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123話 必要

金剛過去回

施設に来てから。

二年。


堕落の周囲は。

少しずつ変わっていった。


いや。

正確には。

堕落自身が変わっていった。


以前なら。

ちょっとしたことで腹を立てた。


誰かに肩がぶつかれば睨む。

嫌なことを言われれば殴る。

自分の思い通りにならなければ怒鳴る。


胸の奥に溜まった苛立ちを。

拳に変えて吐き出す。


それが。

堕落にとって当たり前だった。


だが。

栞と出会ってから。


少しずつ。

その苛立ちが薄れていった。


「堕落!」


「……なんだよ。」


「また靴脱ぎっぱなし!」


「……。」


「片付ける!」


「……分かったよ。」


「よし!」


そんな。

くだらない毎日。


でも。

そのくだらない毎日が。

堕落にとっては初めてだった。


怒鳴られることも。

叱られることも。

笑われることも。

全部。


「見捨てられない」ということと。

同じだった。


いつしか。

施設の子供たちとも。

少しずつ話すようになった。


「なぁ堕落。」


「ん?」


「これ分かる?」


「……知らねぇ。」


「お前分かんないことばっかだな。」


「うるせぇ。」


「ははは!」


昔なら。

その言葉だけで。

殴っていた。


でも。

今は違う。


「……あとで栞に聞く。」


そう言って。

笑えるようになった。


職員たちも。

その変化に驚いていた。


「……あの子。」


「変わったね。」


「藤崎さんのおかげかな。」


「……私たちも、少し考え直さないとね。」


今まで。

自分たちは。

堕落を恐れていた。


だから。

腫れ物のように扱った。


怒らせない。

刺激しない。

関わりすぎない。


でも。

それでは。

あの少年が変わることなど。

できなかったのかもしれない。



そして。

中学三年生。

十五歳。

進路を決める時期が来た。


「堕落。」


栞が。

進路希望の紙を見ながら言う。


「あんた、どうするの?」


「働く。」


即答だった。


「……働く?」


「ああ。」


堕落には。

迷いがなかった。


自分で稼ぐ。

自分で暮らす。


そして。

もう誰にも迷惑をかけない。


親に迎えに来てもらうことも。

もう考えていなかった。


あの日から。

何年も経った。

迎えに来るという言葉は。


もう。

遠い昔のものになっていた。


「俺は働く。」


堕落は言った。


「自分で稼いで、自分で生きる。」


栞は。

少し困った顔をした。


「でもさぁ……。」


「何だよ。」


「あんた、まだ十五歳よ?」


「だから?」


「だから、そんな簡単に雇ってくれるところなんて――」


「……。」


「ないでしょ。」


「……。」


堕落は。

少しだけ不機嫌そうに顔をしかめた。


「探せばある。」


「はいはい。」


栞は笑った。


「その辺は一緒に考えてあげる。」


「……。」


堕落は。

少しだけ。

嬉しそうだった。


翌日の帰り道。

堕落は。

一人で街を歩いていた。


その時だった。

前方から。

大勢の男たちが歩いてくる。


揃いのジャージ。

大きな身体。


そして。

明らかに普通の学生とは違う雰囲気。


その一人と。

肩がぶつかった。

ドンッ。


堕落の身体が。

僅かに揺れる。


「……チッ。」


舌打ち。

少し前の堕落なら。

ここで終わっていた。


「おい。」


振り返り。

殴っている。


それが。

いつもの堕落だった。


だが。

今回は違った。


「おぉ、ぼうず。」


ぶつかった男が。

振り返った。


「悪い悪い。」


堕落は。

少し驚いた。

自分とぶつかって。

平然としている。


そんな人間は。

初めてだった。


阿含高校ラグビー部主将

神谷聡(かみやさとし)


神谷は。

堕落より少し背が高い。

身体も大きい。


だが。

見た目は。

どこか柔らかい。

おっとりした男だった。


「キャプテン、気をつけなきゃ。」


仲間が笑う。


「あんたダンプカーみたいなもんなんだから。」


「ははは、ひどいなぁ。」


神谷は。

困ったように笑った。


そして。

そのまま。

通り過ぎようとする。


「……。」


堕落は。

その背中を見ていた。


胸の奥が。

妙にざわつく。


違う。

昔とは違う。

腹が立っているわけじゃない。


むしろ。

楽しい。


こいつ。

俺とぶつかって。

何ともねぇのか?


「待てよ。」


神谷が振り返る。


「ん?」


「どうした?」


少し心配そうに。

神谷が尋ねる。


「気を悪くしたか?」


堕落は。

笑った。


「いや。」


拳を握る。


「気分はいい方だ。」


「……?」


次の瞬間。

堕落が。

殴りかかった。


「うおっ!?」


神谷が受け止める。

衝撃。


地面が鳴る。

周囲の部員たちが。

一斉に距離を取る。


「キャプテン!」


「なんだこいつ!?」


堕落は。

笑っていた。

久しぶりだった。

こんな感覚。


イライラではない。

怒りでもない。


ただ。

楽しい。

自分の拳を受け止める。


壊れない。

逃げない。

倒れない。


まるで。

ずっと探していた。


壊れない玩具を。

ようやく見つけたような。

そんな感覚だった。


数分後。

二人とも。

地面に座り込んでいた。


「はぁ……はぁ……。」


堕落は。

肩で息をしながら笑う。


「なんだお前……。」


顔は腫れている。

口元には血。


それでも。

笑っている。


「どんな身体してんだ。」


神谷も。

額の汗を拭う。


「いやぁ……。」


そして。

笑った。


「とんだ猛獣に絡まれたもんだ。」


その様子を。

少し離れた場所から見ていた老人がいた。


阿含(あごん)高校ラグビー部監督。

竹野内(たけのうち)


老人は。

ゆっくり歩いてくる。


「君。」


「……あ?」


「いくつだ?」


堕落は。

老人を睨む。


「なんだ、このジジイ。」


「こら!」


神谷が慌てて止める。


「うちの監督だ!」


「十五。」


堕落は。

短く答えた。

竹野内の目が。

大きく開く。


「ほう。」


そして。

老人は。

堕落を上から下まで見る。


「中学生か。」


ニヤリ。


「素晴らしいな。」


「……は?」


「君。」


老人は。

迷いなく言った。


「うちに来なさい。」


「……。」


「君が必要だ。」


一人で。

勝手に納得する老人。


堕落は。

完全に置いていかれていた。


施設へ戻る。

堕落は。

一枚の紙を眺めていた。


阿含高校。

ラグビー部。

特待生。


「……必要、か。」


その言葉が。

妙に残っていた。


すると。

栞が後ろから覗き込む。


「何それ?」


「今日、もらった。」


「へぇ。」


栞が読む。


「阿含高校……。」


「……。」


「進路、決めたの?」


「まだ。」


「働きたいとか言ってたけど。」


栞は。

紙を見ながら笑う。


「あんたみたいなお子ちゃま雇ってくれるところなんて、そう簡単にはないでしょ。」


「……。」


堕落は。

少し考えた。


そして。

栞を見る。


「なぁ。」


「なに?」


「おれの女にしてやるよ。」


「…………は?」


一瞬。

時が止まった。

次の瞬間。


「はぁ!?」


栞の顔が。

真っ赤になる。


「何様よ、あんた!」


「……。」


「五年早いっての!」


「……五年?」


「そう!」


栞は。

堕落の頭を軽く叩いた。


「今のあんたじゃ、まだまだガキ!」


「……。」


「百年早い!」


「五年じゃねぇのかよ。」


「細かい!」


栞が笑う。

堕落も。

少しだけ笑った。


そして。

自分の部屋へ戻る。


布団に座り。

天井を見る。


「……。」


阿含高校。

特待生。

働く。

栞。


頭の中で。

いろんな言葉が。

ぐるぐる回る。


そして。

最後に残ったのは。

一つだった。

必要。


今日。

初めて会った老人にも。


「君が必要だ」と言われた。


けれど。

堕落にとって。

それ以上に大きかったのは。

別のことだった。


あの日。

何も分からず。

ただ暴れていた自分を。

毎日叱ってくれた。

笑ってくれた。

隣にいてくれた。

自分を化物として扱わなかった。

藤崎栞。


「……。」


堕落は。

小さく呟いた。


「……俺には。」


少しだけ。

胸が苦しくなる。


「栞が必要だ。」


その言葉は。

まだ。

誰にも聞かせるつもりはなかった。

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