名は変われども
宿香澄は縁側で体を折り曲げて、まるで謝るような姿勢で泣いていた。
泣きすぎてもう目がヒリヒリしているのに、どれだけ泣いても胸を痛めつける悲しみは楽にならない。
耳ざとい近所の人に聞いたのだ。
宿短子が魔性討伐軍の拠点で暴れ回った末に、とうとう捕えられたらしいと。近くまで寄って様子を窺っていたのだが「宿短子、確保ーッ!」という叫び声が聞こえたのだと。
短子さんが捕まった。あの人は殺人鬼なんかじゃない。人を殺せるような方じゃない。
あの人が罪をなすりつけたんだ。お義父さんを殺した罪を。そうして、彼を殺人鬼として処刑させる腹づもりなんだ。
あの人は平気な顔でそういうことをする。他人のことなんて、道具やおもちゃのようにしか思ってないんだから。平気な顔で辱めて、壊して、利用する。
「う……。うあああ……!」
ヒックヒックと嗚咽が込み上げ、涙は洪水のように止まらない。
もう二度と彼に会えないのだと思うと、彼の笑顔を見れないのだと思うと、胸が潰れたようになった。
「そんなに泣いたら目が溶けちゃうって」
突如聞こえてきた可笑しがるような照れたような声に、香澄は顔を上げる。
「あなた……」
菊男がそこにいた。香澄を見て「よっ」と片手をあげる。
菊男は彼女に近づくと、目尻に溜まった涙をそっと人差し指で拭った。こちらを最大限労るような優しい手つきだった。
香澄には一瞬でわかってしまった。
この人は短子さんだ。
「短子さん……なの? 幻じゃなくて? それとも夢? 私、とうとうおかしく——」
「大正解だよ。おおかた隣のおばちゃんに聞いたんだろ。俺が殺されるって。情報収集が早くて参っちゃうね」
どこか他人事のように話す彼はよく知っている彼で……香澄の涙腺はまた決壊してしまった。
「ちょっ……! もう泣かないでよー」
「無理です!」
「そっか〜……無理ですか……」
「どれだけ心配したと思って……私がどんな気持ちで……! ああ、いや。私にそんなこと言う資格はありませんね。すみませ——」
香澄の頭が、ポスッと彼の胸板に当たる。
「謝るな」
命令形ではあるが、優しい口調だった。
「心配してくれてありがとう。俺のことでこんなに泣かせて、ごめん」
香澄は彼の首元を掴むと、子どものように声を上げて泣き出した。
その声を聞きつけて、バタバタと近づいてくる子どもの足音。
「お母さん! どうしたの——って。お父、さん……?」
はな、なつ、つばめ。菊男の三人の娘たちが、目を丸くして父母を見ていた。
目の前の光景に、三人は混乱していた。
父の胸に縋りついて思いっきり泣く母なんて、ありえないからだ。
「はな。なつ。つばめ」
名前を呼ばれて、娘たちはますます「この人はお父さんじゃない」という気持ちを強めた。
父は、自分たちの名前すらも覚えていなかったのだから。
「なんやかんやあったけど。"おじちゃん"、ただいま帰還しました」
頭の上で両手を上げて、ニカッと笑う短子。いや——。
「今日から俺が宿菊男として生きていく。そんなわけで、これからはおじちゃんじゃなくてお父さんって呼んでくれよ」
そう言われて、子どもたちも目の前の相手が誰なのかわかっていく。
「やったー! おじちゃん、生きてた!」
突進してきたなつを受け止める菊男。
「おじちゃんが殺人鬼だったって近所の人は話してたけど、あたしたちは嘘だってちゃーんとわかってたからね! 絶対近所の人たちの言ってることが間違ってるんだって! お母さんと私たちはちゃーんとわかってたもん!」
「ありがと。これからは絶対に"お父さん"って呼べよ? 外でおじちゃんって言ったら危ないからな。別にお父ちゃんでも父上でもいいけど」
「父上はへんー!」
「はは、そうか。変か」
「おじちゃん、つばめたちのお父さんになってくれるの? これからは毎日遊べるってこと? 一緒にご飯食べて一緒に寝れる?」
つばめが袖を引っ張って訊いてくるのに「そうだぞ!」と頷く。
「これからはずっとお前らのそばにいるからな」
そう言った彼の目は、わずかに潤んでいた。
その日の夜、菊男は香澄に何があったのかを全て説明した。
香澄は「本当に良かった」と何度も繰り返していた。
「でも……そうね。あの人は死んでしまうのね」
香澄は遠い目をして呟いた。
悲しみとは別の、何かしんみりした感慨が胸を満たしているようだった。
それは彼の方でも同じだった。
「どんな酷い奴でも知ってる奴が死ぬっていうのは、何とも言えない気分になるな」
「そうね……」
「俺さ……こうなる前に何とかできなかったのかって思うんだ。あいつがああなったのには、俺にも責任あるんじゃないかって」
彼は目を瞑り、わずかに震えた声で言う。
「幼い頃、俺がちゃんと兄貴として振る舞えていたら、あいつは道を踏み外すことはなかったのかもしれない。香澄も親父も苦しい思いせずに、あいつと笑い合ってる未来がひょっとしたら存在したんじゃないかって……そんなことばっか頭ん中グルグルしてるよ」
あぐらをかいた膝の上に拳を乗せて明日にはこの世を去る弟のことを考えていると、その静かな雰囲気をぶち壊すような泣き声が隣の部屋から聞こえてきた。
急いで向かうと、はなが眉を寄せて唸っていた。
「おいどうした!」
はなを揺さぶるが、悪夢の中にいる彼女はなかなか目覚めない。
小さな声で何か言っている。菊男は耳を近づけて聞き取ろうとする。
「やめて……」
「え?」
「お母さんを……ぶたないで……」
頭を殴られたような衝撃の後「あれ……?」というはなの声。
「お父さん……? え、なんか暗い……夜?」
寝ぼけ眼をこすって、だんだんと覚醒していくはな。
「良かった……夢だったんだ」
菊男ははなを抱きしめると、頭を優しく撫でつけた。
「大丈夫だ。もう大丈夫だから。お母さんをぶつような奴はもういないから」
「そっかあ……」
はなは安心したように微笑むと、瞼を閉じた。
今度は穏やかな寝息が聞こえてきて、ホッと息をもらす菊男。
その一部始終を、香澄は近くで見ていた。
「ねえ短——菊男さん」
これからはそう呼ばなければならないのだと、慌てて言い直す香澄。慣れるのには少し時間がかかりそうだ。
「色々思うことはある。あの人が死んで良かったなんて言うつもりはないけど……でも私はどうしても思ってしまう。帰ってきたのがあの人じゃなくてあなたで良かったって。それはとっても不公平で優しくない考えなのかもしれないけど……でもそれが偽りのない私の本心」
香澄は、菊男の冷たい手を包み込む。
「あの人よりも、あなたといた方が子どもたちは幸せになれると思うから。——もちろん私も」
最後の部分で、香澄は頬を染めて俯いた。
「帰ってきてくれて………会いにきてくれてありがとう」
ああ——。
幸せだ。
菊男は、今この瞬間がどうしようもなく幸せだと思った。
25歳まで生きられないと聞いた時、扉が目の前で閉ざされたようだった。
それでも何の罪もない他人の体を乗っ取るなんて勇気も出せなくて、ならばせめて終わりが来るその瞬間まで楽しいこと、やりたいこと全てをやり切ってから死のうと決めて家を出ていった。
それからずっと放蕩に身を委ねて生きてきた。
少しでも遊ぶことをやめれば、孤独に考え込む時間を作ってしまえば、人生の虚しさと死への恐怖が自分を飲み込んできそうで、放埒な生活に依存することでしか自分を守れなかった。
こんな弱い自分を変えてくれたのは香澄だ。香澄と子どもたちだ。
俺は虚しさとは無縁の日々に足を踏み入れたのだ。辛い時も明るく振る舞って、自分を取り繕う必要はなくなったのだ。
熱くなった目元を擦ると、香澄が「耐えようとしないで」と言うように、頭を包み込んで胸元へと抱き寄せてきた。
二人は、長いことそうしていた。
その日の夜、彼は決意した。
これまでの自分は、お世辞にも立派な男とは言えなかった。
だからこれからは、自分を大切に思ってくれる尊い者たちを、俺自身も全力で大切にしよう。
俺を待っていてくれた者。慕ってくれた者。信じてくれた者。許してくれた者。
そして——共に戦ってくれた者。
そんな者たちに報いるために、俺にできることは精一杯やるんだ。
そして、俺が今日感じた限りない幸せと同じくらい、いいやそれ以上に家族を幸せにしてやる。
それが俺がやりたいことで、やれることで、やらなければいけないことだと思うから。
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