血脈の澱
夏を目前にした、アルカディア帝国の短い新緑の季節。
休暇で一時帰宅したセオドリック・フォン・ランカスターは、公爵邸の広大な書斎で、当代宰相である父と対峙していた。
窓の外には、手入れの行き届いた薔薇園が広がっている。セオドリックはその完璧な風景を背に、ティーカップを置く所作さえも優雅に、一人の少年の名を口にした。
「父上。……『アシュクロフト』という家名を、ご存じですか」
その瞬間、書類にペンを走らせていた父の手が、目に見えて止まった。
帝国の中枢を担う父の顔に浮かんだのは、嫌悪と、そして遠い過去を忌むような苦々しさだった。
「……なぜその名を出した。セオドリック」
「学園の成績上位に、その名の生徒がいたのです。面識はありませんが、理論の構築においては僕を凌駕するほどで。優秀な人材なら、今のうちにランカスターの傘下に置いておくのも悪くないかと思いまして」
セオドリックは、あくまで「将来の宰相としての青田買い」であるかのように、爽やかな微笑みを浮かべて嘘をついた。だが、父の返答は冷ややかだった。
「やめておけ。……十年前の汚職事件を覚えているか? 帝国の魔導具供給を一手に担っていたアシュクロフト侯爵家が、敵国への技術流出と不正蓄財の疑いで断罪されたあの事件を」
「……話には聞いています。ですが、あれは一族の罪。今の彼……レイモンド個人には関係のないことでは?」
「甘いな、セオドリック」
父は椅子に深く背を預け、冷徹に息子を射抜。
「アシュクロフトは、あまりに有能すぎたのだ。……その才は両刃の剣。一度『裏切り者』の烙印を押された血脈を、再び光の下へ出すなどというリスク、ランカスターが背負う必要はない。彼は一生、日の当たらぬ場所で、その罪を贖いながら消えていくのが相応しいのだ」
「…………」
セオドリックは反論しなかった。
否、反論する必要を感じなかったのだ。
父の言葉を聞きながら、彼の胸の奥で燃え上がったのは、怒りでも同情でもない。
(……一生、日の当たらぬ場所で、か。ならば、僕が彼を引き摺り出したら、彼は一体どんな顔をするのだろうね?)
それは、支配者としての傲慢な征服欲に近いものだった。
世界が「死ね」と言っている。父が「関わるな」と言っている。
それだけの理由で、あの完璧な数式を書く「レイモンド・アシュクロフト」という存在を、このまま暗闇の中に放置しておくこと。それが、セオドリックには耐え難い「世界の不備」に思えた。
学園に戻ったセオドリックは、以前にも増して「レイモンド」を探すようになった。
だが、その探し方は変わった。
食堂で賑やかに食事をする際も、彼は端の席に置かれた、食べかけの乾燥したパンのトレイを見逃さない。
放課後、取り巻きに囲まれて廊下を歩く際も、誰も見向きもしない旧校舎の窓から立ち上る、実験の微かな煙に目を細める。
「セオドリック様? どうかされましたか、そんな場所を眺めて」
「いいや、何でもないよ。……ただ、『拾い物』をしたくなってね」
セオドリックは、彼を慕う友人たちに囲まれながら、一瞬だけ「太陽」の仮面を剥き出しにした。
彼の目に映っているのは、友人たちの笑顔ではない。
誰もいない図書室の片隅に残された、まだインクの乾いていない、冷徹で美しい数式の書き置き。
(レイモンド。……世界が君を認めないのなら、僕が君を定義しよう。君を縛るその重い『過去』ごと、僕の光で焼き尽くしてあげるから)
父の忠告は、かえってセオドリックの心に火をつけた。
もはやそれは、単なる好奇心ではない。
「不当に扱われている天才」を救うという、独裁者特有の、純白で凶悪なまでの義務感へと、昇華されていたのである。




