9.私は本気よ?
(カナメ様、まだまだ怒りが収まらないご様子だったなぁ…)
アカツキに掴みかかろうとするカナメは、周囲の人たちと一緒になんとか落ち着かせることができた。その後、君も今日は休むといい、何かあればまた話を聞かせてもらう、と言われ本日のコハルの業務は終了した。
コハルはアカツキが眠る別邸を後にし、キーストン家の敷地内にある使用人の宿舎に向かっていた。すると遠くからコハルの名前を呼ぶ声が聞こえる。
「コハル!」
コハルが声のする方を振り返ると、肩の上で亜麻色の髪を揺らし、コハルと同じ深緑色のワンピースに白いエプロンを身につけた女性が走ってくるのが見えた。
「レイ!」
コハルの方に走って来たのは、使用人仲間のレイだった。
「無事で良かった——…!」
そう叫ぶとレイはコハルを勢いよく抱きしめた。
「呪いで操られたアカツキ様が使用人を攫って出て行ったって…!アカツキ様の別邸にいる使用人っていったらコハルしかいないじゃない?もう心配で心配で…」
いつも冷静なレイが、亜麻色の髪を乱れさせ、肩で息をしている。
「本当に、無事で良かった…」
レイは声を絞り出し、さらに力を込めてコハルを抱きしめた。コハルは胸がじんと温かくなるのを感じた。
「…心配してくれてありがとう。でもね、ほら、私は何ともないし、攫われたわけではないから」
「本当?怪我とかしてない?」
「どんな話を聞いたのかわからないけど、本当に何もないの」
レイはコハルの肩に手を置いて全身を確認した。
「…ねぇ、今日はもう部屋に戻っていいって言われてるの。レイの仕事が終わるのを待ってるから、ご飯を一緒に食べない?」
「もちろんよ!じゃあ少し待っててくれない?攫われた友達が心配だからって言えば早く上がらせてくれるかも。まかないのご飯も早くもらえないか交渉してくるわ」
レイはもう一度コハルの全身を素早く確認し、部屋で安静にしていることをコハルに言い聞かせると、キーストン家のお屋敷の方へ走って戻って行った。
・・・
「じゃあ呪いで操られたアカツキ様に攫われたんじゃなくて、朝食の道案内のために攫われたの?」
「いや、攫われてはないんだけど…」
「攫われたも同然じゃない。同意なく連れ去ったんだもの」
「そう言われるとそうだけど…」
コハルの部屋で、コハルはレイと一緒に少し早い夕食を食べていた。
使用人宿舎の部屋には、机、ベッド、そして衣装棚がそれぞれ備え付けられている。コハルの机の上には白い花が生けられた小さな花瓶と木の実を乗せた小皿、それに読みかけの本が置かれていた。
コハルとレイはいつものようにベッドに腰掛け、白い布を広げた一人掛けの椅子を脇机として料理を並べている。ベッドを椅子に、布を広げた椅子を脇机として使うのは、コハルとレイが部屋で過ごす時の定番のスタイルだ。
カナメからは口止めをされていなかったが——怒りで口止めするのを忘れていただけかもしれないが——、レイは人の話を不用意に話す性格ではないので、コハルは今朝の出来事を簡単に説明した。
「コハルは優しすぎるわ。勝手に連れ出されたのに文句も言わず朝食に付き合うなんて。しかもサンドイッチのお金もコハルが支払ったんでしょう?アカツキ様がもう一度目覚めたら返してもらわないと」
「あ、支払ったお金はカナメ様が後で返してくれるって」
「当然ね。コハルが支払う必要はないもの」
今日のまかないご飯は肉と野菜を煮込んだスープとパンだった。スープはいつもより具が沢山入っている。パンの量も多い。きっとレイが大盛りでとお願いしてくれたんだろう。お願いする立場ながらもレイが料理番を催促する姿が目に浮かんでコハルはクスリと笑った。
「それにしても眠っているアカツキ様に意識があったとはね」
「うん、本当にびっくりしちゃった。変なことは言ってないと思うけど、独り言を聞かれてると思うと恥ずかしくって…」
レイは呆れてため息をついた。
「コハルもコハルよ。まさかアカツキ様が寝ているお部屋まで掃除していただなんて…。黒魔術だの呪いだの言われている張本人の眠る部屋の中へよく入れたわね」
「それは…その…流石に私も初日からお部屋の中へ遠慮なく入っていけたわけじゃなくて…」
コハルも最初は『黒魔術』『呪い』といった類の言葉に恐怖を感じ、アカツキの眠る部屋に近づけなかったほどだ。
怖くて気が進まなかったが、与えられた業務を放棄したとみなされキーストン家で働く機会を失いたくはなかった。
キーストン家で働くメリットは多い。賃金は相場より高く、希望者は住み込みで働くことができる。休暇も取れるし、まかないご飯も三食しっかり提供される。キーストン家で働いている、といえば身元がしっかりしているとみなされ、再就職や結婚でも有利だ。
別邸の担当になってからしばらく経って、せめて窓を開けて換気だけでもしよう、と意を決してアカツキの眠る部屋へと向かった。
扉を開け、分厚いカーテンで閉め切られた暗い部屋に一人そっと入ったコハル。鼻から吸い込む空気は埃っぽい。
しばらく扉の入り口にたたずみ、目が慣れてきたところで一歩一歩静かに窓辺へ向かう。カーテンをおそるおそる開け、そこでチラリとベッドの方を盗み見た。
カーテンの隙間から差し込む光に埃が舞うのが見える。そしてその光の先に、久しぶりの陽光に照らされても尚静かに眠りについているアカツキの姿があった。
『——綺麗…』
コハルは自分でも場違いな感想を抱いたと思った。だけど、『黒魔術』や『呪い』と言った不気味な雰囲気をアカツキが眠る姿からは感じなかったのだ。
コハルは引き寄せられるように眠っているアカツキの枕元にそっと近づいた。そして——…
『アカツキ様のお住まいの清掃を担当いたします、コハルと申します。よろしくお願いします』
と、挨拶をした。
それからというもの、少しずつ恐怖心が薄れ、アカツキの眠る部屋にも躊躇なく入って掃除ができるようになっていった。…鼻歌を歌ったり、独り言を言ったり、眠っているアカツキに話しかけたりするほどその場に慣れてしまったことはとても後悔しているが。
「呪われている感じがしなかったのよ。本当に、ただ、寝ているような…」
「甘いわよ、このお人好し」
苦笑いするコハルをひと睨みし、レイは人差し指でコハルのおでこを軽く突く。
「…本当に、無事で良かったわ」
コハルは突かれたおでこを押さえ、優しく微笑んだ。コハルとレイは同じ時期にキーストン家の使用人として働き始めた。初めて会った頃のレイは冷静で、態度も淡々としていた。しかし、言葉に愛想がなくてもその行動は優しさに基づいていることを、何度も接するうちにコハルは気づくことができた。
コハルは手に持ったスープ皿から、まだ温かいスープをそっと口に運んだ。
「…なんだか噂って当てにならないなぁって、アカツキ様にお会いしても思ったわ。アカツキ様は寡黙で無愛想だと聞いていたけれど、そうじゃなかったし」
「どういうこと?」
「カナメ様に対しては一緒に育ったからか素っ気ない態度だったけど、使用人の私に対しては丁寧で優しかったのよ」
「丁寧で、優しい…?」
レイは眉間に皺を寄せる。
「実はね、恥ずかしい話なんだけど…アカツキ様に抱えられて空を移動したとき、地面に降りたら私、震えが止まらなくなっちゃって。だけどアカツキ様は急かさず私が落ち着くまで待っていてくださって…使用人にもちゃんと気遣える人なんだなと思ったの」
「問答無用で連れ去った人に気遣いがあるかしら?」
「それを言われると…」
コハルは苦笑いをして続ける。
「背中をさすったり、震える手を握ってくれたりしたから…無愛想っていう感じではなかったのよ?」
「背中をさする…?手を握る…?」
そのとき、不意にコハルの背中を冷たい風が通り抜けた。夕方になって気温が下がったのか、部屋の中が少し寒い。コハルは急いでスープを一口飲んで体を温める。
「…ちょっと、ベタベタ触りすぎじゃないアカツキ様」
「そうね、私も他人に対して距離感が近い方なんだぁと思ったの。ふふ、だから私、最初はアカツキ様の記憶が混乱していて、私を恋人の誰かと間違えてるのかと早とちりしてね」
もうコハルったら、と自分の失敗談を一緒に笑ってくれると思ったら、レイは眉間にしわを寄せ険しい表情を浮かべている。
「…レイ?」
コハルの呼びかけに、レイはゆっくりと表情をゆるめコハルを見つめた。
「…恋人と勘違いするほど、距離感が近いって、どういうこと?」
「あ、えーっと…」
レイがにっこり微笑んだ。
「ねぇコハル?私、アカツキ様が目覚めたところから、もう一度、ちゃんと、話を聞きたいわ。」
コハルはレイに、カナメへ報告した内容と同じことしか話していない。
——コハルの口元についていたクリームを指で拭われたり、髪を指に絡められ、さらに髪へ口付けをされたり…といった話は省略している。恥ずかしくてできるわけがない。
しかし、レイの細められたその目に、微笑みの温もりはなく——…
「話して、くれるわよね?」
「あの、その…」
結局、コハルはアカツキが目覚めたところからすべて説明することになってしまった。
「あいつ、私のコハルになんてことを…!」
話を聞き終えたレイは拳を固く握りしめ、全身を震わせている。
「いや、でも、下心は感じなかったのよ?」
「慣れてるってこと?余計に質が悪いじゃない!!!」
そのとき、部屋の温度が一気に下がった。
「っくしゅっ!」
「大丈夫?」
レイはベットに置いてあった羽織りものを手に取り、コハルの背中に掛けてやる。
「ありがとう。暖かくなってきたけど使用人の部屋は時々冷えるわね」
「そうね、日当たりが悪いのかしら?」
レイは上の空で返事をしながら、手に持つ自身のスープをスプーンでくるくる回し、口の中で独りごちる。
「寡黙で無愛想だなんてどの口が言うのよ。ただの女ったらしじゃない」
それからキッとコハルの方へ向くと、きっぱり言い放った。
「コハル、このことはカナメ様に報告しなきゃだめよ。そして男性の使用人とすぐにでも仕事を代わってもらわないと」
「カナメ様に?!は、恥ずかしくて言えないよ…!それに代わってくれる人がいるかどうか…」
アカツキが眠る別邸の清掃業務は男性にも女性にも不人気だ。だから新人のコハルに押し付けられたという理由がある。
「アカツキ様が呪いをかけられる以前は別邸に使用人を入れてなかったって話よ。それならアカツキ様にはさっさと起きてもらって、コハルのために別邸に引き篭ってていただきたいわ」
それに、とレイは続ける。
「いざとなったら私も別邸担当にしてもらうわ。アカツキ様がコハルにちょっかいかけようもんなら、その顔に雑巾を投げつけてやるんだから」
レイの冗談とも本気ともつかない言動にコハルは思わず吹き出してしまった。
食べ慣れたはずの肉と野菜のスープが今日は一段と美味しく、大好きな友人との会話は楽しい。コハルは今朝の緊張と疲れが溶けていくのを感じた。




