2話 無法
朝。
目が覚めたとき、静かだった。
いや、違う。
“何かが足りない”静けさだった。
テレビをつける。
すぐにニュースが流れる。
『繰り返します。本日0時をもって、“法律”が消失したと見られており——』
「見られて、ってなんだよ」
曖昧な言葉だった。
けれど、それが一番正確なんだろう。
誰も理解できていない。
ただ、確実に何かが変わっている。
画面の端に、見慣れない表示が浮かぶ。
【神様サバイバル】
【1日目:法律(消失)】
【残り日数:29】
消えない。
チャンネルを変えても、同じものが映る。
電源を落としても、視界のどこかに残り続ける。
現実だ。
「……は」
小さく息を吐く。
腹が減っていた。
昨日、まともに食べていない。
死ぬつもりだったから。
その事実を、やけに冷静に思い出す。
「……コンビニ、行くか」
口に出すと、それだけで理由になった。
外に出る。
空は、普通だった。
昨日の黒い空が嘘みたいに。
けれど、人の動きが違う。
歩き方が、雑だ。
信号を無視する人間がいる。
ぶつかっても謝らない。
小さなズレが、あちこちで起きている。
そのどれもが、止められていない。
コンビニに入る。
自動ドアが開く。
いつも通りの音。
いつも通りの光。
――のはずだった。
棚の前で、男が一人、立っている。
カゴは持っていない。
商品を一つ、手に取る。
ポケットに入れる。
そのまま、出口へ向かう。
「お客様、それ――」
店員が声をかける。
男は止まらない。
振り向きもしない。
そのまま外へ出る。
店員は、追わなかった。
追えなかった、のかもしれない。
「……」
それを見ていた別の客が、棚に手を伸ばす。
同じように商品を掴む。
カゴには入れない。
そのまま持っていく。
迷いはない。
“できる”と分かった瞬間、人はそれを選ぶ。
ただ、それだけだった。
空気が変わる。
一人、二人。
同じ動きをする人間が増えていく。
それは連鎖というより、“許可”だった。
誰かがやった。
止められなかった。
なら、自分もやっていい。
言葉にしなくても、それは共有される。
「……やめてください」
店員が、ようやく声を上げる。
震えている。
けれど、その言葉は軽い。
止めるための言葉じゃない。
ただの音だ。
無視される。
一人が笑う。
別の一人が、棚ごと商品を持ち上げる。
ガタン、と音が鳴る。
均衡が崩れる。
一気に増える。
手が伸びる。
商品が消える。
袋も使わない。
そのまま持っていく。
「……通報」
ポケットからスマホを取り出す。
警察。
発信。
呼び出し音。
長い。
やっと繋がる。
『はい、警察です』
「コンビニで、強盗が――」
言いかけて、止まる。
強盗?
それは、何だ。
今のこれは、何だ。
『場所を教えてください』
「……いや」
言葉が詰まる。
違う。
強盗じゃない。
「……商品を、持っていくだけです」
沈黙。
短いはずなのに、長く感じる。
『……現在、同様の通報が多数入っており』
声が変わる。
感情が削ぎ落とされる。
『対応が追いついていません』
『危険を感じた場合は、避難を——』
通話が切れる。
「……そうか」
遅れて、理解する。
“守るものがない”。
法律がない。
だから。
これは、罪じゃない。
「……は」
笑いが漏れる。
乾いた笑いだった。
棚を見る。
人を見る。
店を見る。
全部が、少しずつ壊れていく。
「……っ」
視線を上げる。
店主がいた。
レジの奥。
動いていない。
ただ、見ている。
自分の店が空になっていくのを。
怒っていない。
泣いてもいない。
ただ、“何かを失ったあと”の顔をしている。
「……すみません」
口に出していた。
何に対してかも分からないまま。
店主は、少しだけこちらを見る。
焦点が合っていない。
「……持ってくなら、持ってってください」
小さく、呟く。
「もう……どうでもいいんで」
その言葉は、諦めというより、
“理解の放棄”だった。
守る意味が消えた瞬間、人はそれを手放す。
「……」
何も言えない。
言葉が、役に立たない。
そのとき。
「ねえ」
軽い声がした。
場違いなくらい、軽い。
振り向く。
入口に、女子が立っていた。
他校の制服。
明るい髪。
この状況なのに、普通に立っている。
「あれ、止めるの?」
顎で店内を示す。
「……」
答えない。
答えられない。
「無理じゃない?」
あっさり言う。
悪気はない。
ただの事実。
「だってさ」
少しだけ笑う。
「ルール、ないじゃん」
その一言で、全部が説明される。
「……だからって」
言葉が続かない。
何を根拠に止める?
何を正しいと言う?
もう、それはどこにもない。
「なに?」
一歩、近づく。
距離が近い。
「止める理由、ある?」
詰まる。
あるはずだ。
あってほしい。
でも。
言葉にならない。
「ないならさ」
肩をすくめる。
「無理しなくていいんじゃない?」
その言い方は、優しかった。
逃げてもいいと、言われているみたいに。
「……お前」
「水無月楓」
先に名乗る。
「そっちは?」
少しだけ、間。
「……不知火」
「焔」
「へー」
興味なさそうに頷く。
でも、目は逸らさない。
「ね、不知火」
外を指さす。
外でも、同じことが起きていた。
誰も止めない。
誰も止められない。
「これさ」
楓が、空を見上げる。
「まだ1回目でしょ?」
思い出す。
ウィンドウ。
【1日目:法律(消失済)】
「……ああ」
「じゃあさ」
振り返る。
笑う。
「あと29回、こうなるってこと?」
想像してしまう。
止まらない崩壊。
積み重なる“消失”。
「……」
言葉が出ない。
楓は少し考えてから、
軽く言った。
「なんかさ」
「ルールない世界って、一番盛り上がるよね」
笑う。
その笑いは軽いのに、
どこかで、引っかかる。
危うい。
でも。
「……」
目を逸らせなかった。
「面白くなりそうじゃん」
そう言って、また笑う。
その笑いが、
なぜか少しだけ、
救いに見えた。




