91話 教師
不知火過去回嘘なしver
ホームルーム。
ガラガラ。
教室の扉を開ける。
三十数人の女子生徒。
一斉にこちらを見る。
(多い。)
(無理無理無理。)
(落ち着け。)
黒板へ名前を書く。
振り返る。
「今日から一年間、よろしくお願いします。」
静かに頭を下げる。
すると。
「先生若ーい!」
「彼女いるんですかー?」
「え、イケメンじゃん!」
教室中が笑う。
不知火は耳まで真っ赤になった。
「じゅ、授業には関係ない!」
さらに笑い声。
(終わった。)
(完全になめられてる。)
しかし。
その笑顔を見ているうちに、
自然と口元が緩んだ。
(……いいクラスかもしれない。)
そんな予感がした。
◇
最初の授業。
黒板へ大きく書く。
倫理。
「倫理とは。」
「人としてどう生きるかを考える学問だ。」
教室は静かだった。
興味がない。
そんな空気も少し感じる。
それでも構わなかった。
誰か一人でも。
この授業を好きになってくれたら。
そう思っていた。
「じゃあ質問だ。」
教室を見渡す。
「人を助けることは正しいことか?」
誰も手を挙げない。
静かな教室。
その中で。
一人だけ。
真っ直ぐに手が挙がった。
「先生。」
不知火はその少女を見る。
大きな瞳。
真面目そうな表情。
「正しいって。」
「誰が決めるんですか?」
その問いに。
不知火は少しだけ笑った。
(いた。)
(この授業を楽しんでくれる子が。)
それが。
桝田千夏との、
最初の出会いだった。
「先生。」
授業終了のチャイムが鳴る。
生徒たちが席を立ち始める中、一人だけ真っ直ぐ教壇へ向かってくる少女がいた。
千夏だった。
「さっきの続き、聞いてもいいですか?」
胸に抱えたノートを開く。
不知火は笑う。
「もちろん。」
教室には、帰り支度をする生徒たちの笑い声が響いている。
その中で二人だけ、黒板の前に立っていた。
「先生。」
「善いことをしたのに、誰かが傷付くことってありますよね?」
「あるな。」
「じゃあ、それは善いことなんですか?」
不知火は少しだけ考えた。
「難しい質問だな。」
千夏は嬉しそうに笑う。
「先生、いつもそう言いますよね。」
「難しいって。」
「簡単に答えを出したくないんだ。」
不知火は黒板へ近付き、小さく円を描いた。
「人には、それぞれ立場がある。」
さらにもう一つ円を描く。
「価値観も違う。」
「だから、同じ出来事でも正しさは変わる。」
千夏は真剣な表情でノートへ書き込む。
「なるほど……。」
「でも私は。」
顔を上げる。
「それでも正しい方を選びたいです。」
その真っ直ぐな瞳に、不知火は思わず笑みを浮かべた。
「その気持ちは、大切にしてほしい。」
「はい!」
元気よく返事をすると、千夏は満足そうに教室を出ていった。
その背中を見送りながら、不知火は小さく笑う。
(本当に倫理が好きなんだな。)
◇
翌日。
「先生!」
朝一番。
職員室の扉から顔だけ覗かせる千夏。
「おはようございます!」
「お、おはよう。」
「昨日考えたんですけど!」
朝から全力だった。
職員室中の教師が笑う。
「また桝田さん?」
「不知火先生、人気者ですねぇ。」
「いや、違いますよ。」
顔を赤くする不知火。
千夏は首を傾げる。
「先生?」
「なんでもない!」
周りの教師たちはさらに笑った。
それから毎日のように。
「先生。」
「先生。」
「先生。」
授業のあと。
昼休み。
放課後。
倫理の話。
ニュースの話。
映画の話。
恋愛の話まで。
「先生は初恋いつですか?」
「……授業と関係あるか?」
「あります!」
「人を好きになることも倫理ですよ!」
「無理やりだな、それ。」
千夏はケラケラ笑った。
その笑い声につられて、不知火も笑う。
気付けば。
教師になってから一番笑っている時間だった。
ある日。
放課後。
職員室。
一人の女性教師が苦笑いする。
「桝田さん、また来てるの?」
「はい!」
「不知火先生ばっかり困らせちゃダメよ?」
「困ってませんよね?」
突然振られた不知火。
「え?」
「いや……。」
「困って……。」
千夏はじっと見つめる。
不知火は観念したように笑った。
「……困ってない。」
その一言で。
千夏は花が咲いたように笑った。
「やった!」
職員室中が笑い声に包まれる。
不知火は頭を掻いた。
(教師って。)
(思ってたより、ずっと騒がしいな。)
でも。
悪くなかった。
その帰り道。
夕焼けが校舎を赤く染めていた。
一人になった不知火は、ふと空を見上げる。
(いい学校だ。)
(いい先生たちがいて。)
(いい生徒たちがいる。)
そして。
一人の生徒の笑顔が頭に浮かぶ。
桝田千夏。
真っ直ぐで。
よく笑って。
誰よりも一生懸命考える少女。
(ああいう生徒が。)
(教師をやっていて、一番嬉しいんだろうな




