瓜二つ
「う……ああああ……」
ぷん、と香ってきた悪臭と掠れたうなり声に佐助が首を動かすと、えなる屋の裏から一人の女が出てきた。
使い古された雑巾のように汚い着物を身にまとい、結った髪型からほつれた毛がいくつもこぼれ落ちているその女は、遊女というよりも物乞いか浮浪者のように見えた。
えなる屋のさらに先を行った場所。遊郭の奥の奥。
その女は、いわば吉原の奈落の底から這い出てきた者だった。
女の目を見て、佐助はすぐにこの女が正気を失っていることに気づいた。
病的にギョロギョロと蠢いていた女の目玉が、佐助を見た途端にピタリと止まる。
「あ……ああ……! ああああああ!!」
突如響いた奇声に、耳の奥がキーンと鳴る。
「返せ! 返せ!! 返せーーーっ!!」
女は佐助の胸ぐらを掴むと、伸び放題に伸びた爪で彼の喉を引っ掻いた。
呆然としていた佐助は、痛みにようやく我に返る。
「お、落ち着いてください。落ち着いて——」
「うるさい黙れ! いいから返せって言ってんだよ!」
そんなことを言われても、何が何やらである。
誰と間違えているのか知らないが、狂人に何を言っても無駄である。
こういう者と出会った時には、話し合おうとせずに早々にその場を離れるに限る。
佐助が踵を返して、一旦出直そうと思った時だった。
「何もかもお前のせいだ! お前が"あんな事件"を起こしたせいで、私は家も家族も何もかもをなくした! 全部お前のせいだ!」
その言葉に、女がただの狂人ではないとわかる佐助。
女の正体に察しがついた佐助は、去ろうとしていた足を止めてしまう。
「返せ! お前が殺した家族を! お前が燃やした家を! お前が私から奪った何もかもを! 私の人生を返せ! 返せよーっ!!」
背中に拳が下ろされる。何度も何度も繰り出される攻撃は、しかし今一つ力がこもっていない。
彼女の手足は小枝のようだった。今こうして立てていることすら、奇跡のように思える。
彼女は最後の力を振り絞って、彼女なりに精一杯の"復讐"をなしていた。
仇を——正確には"仇に瓜二つの孫"に全ての憎しみと怒りをぶつけていた。
「お母さんが死んだのも、遊郭に売り飛ばされたのも、梅毒で死ぬのも、全部ぜーんぶお前のせいだ! 死ねよ! お前も死ねよ!!」
『お前も死ね!』
子どもの頃、何度も浴びせられた声が蘇ってきて、佐助の体温が一気に引く。
違う。俺は、俺は関係ない。祖父とは会ったことすらないんだ。祖父の罪と俺は関係ない。関係ないはず、なんだ。
でも……それでも。
世間の総意は違うようだ。ほとんどの人間がそう言うのだったら、きっとそっちが正しい。間違っているのは俺の方なんだろう。
もういい。それでいい。それが正しいと認めるから——。
女はまだ叫びながら、拳を佐助の背中に突き立てている。
痛くないと言えば嘘になるが、耐えられないほどではない。
だったら、甘んじて受け入れようと思った。"こういうの"は、しばらくすれば落ち着いて満足してくれると、経験則から知っていた。
耐えられる痛みなら、耐えた方が楽だ。
受け入れた方が楽になるなら受け入れてしまえばいい。そうすれば、向けられる怒りにも憎悪にも蔑みにも、無感動でやり過ごすことができる。
それに——受け入れるべきなんじゃないかとすら思えてきた。
この人の行き場を失った負の感情を受け止められるのは自分しかいないのではないか。自分が憎しみや怒りの"はけ口"にされるのは、正しいんじゃないかとすら——。
「おい。人が寝てるってのにうっさいんだよ、さっきから」
この修羅場に似つかわしくない愛らしい声が聞こえてきて、ハッと声がした方を見ると、えなる屋の暖簾をくぐって一人の艶やかな少女が現れた。
鮮やかな金色の長髪を垂らした彼女は、線で描いたような二重瞼を今にも下ろしそうにしながら、安眠を邪魔してきた佐助たちを睨む。
薄着の寝巻きという色気もへったくれもない出立ちなのに、彼女の登場に通りにいた人々の視線は釘付けになった。
朝日に輝く金髪にエメラルドのような緑色の目。目鼻立ちはハッキリしており、単体で見ても美しいそれらが、見事な配置におさまっていた。小柄な体躯だが、苛立ちを纏った雰囲気のせいだろうか。妙な威圧感があった。
金髪に緑色の瞳という奇抜な見た目をしていたが、その奇抜さをすんなり受け入れられるほど、むしろその要素が彼女にとって最も正しいものだと断言できるほどに、少女は完成された容姿をしていた。
佐助は、彼女に既視感を覚えた。どこかで見たことがあるような——いや、こんな美少女の知り合いに心当たりはないのだが。
突如現れた美少女に、佐助を殴っていた女も毒気を抜かれたように突っ立っていたが、やがて口を開いた。
「まさか——シキ? あんたがえなる屋のシキなの?」
「ああ。おれこそ、このえなる屋一の遊女、シキ様だよ。そういうあんたは切見世の女か? こんなとこまでほうほうの体でどうしたんだ」
シキが尋ねると、女は自分の目的を思い出した。
「行かなきゃ……行かなきゃ、私……」
ブツブツ呟くと、夢遊病者のような足つきで前に進んでいく。女が何もないところで躓いたので、佐助は咄嗟に彼女を支えた。
「行かなきゃってどこにだよ。居場所なんてどこにもないだろ。あんたもおれも」
シキが呆れ半分、憐れみ半分に言うが、その口調は妙にカラッとしていて、女の痛ましい状態に似つかわしくなかった。
「帰らなきゃ……帰らなきゃ……早くうちに帰らなきゃ……夕飯のお手伝いをしなくちゃ……」
「あーダメだな、これ。精神だけ子どもに戻ってやがる」
ここでは珍しいことでもないらしく、シキはガシガシと頭をかくと大股で女に近づく。その仕草は女らしさの欠片もなく、益荒男のようであった。
「その人、離してやんな。こうなっちまったらもう何言ったって届かねーよ」
佐助が彼女の手を離すと、彼女はフラフラしながらも、吉原の入り口である大門を目指して歩き出した。
「外に出るつもりなのか」
「どうせ外には出られないよ。入り口に辿り着く前に誰かに見つかって戻されて終わりだろうさ」
あっけらかんとした口調は、やはり内容の悲哀さに比べて湿度を感じさせない。天気の話をしているかのような何気なさだ。
「それであんたはあの女の客か? ここで遊ぶにしても、中途半端に希望を持たせるようなことはするもんじゃねーぞ」
どうやらこの少女は、佐助があの女の贔屓の客であり「いつかここを出て二人で暮らそう」というありもしない希望をチラつかせていたのではないかと疑っているようだった。
遊郭にはよくいる悪徳客だ。身請けすると言った言ってないで揉めている遊女と客を、シキは何人も見てきた。
シキの厳しい眼差しを受けて、佐助は急いで「違う」と訂正する。
「誤解だ。俺はえなる屋に入りたかっただけで——」
「えっ、うちの店に?」
途端に満面の笑みになるシキ。佐助の背中をグイグイ押して、店の中に入らせる。
「なんだよ、うちに遊びに来たんなら早くそう言えっての!」
「えっ。いや、ちが——」
「おーい! お客様が来たぞー! しかもなかなか羽振りの良さそうな感じだー!」
そういうこと客の前で言ってもいいのか?
佐助は訝しむが、奥から出てきた楼主らしき男は、お前はそれでいいのだと言わんばかりに、ニコニコとシキを見ている。
「それにしてもあんたも豪傑だな。こんな昼日中から遊ぼうってんだからさ」
痛くない程度にバシバシ背中を叩いてくるシキ。
「なっ……!」
佐助の顔にみるみる熱が集まっていく。
「違う!!」
突然大きな声を出した佐助を、シキはもちろん、楼主やシキの声を聞きつけてやって来た遊女たちも、ギョッとした。




