれば誤解を生む。

突き放せば傷付ける。


どちらが正しい。

何が倫理なのか。

答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。


放課後。

千夏は、もう職員室へ来なくなっていた。

以前なら毎日のように響いていた声。


「先生。」


その声が聞こえないだけで、職員室は妙に静かだった。


不知火は何度も入口へ目を向ける。

そして、そのたびに自分へ言い聞かせた。


(これでいい。)


(これが教師として正しい。)


(距離を置くべきなんだ。)


そう思わなければ、自分の選択を肯定できなかった。


数日後。


昼休み。

廊下を歩いていると、向こうから千夏が歩いてきた。


以前よりも痩せたように見えた。

目の下には薄い隈。

制服もどこか乱れている。


それでも。

不知火の姿を見つけた瞬間だけ、ほんの少し表情が明るくなった。


小さく息を吸う。


「……先生。」


その一言が耳に届く。

不知火も顔を上げる。


目が合う。

ほんの一瞬。

その瞬間、不知火は周囲の視線に気付いた。


廊下の端。

こちらを見ている生徒たち。

小さく笑う声。


「また話してる。」


そんな囁きが聞こえた気がした。

胸が締め付けられる。


教師として。

ここで応えてはいけない。

優しくしてはいけない。

期待を持たせてはいけない。


その結論だけを信じて。

不知火は静かに視線を逸らした。


何も言わず。

そのまま歩き去った。


後ろから、声は聞こえなかった。

振り返ることもしなかった。


それが。

教師として正しい選択だと信じていたから。


だから、不知火は知らない。

立ち止まったままの千夏が。

唇を震わせながら、小さく笑っていたことを。


「……そっか。」


その笑顔は。

今までで一番、寂しい笑顔だった。


翌朝。


教室に走ってくる教員。


「生徒が屋上から……」


廊下が騒がしい。

慌ただしく走る足音。

誰かの叫び声。


「屋上だ!」


「救急車!」


不知火は椅子を蹴るように立ち上がった。

何が起きたのか分からない。

ただ胸騒ぎだけが、全身を支配していた。


階段を駆け上がる。

屋上の扉を押し開ける。


強い春風が吹き抜けた。

フェンスの向こう。


校庭には人だかりができている。

誰かが泣いていた。


教師たちが必死に生徒を下がらせている。

救急車のサイレンが近付いてくる。


そして。

その中心に。

見覚えのある制服が見えた。

桝田千夏だった。


世界から音が消えた。

足が動かない。

呼吸ができない。


昨日まで。

あんなに近くにいた生徒。


毎日のように職員室へ来て。

嬉しそうに質問をして。

笑っていた少女。

その姿は、もう動かなかった。


不知火はフェンスを握る。

力を込めすぎて、指先が白くなる。

それでも痛みは感じない。


頭の中で。

昨日の光景だけが、何度も何度も繰り返される。


『……先生。』


目が合った。

そして。

自分は逸らした。


あれは。

教師として正しい判断だった。


生徒と距離を置く。

誤解を生まない。

倫理を守る。


全部。

教師としては正しかったはず。

それなのに。

どうして。


「……なんでだ。」


声が震える。


「俺は……。」


膝から力が抜けた。

冷たいコンクリートに崩れ落ちる。

両手で顔を覆う。


教師として。

大人として。

正しい選択をした。


……なら。

どうして、一人の生徒も救えなかった。


正しいって、何だ。

倫理って、何だ。


人を救えない正しさに。

一体、どんな意味がある。


その問いは。

答えが出ることはなかった。


それから数週間。

不知火は教壇に立ち続けた。


だが、生徒の顔を見るたびに千夏が重なる。

職員室の扉が開くたび。


「先生。」


そう呼ばれた気がして振り返る。

誰もいない。


授業中。

空席になった机を見るたび、胸が締め付けられる。


夜は眠れない。

眠っても、夢の中で何度も屋上へ戻る。


目を逸らさなければ。

あの日、声を掛けていれば。

違う未来があったのではないか。


そんな「もし」が、頭の中を埋め尽くしていく。

そして、不知火は退職届を提出した。


「理由は?」


校長の問いに、不知火は静かに答える。


「……教師に向いていません。」


それ以上は何も言わなかった。

本当の理由を口にする資格など、自分にはないと思ったから。


学校を去る日。

最後に屋上を見上げる。


桜の花びらが風に乗って舞っていた。

あの日と同じ景色。

それでも。

もう二度と、あの頃には戻れない。


「正しいって、何だ。」


その問いだけを胸に抱えたまま。

不知火は教師を辞めた。


そして、あの日。

神様サバイバルが始まった日。

屋上へと、足を運ぶことになる。

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