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徳川家康  作者: 本間敏義
3/6

第三話「動かぬ男」

風が通り抜けた。




止まっていた空気が、わずかに動く。




「……動くか」




誰かが言った。




その言葉は確認ではない。




決断でもない。




ただ、口に出されたものだった。




その先にいる男は、動かない。




徳川家康。




かつて、人質として何もできなかった少年。




その時間は終わったはずだった。




だが――




その記憶は消えていない。




長い時間、何もできなかった。




その重みが、今も残っている。




(動く)




その言葉は、軽くない。




一歩踏み出せば、すべてが変わる。




だからこそ、動けない。




いや――動かない。




周囲は焦れていた。




「まだか」




小さな声が漏れる。




焦りではない。




ただ、待てないだけだ。




だが、家康は動かない。




見ている。




人を見ている。




地を見ている。




空気を見ている。




何が動き、何が止まっているのか。




そのすべてを確かめている。




軽く動けば、崩れる。




それを知っていた。




「……今だ」




その一言が落ちる。




短い。




だが、重い。




空気が変わる。




軍が動く。




速くはない。




勢いもない。




だが、確実に前へ出る。




ぶつかる。




だが、押し込まない。




崩さない。




削る。




少しずつ。




逃げ道を消していく。




「……遅いな」




誰かが言う。




だが、戻らない。




一度進んだものが、崩れない。




それが、この戦いの本質だった。




やがて、終わる。




大きな音もない。




派手さもない。




だが、確実に終わっている。




「……終わったのか」




誰かが呟く。




実感はない。




だが、終わっている。




風が吹く。




今度は止まらない。




徳川家康は、動かない。




戦の後も。




ただ、見ている。




崩れていないか。




残っていないか。




すべてを確認している。




「……これでいい」




その言葉は、小さかった。




だが、揺るがない。




速くなくていい。




派手でなくていい。




崩れなければいい。




その思想が、形になった瞬間だった。

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