おやすみなさい
ぐるるる、と低く唸る獣の声。
立ち籠める異臭に頭がくらくらした。三つの頭を持つその獣の名前を知っている。
『ケルベロス』
地獄の門の番犬と言われている魔物が、どうしてこんなところにいるかなんて知らない。知りたくもない。
その獣のだらしなく垂れた舌先から、ぼとりぼとりと涎が地面に流れ落ちる。その先を辿れば、そこには無惨な肉塊が広がっていた。
それは、何?
それは、何だった?
「パパ……ママ……?」
◆
「パパ! ママ!」
はぁ、はぁ、と肩で荒い息をする。私は自分の叫び声で目が覚めた事にしばし呆然とした。
周りを見れば、いつもと変わらない私の部屋。窓から入る月明かりに照らされて、衣装棚や机が薄らと輪郭を表している。
汗でべったりと顔に張り付いた髪が気持ち悪い。私はパジャマの袖で汗を拭うと、膝を抱えて頭を埋める。
恐怖におののいていた身体が、丸まったことで少し落ち着く。波打っていた心臓の鼓動もだんだんと平常に戻ってきた。
忘れもしない。あれは、私の両親が殺された時の夢。ケルベロスに襲われて、パパとママは死んでしまった。
そして、夢の終わった瞬間。ちょうどあの直後に、あの化け物は私に向かって飛びかかって来たのだ。
全てがスローモーションだった。ここで、自分の命は尽きるのだと思った。
けれど、こうして私は今、生きている。それは、他でもない師匠のおかげだ。
スローモーションの映像の中に、師匠は深い緑色の髪を靡かせ、颯爽と私と化け物の間に割って入った。そして、何の呪文を唱える事も無く、あの獣を倒したのだ。今思えば、あれは、無言詠唱だったのだろう。
幼いながらに死を覚悟した私にとって、こちらを振り返った金色の双眸は、この世のものとは思えないくらいに美しく見えた。
「あーあ、なんでこんな夢見るんだか」
せめて、師匠が登場してくれるくらいまで、夢に見れれば良かったのに。
中途半端に嫌な夢を見たせいか、言いようのない寂しさに襲われる。師匠に甘えたら、気持ち悪いって押しのけられるだろうか。
けれども、今はどうしても、誰かの側にいたかった。
「……よし」
時計の時間を見れば、午前三時。さすがの師匠も寝ているであろう時間だ。
迷惑だろうなと思ってみても、どうしても我慢できない。私は枕を抱えると、そろりそろりと師匠の部屋に向かった。
師匠の部屋なんて、片手で数えられるくらいしか入ったことがない。本当に小さい頃、今のように怖くて眠れなかった時、一度だけ師匠の部屋に忍び込んだ事がある。
師匠は驚いていたけど、何も言わずに一緒に寝てくれたっけ。
その次の日から、悪夢を見なくなるまで、私が眠るときはずっとそばにいてくれるようになった。
今思えば、小さい頃は師匠は私になんだかんだ気を使ってくれていた気がする。大きくなった今では、デリカシーのデの字もないような扱いしか受けないけど。
暗い中、辿り着いた師匠の部屋の前で、私は小さくコンコン、とノックをする。返事はなかったけれど、そっとドアを開いて中を覗いてみた。
「師匠?」
本がぎっしりと詰まった本棚、羊皮紙の散乱している机。壁にかかった黒板には、魔法で描かれた数式や文字がびっしりと敷き詰められている。
師匠が普段、ここで何をしているかは、はっきりとは知らないけれど、魔法の研究をしているのであろうことは容易に想像できた。
私はベッドに目を向ける。呼びかけた声で起きたのか、師匠がもぞもぞと動いて上半身を起こした。
「……こんな時間になんの用だ」
真夜中に、起こされたりしたら不機嫌にもなりますよね。普段よりも数割り増しで低い声に、やっぱり来なければ良かったかな、と小さな後悔をする。
でも、ここまで来て、なんでもないです。と引き下がる訳にもいかない。
「入っていいですか?」
「勝手にしてくれ」
許可はもらえたので、私はするりと部屋の中に入ると師匠の元まで一直線に向かう。それから、少し逡巡した後に、ベッドの中に潜り込んだ。
師匠は嫌そうな顔をしたけれど、身体をずらして私が入るスペースを開けてくれる。
「あのね、師匠」
「なんだ」
「小さい時の夢を見たんです。師匠と初めて会った時の夢」
「……そうか」
師匠の声音が、少しだけ柔らかくなる。それ以上何も言わずとも、どうして私がここに来たのか察してくれたらしい。
黙って私を抱き寄せると、あやすように背中をぽんぽん、と叩いてくれた。
「ねぇ、師匠」
「ん?」
「私ね、師匠がいなくなったらね、嫌だよ」
「心配するな。僕はどこにも行かない」
その言葉に、私は安心する。
「ほんと?」
「本当だ」
師匠の胸に顔を埋めて、すん、と鼻を啜る。涙は出ない。けれど、鼻の奥がつん、と痛くなった。
「リザ、安心しておやすみ」
「うん……」
「朝まで、こうしていてあげるから」
「うん……」
一定のリズムで、背中から響いてくる振動が心地よくて、私は一気に眠気に襲われる。
小さく、口の中で「おやすみなさい」と言ったが、それが師匠に伝わったかどうかまでは分からなかった。




