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10話 不知火の夢

教室は、いつも通りだった。

昼の光が窓から差し込んでいる。


黒板にチョークが当たる音が、静かに響く。


「倫理とは何か」


「人がどう生きるか、その基準だ」


振り返る。

生徒たちの中で、一人だけまっすぐに手を挙げる。


桝田千夏(ますだちなつ)


「先生」


少し前のめりの姿勢。


「この場合って、正しいことって何ですか?」


迷いのない目だった。

不知火は少し考える。


「状況によるな」


教科書通りの答え。


「正しさは一つじゃない」


千夏はわずかに眉を寄せる。


「でも、それって逃げじゃないですか?」


教室がざわつく。

不知火は、言葉を整える。


「逃げ、になることもある」


一拍。


「でもな」


視線を外さずに言う。


「正しさを押し付けるのも、また違う」


千夏は黙る。

ほんの少しだけ。


「……私は」


言いかけて、止める。


「やっぱり、逃げたくないです」


その言葉を、

不知火は“理想的な答え”として受け取った。


休み時間。


「先生、さっきの続きなんですけど」


ノートを広げる。

距離が近い。

けれど、それは“よくあること”だと判断した。


(考えるのが好きな生徒だな)


それで十分だと思った。


ある日。

廊下の奥。

声。


「調子乗ってんじゃねえよ」


「先生に媚びてさ」


「違う、私は――」


乾いた音。

足が止まる。

一瞬だけ。


(……介入するべきか)


考える。

教師として。

けれど。


(おれが行ってどうなる)


(早計に動くと、逆効果になる)


(様子を見るべきだ)


理由を並べる。

整える。

納得する。


そして。

歩いた。


翌日。

千夏はいつも通りだった。


「おはようございます」


明るく。

何人かは返す。

何人かは返さない。


(クラスの空気が悪いな)


そう処理した。

終わらせた。


授業後。


「シャーペンがなくて」


笑う。


(よくあることだ)


一日目。


消しゴム。


「またなくしちゃって」


(不注意か)


二日目。


ノート。


(忘れたのか)


三日目。


キーホルダー。


(落とした?)


四日目。


靴。


(……)


一瞬、止まる。

けれど。


(偶然だ)


そう処理した。


五日目。


カバン。


六日目。


体操着。


毎日。

必ず一つ。

千夏の持ち物が消えていった。


規則的に。

削るみたいに。


けれど、千夏は変わらなかった。

手を挙げる。


「先生」


あの目で。

挨拶をする。


「おはようございます」


返事が少なくても、続ける。


(強いな)


そう思った。

それで、終わらせた。


ある日。

ノートを差し出す。


「この問題、分からなくて」


指先が震えている。


(緊張だな)


そう決めた。

そのとき。

ノートの端に、小さく書かれていた。


助けて


見えた。

確かに。

一瞬。


でも。


(……見間違いか)


そう処理した。

ページをめくった。

なかったことにした。


ある朝。


「おはようございます」


誰も返さない。

一人も。

空気が止まる。


千夏は周りを見る。

何かを探すように。


少しだけ。

そして。

前を向く。


座る。

それ以上、何もしない。


(……あとで話そう)


そう思った。

その場では、何もしなかった。


その日の授業。

千夏は手を挙げなかった。

初めてだった。


(体調か)


そう処理した。

放課後。

教室は空だった。


千夏の席。

何もない。


その瞬間。

全部が繋がる。


物。

声。

視線。

関係。


毎日、消えていた。

一つずつ。


最後に残っていたもの。

“ 友達”。

それも、消えた。



(ああ)


理解する。


(順番だったのか)


削られていく順番。

最後に残るもの。

最後に壊れるもの。


「先生!屋上から――」


走る。

階段。

屋上。


風。

下。

赤。


「……ああ」


声が漏れる。


「そういうことか」


理解は、できた。


「……すまない」


言葉が出る。


「気づけた」


一拍。


「止められた」


さらに一拍。


「でも」


息が詰まる。


「“正しい判断”を優先した」


膝が崩れる。

そのとき。

ようやく、分かる。


千夏は。

最後まで、折れなかったんじゃない。

折れる順番が、来ただけだ。


物が消えていったように。

関係が消えていったように。


最後に残った“心”も、

静かに、消えた。


「……倫理だ」


震える声。


「人がどう生きるかの基準」


笑うこともできない。


「俺は」


空を見上げる。


「正しく、見殺しにした」


風だけが、吹いていた。

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― 新着の感想 ―
不知火の過去 正しさとはなんなのか。 教師とはなんなのか。 助けられたはずの命を見殺しにして 後悔するくらいならどうして? 考えさせられる内容でした。 千夏も逃げるタイミングを失ったのか、その…
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