90話 答えはない
不知火焔過去回(嘘無しver)
不知火焔は、昔から少し変わった子どもだった。
友達が喧嘩をしていても。
先生に怒られている子を見ても。
テレビで事件のニュースを見ても。
焔は、出来事そのものではなく、
「なぜ」
を考えていた。
(なんで殴ったんだろう。)
(なんで謝らなかったんだろう。)
(なんで先生はあの子だけ怒ったんだろう。)
相手にも理由がある。
自分にも理由がある。
行動には必ず意味がある。
そう思っていた。
だから。
焔は自分自身にも問い続けた。
(なんであの時、助けなかった?)
(なんで笑った?)
(なんで黙っていた?)
一つの出来事に対して、何時間も考えることもあった。
小学生らしくない。
そんな子どもだった。
だが友達はいた。
遊びにも誘われた。
でも。
「焔ってさ。」
「考えすぎじゃね?」
「めんどくさいやつ。」
笑いながら言われることも少なくなかった。
悪口ではない。
でも。
どこか、自分だけが違う。
そんな感覚は、ずっと胸の奥に残っていた。
◇
高校一年。
倫理。
それまで聞いたこともない授業だった。
教壇に立つのは、五十代くらいの男性教師。
黒板にゆっくりと文字を書く。
『人は、なぜ生きるのか。』
教室中が静まり返る。
誰も答えない。
教師は笑った。
「正解はありません。」
「だから面白いんです。」
焔は、その言葉に目を見開いた。
正解が、ない?
今まで学校では。
答えは一つだった。
数学も。
英語も。
歴史も。
正解があり、不正解があった。
でも。
倫理だけは違った。
「みなさん。」
教師は教室を見渡す。
「人を助けることは正しいことですか?」
何人かが頷く。
「はい。」
教師も頷いた。
「では。」
少し間を置く。
「一人を助けた結果、十人が苦しむなら。」
「それでも助けますか?」
教室が静かになる。
誰も答えられない。
教師は笑った。
「それが倫理です。」
「正しさは、一つではありません。」
焔の胸が、大きく揺れた。
(そうか……。)
(だから答えが出なかったんだ。)
(俺は間違ってたんじゃない。)
(答えが一つじゃないことを、一人で考え続けてたんだ。)
その日。
授業が終わると同時に。
焔は職員室へ向かった。
「先生。」
「少し質問してもいいですか?」
教師は笑う。
「もちろん。」
そこからだった。
毎時間。
授業が終わるたびに職員室へ通った。
「先生。」
「善って何ですか?」
「先生。」
「嘘は全部悪なんですか?」
「先生。」
「正しいことをしても、人を傷付けるなら、それは正義ですか?」
教師は、すぐには答えない。
「焔くんは、どう思う?」
必ず聞き返した。
「え?」
「私は教師です。」
「でも。」
「君の人生を生きるのは、私じゃない。」
「答えは教えません。」
「一緒に考えましょう。」
焔は考える。
何日も。
何週間も。
また職員室へ行く。
教師は笑う。
「いい顔になってきましたね。」
「え?」
「昔の君は、答えを探していました。」
「今の君は。」
「人を理解しようとしている。」
その言葉は。
焔の胸に深く刻まれた。
卒業の日。
焔は職員室を訪ねた。
「先生。」
「俺。」
「教師になろうと思います。」
教師は驚かなかった。
「そうですか。」
静かに笑った。
「理由を聞いても?」
焔は迷わず答える。
「俺は。」
「正解を教える教師じゃなく。」
少し笑う。
「あの日の先生みたいに。」
「生徒と一緒に考えられる教師になりたいです。」
教師は何も言わなかった。
ただ。
ゆっくりと立ち上がる。
焔の肩に手を置いた。
「きっと、君なら。」
「素敵な教師になりますよ。」
その一言が。
焔の人生を決めた。
◇
数年後。
不知火焔。
二十四歳。
高校教師。
赴任先は、女子校だった。
校門をくぐる。
「おはようございます!」
元気よく挨拶する女子生徒たち。
廊下には甘いシャンプーの香りが漂う。
笑い声。
制服姿。
眩しいくらいの青春。
「……。」
正直、少しだけ戸惑った。
恋愛とは無縁の人生だった。
女子と話すことすら、ほとんどなかった。
(落ち着け。)
(俺は教師だ。)
深呼吸する。
生徒は守る存在。
導く存在。
一人の人間として向き合う存在。
そう何度も自分に言い聞かせた。
教壇に立つ。
黒板に、自分の名前を書く。
『不知火 焔』
振り返る。
そこには四十人の笑顔があった。
(この子たち全員が。)
(卒業するとき。)
(笑っていてくれたらいい。)
その願いだけだった。
その願いが。
たった一人の教え子によって、
すべて崩れ去ることを、
このときの不知火は、まだ知らない。




