92話 恋する少女
不知火過去回嘘なしver
春。
桜が舞う校舎。
昼休み。
不知火は職員室で書類に目を通していた。
コンコン。
控えめなノック。
「失礼します。」
顔を上げる。
桝田千夏だった。
「先生。」
「少し質問、いいですか?」
不知火は思わず笑う。
「今日で何回目だ?」
「十五回目です。」
「数えてるのか。」
「もちろんです。」
得意げに笑う千夏。
不知火もつられて笑った。
「じゃあ十六回目だな。」
「はい!」
千夏は嬉しそうにノートを広げた。
倫理の話。
社会問題。
ニュース。
映画。
漫画。
いつしか二人の会話は、教科書だけでは終わらなくなっていた。
「先生って。」
千夏がふと呟く。
「話を最後まで聞いてくれますよね。」
「そうか?」
「うん。」
少し照れたように笑う。
「先生だけです。」
その言葉に、不知火は少しだけ視線を逸らした。
「教師だからな。」
「違います。」
即答だった。
「教師だからじゃないです。」
「先生だからです。」
不知火は返事ができなかった。
それからも。
放課後になると千夏は職員室へやって来た。
他愛もない話。
倫理の話。
将来の夢。
気づけば、それが当たり前になっていた。
職員室でも笑われる。
「また桝田さん?」
「不知火先生、すっかり人気者ですね。」
「倫理が好きなんですよ。」
苦笑いする不知火。
その横で千夏は少しだけ嬉しそうだった。
ある日の昼休み。
廊下を歩いていると、小さな声が聞こえた。
「また先生と一緒。」
「いいよねぇ。」
「お気に入りだから。」
クスクスと笑い声が響く。
不知火は少し立ち止まる。
(思春期だからな。)
(多少はあるか。)
そう考え、歩き出した。
深くは考えなかった。
数日後。
授業。
「先生。」
いつものように千夏が手を挙げる。
しかし。
周りの視線が違う。
笑っている者。
顔をしかめる者。
露骨に目を逸らす者。
違和感はあった。
それでも授業は続けた。
放課後。
千夏が職員室へ来る。
いつも通り笑っている。
「先生。」
「今日も質問です。」
「元気だな。」
「元気だけが取り柄です。」
そう笑う。
けれど。
帰ろうとした瞬間。
制服の袖が、ほんの少し震えていることに気付いた。
「寒いのか?」
「え?」
千夏は袖を隠すように笑う。
「大丈夫です。」
「そうか。」
それ以上は聞かなかった。
翌週。
千夏の机に落書きが増えた。
教科書が隠される。
靴箱が荒らされる。
誰かが笑う。
誰かが見て見ぬふりをする。
職員室にも報告は来ていた。
「桝田さん、少しクラスで浮いてるみたいですね。」
「様子を見ましょう。」
不知火は頷く。
(まだ大丈夫。)
(千夏は強い子だ。)
そう、自分に言い聞かせた。
放課後。
千夏は今日も職員室へ来た。
少しだけ元気がない。
それでも笑う。
「先生。」
「はい。」
ノートを差し出す。
「今日の質問です。」
不知火は受け取る。
ページを開く。
そこには問題でも。
感想でもなく。
小さな文字で。
『好きです。』
その四文字だけが書かれていた。
時間が止まる。
職員室のざわめきが遠くなる。
千夏は俯いたまま、小さく言った。
「……返事。」
「いつか、聞かせてください。」
そう言って笑った。
無理に笑った。
その笑顔の奥にある疲れに。
不知火は、このときまだ気付けなかった。
その日から。
千夏へのいじめは、
さらに激しくなっていく。




