第7章「二度目のお別れ」
※この章には、リンの看取りの場面が含まれます。
お辛い方は、ご無理のない範囲でお進みください。
金曜の朝、いつもの角を曲がって病院までの一本道に入った。
白い息が、吹きかけた指のあいだに溶けていく。冬のいちばん深い時期に差しかかっていた。コートの袖口で指先だけが冷たい。手袋をしてくればよかったと、今さら思った。
八時の少し前。太陽は街の向こう側に顔を出していて、街灯はとっくに消えている。それでも吐く息だけは、まだ夜の名残みたいに白かった。
裏口のドアを押すと、立ち上がりかけた暖房の空気が鼻先にふれた。ロッカーで白いエプロンを羽織って、受付に回る。レジを開け、予約表を確認し、いつもどおりの手順を順に踏んでいきながら、ふと、壁の時計を見た。
いつもなら、もう院長が院長室から出てきている時間だった。
「おはよう、あかねちゃん」と声をかけてくれる。コーヒーを淹れる。午前中の予約表を一度だけめくって、ふっと息を吐く。そういう、朝の見慣れた風景が、今日はまだ、ひとつも始まっていない。
院長室のドアは、閉まったままだった。
朝の打ち合わせまでもう少し、という頃に、黒澤先生が白衣を羽織りながらバックヤードを横切った。受付の前で足を止めて、こちらを見た。
「三村さん」
「はい」
「院長、今朝、来てますか」
「……たぶん、院長室に」
先生は軽く頷いて、そのまま院長室のほうへ歩いていった。ドアの向こうのやり取りは、ここからは聞こえない。廊下の奥の気配だけが、息を詰めているように感じられた。
しばらくして、黒澤先生が一人で戻ってきた。ドアを音を立てないように閉めて、ちょうど出勤してきた看護師さんたちと私を呼び集めた。
「朝の打ち合わせ、少しだけ、いいですか」
バックヤードの奥で、先生は白衣のポケットに手を入れたまま、普段より少し低いトーンで淡々と言った。
「院長、今日はお休みです。リンと過ごす時間を優先させてあげてください。多分もう、長くない」
皆、視線を下げて小さく頷いた。
「診察は、全部こちらで引き受けます。予約の人は到着次第、時間を前倒ししてもらってかまいません。急患も、私のほうで調整します」
看護師さんが、はい、と小さく答えた。
私も頷いた。けれど口は、動かなかった。
先生は一度だけ、院長室のドアのほうに目をやって、それから「今日は、普段どおり、静かにやりましょう」とだけ言って、診察室のほうへ歩いていった。
——今日は、普段どおり、静かに。
開院してからの午前中は、拍子抜けするほど、普段と同じだった。来院する飼い主に挨拶をして、受付票を渡して、会計をする。院長の不在を尋ねる飼い主には、「今日は急なお休みをいただいていて」「副院長が診ますので」とだけ、繰り返し答えた。
普段、診察の合間に院長が受付までカルテを置きにくる足音や、リンが院長室の床を爪で鳴らして歩く音——そういう背景の小さな音が、今日はすっかり抜け落ちていた。病院の風景に、そこにあるべきものがなくなって、穴が開いているようだった。
黒澤先生は、一人で二人分の診察を回していた。診察室から出てくる回数がいつもより多く、動きに無駄がなかった。呼びかけられれば頷き、指示を出して、また診察室に戻る。その繰り返しを淡々とこなしていた。
昼休み、裏口のドアを押すと、冷たい空気が吐いた息を押し戻した。壁に背中をつけて目を閉じると、塀の上に気配があった。
「マメ」
「おう」
段差に腰を下ろして、塀の上を見上げた。マメのしっぽの先が、薄い影の中でゆらりと揺れる。
「……どうしたらいいと思う」
「何が」
「リンのこと。院長に、」——少しだけ、口ごもった——「リンから聞いたこと、伝えたほうがいいのかな」
マメは、塀の上で、しっぽの先だけを一度揺らした。
「お前、伝えて、どうしたい」
「どうしたい、って」
すぐには、答えられなかった。
伝えて信じてもらえたとして、院長はきっと泣くだろう。奥さんが戻ってきてくれた、と、そう思ってくれるかもしれない。——でも、もしそう思ってくれたとしたら、それはすぐにもう一度、奥さんを失う、ということでもある気がした。
信じてもらえなかったら、院長の中にはもやもやとした、行き場のないわだかまりが残るのかもしれない。最後のリンとの記憶を、私の余計な言葉が、汚してしまうことになるかもしれない。
どちらに転んでも、院長に辛い気持ちを、差し出すことになるのかもしれなかった。
秘密を暴くことで、何かが確実によくなる保証は、どこにもない。
「……わかんない」
「だろうな」
「マメ、なんか言ってよ」
「俺は猫だから。そういうのは、人間の仕事」
「ずるい」
「でもな」
マメがほんのすこしだけ真面目な声で言った。
「通訳ってのはさ、訳すかどうかを選ぶことも含めて、通訳なんだろ」
私は黙って、白い息を一度、長く吐いた。
——相手のための優しさを、わざわざ暴く必要はない。
いつか閉院後の処置室で、黒澤先生が言った言葉が、どうしてか今、思い出された。
マメは私の顔をしばらく眺めていたが、「知らんけど」と短く呟いて、塀の向こうに消えた。
午後の最後の会計を終える頃には、外はもう日が落ちていた。私は戸締まりの順番を頭の中で数えながら、受付の片付けを続けた。院長室のドアは、朝からずっと閉じたままだった。
診察室から、黒澤先生が出てきた。手を洗って、院長室のほうを一度だけ見てから、こちらに歩いてきた。
「三村さん、もう少し、残れますか」
「はい」
先生はそれだけ言って、処置室のカルテを片付けに入っていった。私は手元の作業に、意識を戻した。
どれくらい経った頃だろう。院長室のドアが、ゆっくり開いた。
院長が廊下に出てきた。白衣ではなく、薄いセーター姿だった。髪がほんの少し乱れていて、目の下に細い影があった。
「あかねちゃん」
「はい」
院長は、静かに言った。
「よかったら、……リンの顔を、見てやってくれないか」
少しだけ、息を吸う音がした。
「この子、あかねちゃんのこと、好きだと思うから」
私は頷いた。声は、出さなかった。出したら、そこでなにかがこぼれそうだった。
院長室のドアをくぐる。部屋の中の空気は、暖房でほんのりと温まっていて、毛布の匂いと、古い本の匂いと、ほんの少しだけ、薬の匂いが混じっていた。
ペットベッドの上で、リンがゆっくり目を開けた。
院長はソファのほうに回って、疲れた声で言った。
「じゃあ私は、休憩室で、少しひと息ついてくるよ」
「はい」
「あとは、お願い」
院長が部屋を出ていく。ドアの向こうで黒澤先生の気配がして、二人の低い話し声がほんの少しだけ聞こえて、それからまた静かになった。
私は、ペットベッドの横に、そっと座り込んだ。
「リン」
「……通訳さん」
声が、前よりも、ずっと、細かった。
「寒くない?」
「大丈夫。……暖かいよ」
しばらく、背中を撫でていた。毛の下の骨の感じが、以前よりはっきりと伝わってきた。何も言わずに、ただ、そっと撫でた。
「私ね、自分でも、よく、わからないの」
「何が?」
「……奥さんの記憶が、本当に、あるのか」
リンは、ゆっくりと、息を吸った。
「あの人と一緒の時間が、長すぎて、奥さんの話を、聞きすぎて、……自分のことみたいに、思えてるだけ、なのか」
「……」
「裏口に迷い込んだ日のことは、覚えてる。雨が、降ってた。……でも、その前のことは、何も」
「……」
「本物の記憶か、思い込みか、私にも、わからない」
私は、うんと小さく頷いた。
「でもね」
「うん」
「ひとつだけ、本当のことが、あるの」
「……何」
リンは、私の手のひらの下で、一度ゆっくり目を閉じた。
「あの人に、ありがとうって、伝えたい気持ち。これだけは、本物」
本物、とリンはもう一度、確かめるように言った。
私は、泣きそうになるのをこらえて、もう一度頷いた。
——それで、いい。
生まれ変わりかどうかは、関係ない。リンがわからないと言うなら、私も決めない。ただ「ありがとう」の気持ちだけ、私が運ぶ。それでいい。
立ち上がって、ドアを開けた。廊下の先、休憩室の引き戸が細く開いていて、ソファに腰掛けた院長の背中が見えた。黒澤先生は、少し離れた壁に背をつけて立っていた。
「院長」
「……うん」
「リンちゃん、ずっと、伝えたかったことが、あるみたいです」
院長は一度だけ、ゆっくり瞬きをした。それから、なにか確かめるように、私の顔をじっと見た。私は、視線を逸らさなかった。
「……そうか」
院長はそれだけ言って、ゆっくりと立ち上がった。二人で院長室に戻る。黒澤先生はドアの外に立ったまま、中には入らなかった。
院長はペットベッドの横にしゃがんで、リンの顎の下に手を添えた。リンのしっぽが、ぱたり、と一度だけ毛布を叩いた。
私は、院長のすぐ隣に正座した。
「あの」
「うん」
「院長と過ごした時間が、リンちゃんにとって、本当に幸せだった、って」
「……」
「裏口で拾ってもらえて、嬉しかったって。あの日、雨が降ってて、寒かったけど、院長のところに、来たかったんだって」
「……」
「ずっと、ありがとうを、伝えたかった、って」
院長は顎の下を、ゆっくりと、ゆっくりと撫でていた。
「それから——」
ここから、言葉を、慎重に選んだ。
「江ノ島の、食堂のアジフライ。衣が厚すぎて、二人で笑ったこと、覚えていますかって」
院長の手が、一瞬、止まった。
「プロポーズの日に、院長が、お箸を三回、落としたこと」
院長は、何も言わなかった。ただ手は、リンの顎の下に置かれたままだった。
「……あかねちゃん」
声が、わずかに震えていた。
「どうして、それを」
「リンちゃんが、伝えてって」
私は、それだけしか言わなかった。それ以上は言わないと、決めていた。
院長は、少しだけ頭を下げて、長い息を吐いた。
「……そうか」
そして、もう一度、静かに、
「そうか」
と言った。
院長は、リンをゆっくりと抱きしめた。腕の中に包み込むようにして、首筋のあたりに顔を寄せた。
「ありがとう」
院長の声は、掠れていた。
「ありがとう。……ありがとう、ずっと、ありがとう」
院長の声は、途中から、言葉の形になっていなかった。ただ「ありがとう」という音だけを、何度も、何度も、繰り返していた。
リンは、院長の手のひらに頭を預けるようにして、目を閉じた。
しっぽが、もう一度、ぱたり、と毛布を叩いた。
それから、——とても静かに、——呼吸が、だんだん、浅くなっていった。
院長の腕の中で、リンは穏やかに目を閉じたまま、動かなくなった。
院長は、泣きながらリンを撫で続けていた。私も泣いていた。エプロンの膝のあたりに、丸い染みがいくつもできていた。
院長は、「少しだけ、リンと二人にしてほしい」と言った。
私と黒澤先生は、院長室の前の廊下で、小さく頭を下げて離れた。片付けを終えて、裏口から病院を出たのは、もうだいぶ遅い時間だった。
駐車場の街灯が、白く足元を照らしていた。コートのボタンを留めながら吐いた息が、街灯の明かりの輪の中で、白く広がって消えた。
敷地を出るあたりまで来て、黒澤先生が足を止めた。
「三村さん」
呼ばれて、顔を上げた。
「……はい」
「大丈夫か」
私は、駐車場のアスファルトの一点を、しばらく見ていた。
「……はい」
少し、間を置いて、
「いえ、……大丈夫じゃ、ないかもしれません」
そう言うと、先生は小さく頷いた。それから、
「院長、救われたと思う。三村さんのおかげで」
「……私は、何も、してません」
言ったら、また涙が溢れた。今日は涙の栓が壊れているみたいだった。
「ただ、通訳、しただけで」
先生は少し黙って、それから静かに言った。
「——気持ちまで届けるのが、通訳だろう。三村さんは、ちゃんと届けた」
先生がコートのポケットから、ハンカチを一枚取り出して、私の前に差し出した。何も言わずに、ただ差し出しただけだった。
「……ありがとうございます」
受け取って目元を拭いた。
しばらく二人とも、何も言わなかった。冬の夜の空気の中で、息が白く広がっては消えていく。その繰り返しを、二人でただ眺めていた。
ふと顔を上げると、街灯の向こう、病院の塀の上にマメの影があった。目だけが街灯の光を弾いて、こちらを見ていた。
冬の夜は、どこまでも静かだった。
院長の中で、リンは奥さんだったのかもしれないし、違ったのかもしれない。——それは最後まで、誰にもわからない。わからないままでいい。
でも、確かに今日、「ありがとう」は院長に届いた。
それで、いい。
白い息が、街灯の下にもう一度広がって、静かに消えた。




