122話 怖くないのか
金剛過去回
金剛堕落。
その名前で生き始めて。
一年が経った。
だが。
名前を変えただけで。
人間が変わるわけではなかった。
十二歳の金剛堕落は。
施設に入ってからも。
荒れていた。
むしろ。
以前より酷くなった。
「堕落くん!」
職員の声が響く。
「また喧嘩したの!?」
「……。」
堕落は答えない。
頬に傷。
拳には血。
だが。
その血が。
自分のものなのか。
相手のものなのか。
本人にも分からない。
施設には。
自分と似た境遇の子供たちがいた。
親に見放された。
学校で居場所を失った。
家庭に問題を抱えている。
そんな子供たち。
だからこそ。
堕落は。
最初は少し期待していた。
ここなら。
誰も俺を化物なんて呼ばないかもしれない。
だが。
現実は違った。
堕落が一度怒れば。
誰も止められない。
ちょっとした言い合い。
肩がぶつかった。
順番を抜かされた。
たったそれだけ。
それだけで。
堕落の拳が飛ぶ。
ドンッ!
「ぐあっ!」
相手が吹き飛ぶ。
「堕落!」
職員が駆け寄る。
「やめなさい!」
「……。」
堕落は睨む。
その目に宿る鋭さに。
職員の足が止まる。
そして。
また。
誰も何も言えなくなる。
堕落は。
その瞬間だけ。
勝ったような気がした。
けれど。
一人になると。
胸の奥が。
妙にざわついた。
勝ったのに。
嬉しくない。
むしろ。
腹が立つ。
何に腹を立てているのかも。
分からない。
「……クソ。」
壁を殴る。
ドンッ。
拳が赤くなる。
それでも。
痛みは。
心の中にあるものを消してくれなかった。
学校でも。
同じだった。
授業中。
先生が話しかける。
「金剛くん、ここを」
「分かんねぇ。」
「じゃあ、もう一度」
「分かんねぇって言ってんだろ!」
教室が静まり返る。
誰も。
金剛と目を合わせない。
休み時間。
誰も近づかない。
帰る時間。
誰も誘わない。
金剛は。
一人で帰る。
一人で食べる。
一人で寝る。
施設でも。
学校でも。
結局。
同じだった。
「……。」
夜。
布団の中で。
堕落は天井を見る。
父親の言葉を思い出す。
いい子にして。
立派になったら迎えにくる。
「……。」
一年経っても。
迎えは来ない。
手紙もない。
電話もない。
堕落は。
何度も施設の玄関を見た。
今日こそ。
父さんが来るかもしれない。
母さんが来るかもしれない。
でも。
誰も来ない。
その度に。
胸の奥が。
少しずつ冷たくなっていった。
そして。
十三歳。
堕落は。
さらに荒れていた。
職員たちは。
彼を完全に腫れ物扱いしていた。
「金剛くんには気をつけて。」
「無理に注意しない方がいい。」
「怒らせると危険だから。」
「刺激しないように。」
誰もが。
そう言った。
そんな施設に。
一人の少女が入ってきた。
藤崎栞。
十八歳。
高校を卒業したばかり。
この施設に。
職員として採用された。
初出勤の日。
先輩職員たちは。
口を揃えて言った。
「藤崎さん。」
「はい?」
「金剛くんには気をつけて。」
「……?」
「この施設で一番問題を起こす子だから。」
「暴力も多いし。」
「絶対に一人で対応しない方がいい。」
「怒らせたら――」
栞は。
しばらく黙って聞いていた。
そして。
「あの。」
「はい?」
「それって。」
「はい。」
「普通に悪いことしたら、普通に怒ればいいんじゃないですか?」
職員たちが。
顔を見合わせる。
「……まあ。」
「そうなんだけどね。」
栞は。
少し首を傾げた。
「変なの。」
そして。
その日の午後。
栞は。
堕落と初めて出会った。
廊下の端。
一人で座っている。
大きな身体。
十三歳とは思えないほど。
太い腕。
鋭い目。
周囲には。
誰もいない。
栞は。
その前を通り過ぎる。
そして。
戻ってきた。
「ねぇ。」
堕落が顔を上げる。
「……何だよ。」
「宿題やった?」
「やってねぇ。」
「なんで?」
「めんどい。」
「じゃあやりなさい。」
「……は?」
堕落の眉間に皺が寄る。
栞は。
何も気にせず続けた。
「今日の分。」
「やるまでここにいるから。」
「……。」
堕落は。
目の前の女を見る。
今までの職員なら。
「無理にやらなくていいからね。」
「落ち着いてね。」
「怒らないでね。」
そう言っていた。
でも。
この女は違った。
「……うるせぇ。」
「はいはい。」
「お前なんなんだよ。」
「職員。」
「……。」
堕落は。
立ち上がった。
「俺が怖くねぇのか?」
栞は。
一瞬。
目を丸くした。
そして。
次の瞬間。
声を上げて笑った。
「あははは!」
「……何笑ってんだ。」
「あんたみたいなガキ、怖いわけないでしょ!」
「……。」
堕落は。
固まった。
ガキ。
その言葉が。
妙に胸に残った。
栞は。
何事もなかったように。
堕落の前に座る。
「ほら。」
「宿題したの?」
「……。」
「分かんないところあるなら教えてあげるから。」
「ちゃんとやりなさい!」
「……。」
堕落は。
黙って椅子に座った。
シャーペンを握る。
「……ここ。」
「ん?」
「これ。」
栞が覗き込む。
「ああ、そこね。」
栞は。
当たり前のように。
堕落の隣に座った。
「これはこう考えるの。」
「……。」
「分かった?」
「……ちょっと。」
「じゃあもう一回。」
「……。」
その日。
堕落は。
宿題を終わらせた。
それから。
毎日のように。
栞は堕落を叱った。
「堕落!」
「何だよ。」
「また喧嘩したでしょ!」
「向こうが先にやった。」
「だからって殴っていい理由にはならない!」
「……。」
「ほら、謝りに行くよ。」
「嫌だ。」
「行く。」
「……。」
「行く!」
「……分かったよ。」
また別の日。
「堕落!」
「何だよ。」
「靴脱ぎっぱなし!」
「……。」
「片付けなさい!」
「うるせぇな。」
「はいはい。うるさくても片付ける!」
また別の日。
「堕落!」
「……。」
「ご飯残すな!」
「嫌いなんだよ。」
「一口食べなさい!」
「……。」
「一口!」
「……分かったよ。」
そんな毎日。
怒られる。
怒る。
言い返す。
それでも。
栞は。
離れていかなかった。
どれだけ堕落が荒れても。
どれだけ睨みつけても。
次の日には。
また普通に話しかけてくる。
「堕落、おはよう。」
「……おう。」
「今日ちゃんと起きたじゃん。」
「うるせぇ。」
「褒めてるのに。」
「……。」
少しずつ。
ほんの少しずつ。
何かが変わっていった。
喧嘩の回数が。
減った。
宿題を。
やるようになった。
食事の時間。
席を立たなくなった。
そして。
ある日。
堕落は。
ぽつりと聞いた。
「……栞。」
「ん?」
「なんで。」
「何が?」
「お前。」
少し。
言葉を探す。
「……俺に構うんだよ。」
栞は。
少し考えた。
そして。
当たり前のように答えた。
「仕事だから。」
「……。」
「それに。」
栞は笑った。
「放っといたら、あんた一人でどんどん悪い方に行きそうじゃん。」
「……。」
堕落は。
何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
口元が緩んだ。
栞は気づかなかった。
「ほら!」
「明日の宿題!」
「忘れないでよ!」
「……分かったよ。」
「よし!」
栞が去っていく。
堕落は。
その背中を見つめた。
今まで。
自分を見る人間は。
怯えていた。
避けていた。
怒っていた。
見捨てた。
でも。
この女だけは。
違った。
自分を。
化物として見ない。
怖がらない。
腫れ物として扱わない。
ただ。
一人の。
十三歳の少年として。
叱って。
笑って。
話しかけてくる。
「……変な女。」
堕落は。
小さく呟いた。
そして。
初めて。
この施設で。
帰る場所があるような気がした。




