116話 怖くない
ビビり過去回
5年前。
雲雀強、16歳。
当時の雲雀は、今とはまるで違う少年だった。
地元の中学校では成績トップ。
教師からの信頼も厚く、生徒会長まで務めていた。
困っている生徒がいれば声をかける。
頼まれれば嫌な顔をせず引き受ける。
真面目で、優しくて、努力家。
少なくとも。
当時の雲雀を知る人間なら、誰も彼を「ビビり」なんて呼ばなかった。
そんな雲雀に、高校進学を前にしたある日。
進路相談で、一つの話が持ちかけられた。
「他県の有名校から、推薦が来ている。」
その高校は、全国的にも名の知れた進学校だった。
そして。
裕福な家庭の子供が多く通う学校でもあった。
「……僕が?」
雲雀は驚いた。
成績優秀。
生徒会長。
これまで積み重ねてきた努力が、初めて一つの大きな扉を開いた瞬間だった。
もちろん。
そこへ通うには、それなりのお金が必要だった。
雲雀の家は、ごく普通の家庭。
決して裕福ではない。
両親も、そのことは分かっていた。
だからこそ。
「行ってきなさい。」
父親が言った。
「お前ならできる。」
母親も笑った。
「大変だと思うけど、頑張ってきなさい。」
多少無理をすることになる。
家計を切り詰める。
それでも。
両親は雲雀の未来のために送り出してくれた。
雲雀は、その期待が嬉しかった。
「……うん。」
「頑張ってくる。」
こうして。
雲雀は一人、他県へ引っ越した。
初めての一人暮らし。
初めての土地。
初めての高校生活。
期待で胸がいっぱいだった。
きっと。
新しい友達ができる。
新しい毎日が始まる。
自分の努力を認めてくれる人たちがいる。
そう思っていた。
しかし。
現実は、そんなに甘くなかった。
入学してみれば。
そこにいたのは、小学校から中学校。
そして高校まで。
エスカレーター式に上がってきた生徒たち。
親が会社経営者。
政治家。
医者。
資産家。
そんな家庭の子供たちが当たり前のようにいる世界だった。
雲雀だけが違った。
同じ制服。
同じ教室。
同じ授業。
それなのに。
自分だけが。
別の世界から紛れ込んだ異物のように感じた。
最初の頃は。
必死に馴染もうとした。
だが。
気がつけば。
一人で勉強する時間が増えていた。
学校が終わればアパートへ帰る。
勉強。
そしてアルバイト。
少しでも両親の負担を減らしたかった。
友達と遊ぶ時間なんて、ほとんどなかった。
そんなある日。
「なぁ。」
教室で一人、参考書を開いていた雲雀に声がかかった。
顔を上げる。
そこにいたのは、数人の男子生徒と女子生徒。
その中心にいたのが。
山田だった。
「一人?」
「あ……うん。」
「一緒に飯食わね?」
「……え?」
雲雀は驚いた。
高校へ入ってから。
初めてまともに話しかけてくれた同級生だった。
胸の奥が。
ほんの少しだけ温かくなる。
「いいの?」
「もちろん。」
山田は笑った。
雲雀も笑った。
この時の雲雀は。
本当に嬉しかった。
ようやく。
友達ができたと思った。
その日の授業が終わると、雲雀は山田たちと食事へ行った。
他愛もない話。
くだらない冗談。
笑い声。
雲雀は初めて。
高校生活が楽しいと思った。
そして。
人生で初めて酒を飲んだ。
もちろん。
少し背伸びをしただけだった。
頬が熱くなる。
頭がふわふわする。
それでも。
楽しかった。
「二次会どうする?」
誰かが言った。
「どっか行く?」
「うち近いから。」
酔った勢いもあった。
雲雀は思わず口にした。
「うちで飲み直す?」
「おぉ〜!」
「いいじゃん!」
「行こうぜ!」
山田たちは笑った。
雲雀も笑った。
自分の家に人を呼ぶ。
そんなことすら。
少し嬉しかった。
やがて。
雲雀のアパートへ到着する。
「……。」
雲雀は少しだけ緊張していた。
広くはない。
けれど。
掃除はきちんとしている。
みんなで座れば、なんとかなる。
そう思っていた。
しかし。
アパートを見上げた瞬間。
女子の一人が声を漏らした。
「え?」
「ここ?」
そして。
笑った。
「汚っ!」
「アパートじゃん!」
周囲から笑い声が起こる。
「……。」
雲雀は苦笑いを浮かべた。
「中は綺麗にしてるから。」
そう言って。
みんなを案内する。
階段を上る。
三階。
「え、エレベーターないの?」
誰かが呟いた。
「エレベーターない家、初めて来た。」
また笑い声。
雲雀は黙っていた。
やがて。
部屋へ到着する。
鍵を開ける。
「どうぞ。」
扉を開けた。
1LDK。
十畳ほどの部屋。
綺麗に掃除された空間。
雲雀にとっては。
大切な家だった。
「さ、みんな適当に座って。」
雲雀が笑う。
しかし。
誰も座らない。
「……。」
山田たちは。
部屋を見回していた。
「いや。」
誰かが笑う。
「適当に座ってって。」
「どこに?」
「狭すぎだろ。」
「うちの犬小屋の方が広いんだけど。」
「こんなところで生活してんの?」
「どうやって?」
笑い声。
一つ。
また一つ。
言葉が。
雲雀の胸へ突き刺さる。
「……。」
それでも。
雲雀は笑っていた。
愛想笑い。
いつものように。
空気を壊さないために。
「はは……。」
「まぁ、狭いけど……。」
その時だった。
山田が。
部屋を見渡しながら笑った。
「こんな家に一人暮らしさせるとか。」
「お前の親、頭おかしいだろ。」
――。
雲雀の笑顔が。
消えた。
「……。」
ゆっくり。
山田を見る。
「……なんて?」
「いや。」
山田は笑っている。
「だから、お前の親――」
その瞬間。
雲雀の手が。
山田の胸倉を掴んだ。
「……!」
空気が凍る。
「うちの両親は。」
雲雀の声は震えていた。
でも。
怒りで震えていた。
「立派な親だ!」
山田の顔を睨む。
「お前みたいなボンボンに!」
「何が分かるんだ!!」
静寂。
誰も笑わない。
誰も動かない。
雲雀自身も。
自分が何をしたのか分からなかった。
ただ。
両親を馬鹿にされた。
それだけは。
許せなかった。
山田はしばらく雲雀を見つめていた。
そして。
ゆっくり。
雲雀の手を外す。
「……帰ろうぜ。」
山田は仲間を連れて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
バタン。
静寂。
雲雀は。
一人、部屋に残された。
「……。」
拳を握る。
自分は間違っていない。
そう思った。
だが。
翌日。
学校へ行くと。
世界が変わっていた。
「おい、雲雀。」
「ちょっと来いよ。」
柔道部。
空手部。
剣道部。
それぞれの部員たちが。
雲雀を呼び出す。
「練習相手になってくれよ。」
最初は。
何が起きているのか分からなかった。
そして。
殴られた。
投げられた。
蹴られた。
何度も。
何度も。
倒される。
「おいおい、弱すぎだろ!」
笑い声。
その向こうで。
山田が笑っている。
それだけではなかった。
「これ買ってこい。」
「俺の荷物持っとけ。」
「先生にこれ届けとけ。」
「明日までに宿題やっとけよ。」
次から次へ。
面倒事を押し付けられる。
「俺たち友達だろ?」
山田は。
いつもそう言った。
その言葉を聞くたびに。
雲雀は笑った。
「……うん。」
逆らえなかった。
悔しかった。
殴り返したかった。
何度も思った。
それでも。
できなかった。
山田は。
雲雀の両親の勤め先まで調べていた。
「俺の親なら。」
「お前の親父の会社くらい、どうにでもできるぞ?」
そう言われた。
雲雀は。
何も言えなかった。
自分が逆らえば。
両親まで巻き込まれる。
だから。
耐えた。
耐えて。
耐えて。
耐え続けた。
三年間。
地獄だった。
そして。
卒業。
雲雀は。
ようやく山田から離れた。
それ以来。
会うことはなかった。
そして。
現在。
「また、おもちゃにしてやるか。」
山田が笑っている。
目の前にいる。
あの頃と同じ笑顔。
あの頃と同じ声。
「……。」
雲雀の身体は。
震えていた。
怖い。
心臓が速い。
手が冷たい。
頭の中には。
過去の光景が次々と蘇ってくる。
殴られた。
蹴られた。
笑われた。
命令された。
逆らえば。
両親にまで手を出される。
「……。」
山田が近づいてくる。
「なんだお前。」
「殺すぞ。」
その言葉を聞いて。
雲雀は。
ふと思った。
殺す?
誰が、誰を?
雲雀は。
改めて山田を見る。
必死に威嚇している。
声を荒らげている。
自分を怖がらせようとしている。
けれど。
その姿を見ているうちに。
なぜか。
可笑しくなってきた。
「……。」
雲雀の口元が。
僅かに歪む。
「ぷっ。」
笑いが漏れた。
「……は?」
山田が眉をひそめる。
雲雀は。
金剛を思い出していた。
あの男。
初めて会った時。
ほんの少し目を合わせただけで。
全身の血が引くような恐怖を感じた。
あれは。
恐怖そのものだった。
あの殺気。
あの目。
あの圧。
金剛堕落という男を前にした時。
本当に。
殺されると思った。
それに比べれば。
目の前の山田など。
「……。」
雲雀は。
ゆっくり顔を上げた。
あの頃の自分なら。
逃げていた。
謝っていた。
笑っていた。
耐えていた。
でも。
今は違う。
雲雀は。
初めて。
山田の目を真正面から見た。
「……お前。」
山田が怯む。
雲雀は。
もう一度。
はっきりと言った。
「お前なんか。」
「怖くない。」




