決着
口の中に溜まった血を吐き出す暇もなく、菊男の攻撃が降り注ぐ。
戦況は芳しくなかった。攻撃を避けるのに精一杯で、反撃に出る余裕などない。
どうにか隙を作らなくては。でもどうやって——?
「う……」
その時、失神していた短子が意識を取り戻した。
口元は、牛の生き血でも啜ったように真っ赤である。
「菊、男……」
半径五メートル以内でなければ聞こえなさそうな掠れ声だったが、菊男の耳はその声を拾った。
「惨めだなあ?」
菊男は舐め腐って、涙を拭う仕草なんかしてみせる。
「今の姿を香澄に見せてみたら、あいつはなんて言うだろうな? そんなに情けない姿を見たら」
菊男の言葉に違和感を覚える佐助。
なんだ? これは——。
「お前のことを御伽話の英雄のように思ってたんだろうが、実際のお前はそのザマだ。俺にボコボコにやられるお前を見たら、香澄だってお前よりも俺の方が頼りになるって思い直すだろうよ」
ああそうか——佐助は合点する。
なんて見当違いな。
こいつは——菊男は嫉妬していたのだ。香澄が夫である自分よりも短子の方に心を許していたと知って、どうしても短子を許せなくなったのだ。殺してしまいたくなったのだ。
事実、佐助の予想する通りであった。
『短子が小春を襲った』という事実を伝えに統一郎と佐助が菊男を訪ねた時、香澄は客人にお茶を出しにきた。
その時、話を聞いてしまった香澄は大きく取り乱してしまった。
——さっきの話、本当なんですか。短子さんがそちらのお嬢さんに乱暴をしようと——それは本当に確かなことですか。
菊男は家を出ていった双子の兄のことを、香澄にはまったく話さなかった。
名前すら教えていなかった。
それなのに香澄が「短子さん」と言ってしまったものだから、当然菊男は彼女を問い詰めた。
激しい折檻の末、ようやく香澄は口を割った。
以前から短子がこっそり自宅に遊びに来ていたこと。香澄や子どもたちと仲睦まじく過ごしていたこと。
菊男は支配欲の強い男である。というか支配していないと落ち着かない男である。
香澄が自分に隠しごとをしていただけでも許しがたいのに、自分の知らぬところで他の男と仲良くしていたなんて。
自分には見せたことのない顔を短子には見せたのかと思うと、はらわたが煮え繰り返りそうだった。
その夜はいつもの何倍も手酷く犯して、今後自分の許可なしでは外出禁止という規則を追加した。
菊男の頭の中では、香澄は夫を裏切って他の男に惹かれた悪女であり、短子は人の家庭を踏み荒らした間男である。
「二人して俺のことを笑ってたんだろう。コソコソ隠れて卑怯な奴らだ。弱い奴は根が卑劣なんだな」
短子の顔に唾を吐き捨てる菊男。
「いいか? お前よりも俺の方が上なんだよ。圧倒的にな。お前を殺せば香澄がどんなにバカ女だったとしても理解するだろう。俺の方が夫として頼もしいって」
嫉妬に目が眩んで認知が歪んだ菊男が見ている世界は酷く悪意に満ちていて、それでいて自身に都合の良いものにできている。
どこまでも自分の妻を、自分の思い通りにできる人形のように思っているのだ。
「お前……本当にどうしようもない奴だな」
「あ?」
蔑みが含まれた佐助の呟きに、耳ざとく反応する菊男。
「そんなことしたって、彼女の心が手に入るわけないだろ」
「何も知らない部外者は黙ってろよ」
その言葉が、佐助には負け惜しみにしか聞こえなかった。
「そんなにボロボロでまだ戦うつもりかよ」
「当然だ」
ハッ、と鼻で笑う菊男。
「いいよ。そんなに殺されたいなら殺してやる」
佐助は再び逃げ惑い、ひたすら攻撃を避けることに集中する。
「なんだ!? 散々カッコつけといて結局逃げるだけか!?」
「そんなんじゃいつかやられるぞ!」と菊男は笑い、拳を前へ前へと突き出す。その度に空気の振動音が耳の近くで響いた。
「佐助……もういい。もうこれ以上はお前が……」
地面に伏した短子が弱々しげに、しかし切実に頼む。
菊男の耳には短子の声が入っていないようだった。短子だけではなく、周りの音全てが意識から外れていた。
それほど目の前で必死に逃げ惑う佐助に夢中だった。手負いの獲物に夢中になる肉食獣のようだった。
「……確かにしんどいな」
佐助は攻撃を避ける合間に短子の目を見ると、一瞬だけウインクを(下手くそすぎて両目が閉じてしまっていたが)してみせた。
「犬の手でも借りたいくらいだ」
短子はなぜ佐助がそんなことを急に言い出したのかわからず、キョトンとする。
ウインクなんて気障なまねを死んでもしなさそうな、あの堅物の佐助があんな目配せをしてみせた。
となると当然何かの合図——。
短子は、佐助の特に意味はないかと思われた発言を思い返し、あっと彼の意図に気付いた。
短子は口笛を吹いた。
やけに高くてよく響く、離れたところにある統一郎の屋敷にまで届きそうな上手な口笛を。
隊員たちは怪訝そうな顔を見合わせる。菊男さんはこんな時に何をしているのかと困惑している。
一方、目の前の佐助に夢中な菊男は口笛が耳に入ってはいたものの、特に気に留めずに戦いを続ける。
異様な空気の中、何か小さなものが近づいてくる気配がした。
ハッ、ハッ、ハッ、と小さな舌を出しながら全力ダッシュで短子のもとへ向かっているのは、白い綿飴のようなフォルム。
あんこだった。
視界の端にあんこを捉えた佐助は、ボロ雑巾のようになった体に力が湧いてくる。
——口笛を吹くと、遠くからでもすぐに駆けつけてくれるようになってさ。
短子が以前言っていたことを思い出した佐助には、あるアイデアが浮かんだのだ。それを短子は察した。
はたしてうまくいくかどうか。
「ちょっと……これってどういう状況?」
あんこが短子に鼻先を近づけて、濃い血の匂いを嗅いで青ざめる。
彼女は統一郎の屋敷で、小春と共に身を縮めていた。何が起こっているかはわからなかったが、とにかく侵入者でも現れて苛烈な戦いが繰り広げられているのだろうと、それくらいの事情は想像し得た。
怖がる小春の元を離れたくなかったが、短子の口笛が聞こえて自分を呼んでいるとわかると、行かなければいけないと思った。
自分を頼らざるを得ない事態なのだと。
それが何を意味するのかはわからなかったが、とにかく赴かなければ全部ダメになる予感がした。
「あんこ……俺がこれから言うことをやり遂げてくれるか……?」
あんこは何も考えずに「うん」と答えていた。
彼女の脳裏に浮かぶのは香澄の泣き顔だった。
短子が殺されることを心配して、胸が潰れそうな様子だった香澄。
それと、短子に優しく撫でてもらった時のことだった。
「やるよ。ウチ頑張る。何をすればいいの?」
「ありがとうな。じゃあ——」
菊男はこちらを全く気にしていないが、万が一に聞こえないように、こっそりと耳打ちする。
あんこは、その"作戦"を聞いて、大きな目を溢れ落ちんばかりに見開く。
「頼む。詳しい事情はあとで説明する。今は何も言わずに協力してくれ」
いつ佐助が倒れてもおかしくない。事態は一刻を争う。
短子の眼差しの真剣さを見たあんこは、ごくりと唾を飲み込んでから「わ、わかった」と答えた。
***
菊男の攻撃は激しさを増していく。なかなか死なない佐助に苛立ちが募り、一撃ごとに重くなっていくような気がした。
俺の意思をあいつは察してくれた。あんこも駆けつけてくれた。
あとはあんこが作戦に同意してくれるかと、作戦がうまくいくのかどうか。
「走馬灯でも駆け巡っていたのか?」
ぼんやりしている佐助に、菊男が小馬鹿にしたような声音で言う。
菊男は自分の勝利を確信しているようだ。
佐助は最後の悪あがきのように、菊男の上半身を狙って攻撃を繰り返す。
大きく飛んで、頭上から菊男へと斬りかかろうとした時のことだった。
佐助の目元がふっと緩んだ。
何を、と思ったその瞬間、菊男は脛に激痛を感じた。
ハッと脛に目をやると、ちんまりした白い毛玉が足の皮膚に思いっきり歯を立てている。
ぬらりとした舌が噛まれた部分に当てられた時、ドクンと心臓が跳ねた。
その感覚には覚えがあったので、菊男は慌てて犬を蹴り飛ばそうとする。
しかし、時すでに遅し。
「嫌だ嫌だ嫌だ! うわああああ!!」
隊員たちの目には、絶叫しながらバタリと前に倒れる菊男の姿が映っていた。
佐助はホッと肩を落とすと、ぐったりした岡田の体に突進しようとする子犬を、いとも容易く抱き上げて腕の中に閉じ込めた。
腕を噛まれないように気をつけながら、佐助は隊員たちに呼びかける。
「羽団扇を回収しろ。それと岡田と"菊男さん"を医局に連れていくように」
佐助の指示でキョトンとしていた隊員たちは、ようやく戦いが終わったのだと実感が湧いてきた。
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