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第6章「静かな日々」

※この章から、リンが徐々に衰えていく時間が描かれます。

次章には看取りの場面が含まれます。

お辛い方は、ご無理のない範囲でお進みください。

 街路樹が葉を落とし、朝の空気が冷たくなった頃、リンの動きが、少しずつゆっくりになっていた。


 目に見えるほどの変化ではない。毛布から顔を上げるまでの間が、半拍だけ長くなる。ごはんをほんの一口だけ、残すようになる。バックヤードのペットベッドから院長室まで歩くのに、以前よりも二歩ぶんくらい、時間がかかるようになる。


 そういう、半拍、一口、二歩ぶんのゆっくりが、毎日積み重なっているようだった。


 ある朝、出勤すると院長が一人でバックヤードにいた。「リン、今日は家で休ませてきた」と、コーヒーを淹れながら、独り言みたいにそう言って、その日の診察は普段通りに始まった。


 またある朝、院長が半分残ったごはんの皿を片付けていた。「たまにはこういう日もあるさ」と院長は笑って、お皿をゆっくり拭いていた。


 さらに別の朝、私がバックヤードを通り抜けて受付に向かうとき、以前なら定位置のペットベッドで寝ていたはずのリンが、そこにいなかった。——院長室にいるらしかった。


 そういうことが、ほんの少しずつ、増えていった。


 院長はこれまで、診察が立て込むとリンをバックヤードに移していた。人の目の届く場所で静かに寝ていてもらう、というルールだった。


 それが、この頃はずっと、院長室の奥にいる。


 立ち上がるのが前より大変そうだから、というのが、たぶんいちばんの理由だった。


 私は受付のカウンターの内側から、院長の動きを目で追うようになっていた。


 院長は以前からリンを可愛がっていたけれど、このひと月ほどは、目の配り方が変わってきていた。


 診察と診察のあいだ、カルテを置きに受付に寄りながら、院長室のドアをちらりと見る。次の患者さんを待っているあいだも、受付の時計を見て、小さく息を吐く。次の診察に入る。その繰り返し。


 一度、ドアノブに手をかけて、思い直して、そのまま診察室に戻っていったこともあった。


 その週は特に予約が詰まっていた。寒さで体調を崩すシニアの子が続けて来て、年末前の駆け込みの健診まで重なって、院長は昼食をとる時間さえろくに確保できなかった。


 午後の診察が始まる前、院長室のドアを、院長がそっと開けて、中を覗いて、また閉めた。そういう仕草を、その日の午前中だけで四回見た。


 四回目のあと、私は受付のパソコンの前で少しだけ迷ってから、立ち上がった。


「院長、あの」


「うん?」


「リンちゃんのお世話、私にもさせてもらえませんか」


 院長はカルテをめくる手を止めて、顔を上げた。


「ごはんとか、お水とか、他にも。パートさんが入る日は少し余裕がありますし、それ以外の日も、様子見るくらいの時間は取れると思うんです。私も、心配で」


 院長はしばらく黙って、それからふっと小さく笑った。


「……ありがとう」


 そう言って、カルテを閉じた。


「……家にいるのは、私とリンだけでね。だから、診察の合間にでも、ちょっとでも、見てあげたくて」


 私は手元の受付票のクリップを、意味もなく一度だけ握り直した。


「それでも、今週みたいに立て込むとね……お願いしていいかな」


「はい」


 院長はもう一度ありがとうと言って、診察室へ戻っていった。


 その日から、私は院長室のドアを開けるようになった。勤めて一年以上経つけれど、院長室のドアを自分から開けるのは、ほとんど初めてだった。


 部屋の奥に、ペットベッドが移してあった。毛布が以前より厚く、枕みたいに畳んだタオルが頭の下に入れてあった。リンは私が入っていくと、目だけで私の動きを追って、少し眉のあたりを動かした。それが、挨拶らしかった。


 院長は、数日後から病院に泊まるようになった。


 ある夕方、私が「お先に失礼します」と声をかけると、院長は「私はもう少し、残るから」と答えた。翌朝出勤すると、院長の靴はすでに玄関に揃えられていて、院長室のドアの向こうから、低い、どこか独り言めいた話し声が、うっすら聞こえてきた。


「今日はね、外、冷えるみたいだから」


「暖房、いつもよりちょっとだけ、強くしておくね」


 リンに話しかけているのだとわかった。家族と話しているような声だった。


 その日から、院長が家に帰る夜と、帰らない夜が、半分ずつになった。


 私は、院長室でリンに短く話しかけるようになった。


 会話は、以前よりずっと短かった。リンは一息で長くは話せなくなっていた。呼吸の合間に小さな言葉をひとつ置いて、また、呼吸に戻るように話す。


 その日、院長室でリンの水を替えていると、毛布の上でリンがゆっくり目を開いた。


「今日、寒いね」


「……うん」


「院長、さっき、長く一緒にいたね」


「……そうだね。嬉しかった」


 私は、ごはんの皿を片付けながら、口を開きかけた。


 ——奥さんのこと、聞いていい?


 そう聞こうとして、私は結局、聞くのをやめた。


 理由は自分でも、よくわからなかった。院長とリンが一緒に過ごしてきた何年かの時間が、ふっと目の前に立ちはだかる感じがする。そこに、たかだかバイトの私が手を伸ばしていい気がしなかった。


 これは、私が答えをもらっていい類のものじゃない。そういう直感だ。


 私は代わりに、毛布の端をまっすぐに直した。


 リンが目を細めた。


「……ありがとう、通訳さん」


 そう、静かに言った。


 私は少し微笑んで、リンの頬を撫でた。何に対しての、と聞き返すことはしなかった。


 その翌日だったか、翌々日だったか、院長室のドアを開けると黒澤先生がいた。いつもなら、この時間は診察室にこもっているはずだ。


 先生はペットベッドのわきにしゃがみ込んで、リンの背中をゆっくり撫でていた。体温を確かめているように、手のひらだけで、ゆっくり、ゆっくりと。


 私が立ち止まったのに気づいて、先生が先に口を開いた。


「……少し、弱ってきてる」


「……そうですか」


 先生はもうひとつ言いかけて、やめた。リンの背中を二回、ゆっくり撫でてから、白衣の裾を軽く払って診察室のほうへ戻っていった。


 白衣の背中がドアの向こうに消えるまで、私はその場から動けなかった。


 この人も、リンをずっと見てきたんだ。そのことに私は今さら気づいた。黒澤先生は院長の甥御さんだ。私なんかより、ずっとリンとの付き合いは長いはずだった。


 その週の終わり、夕方のことだった。


 院長室でお皿を片付けて出ていこうとしたとき、院長が「ありがとう、あかねちゃん」と言った。


 私は、いえ、とだけ返して、ドアを閉めかけて、ふと振り返った。


 院長がソファに腰掛けていて、その膝の上にリンがいた。小さく丸まって、院長の手のひらの下で静かに目を閉じていた。院長は何も言わずに、ただ、リンを撫でていた。


 窓から西日が斜めに差し込んでいる。院長室の壁も、ソファも、毛布も、院長の白衣の袖も、リンの背中の白と茶のぶちも、全部、橙色に染まっていた。一人と一匹が、同じ色の中で、同じ呼吸をしているように見えた。


 ——これは、いつか終わる時間なんだ。


 私は音を立てないように、ドアをそっと閉めた。 


 廊下に立って、しばらく動けなかった。胸の奥が、ぎゅうと一度だけ、強く締め付けられた。


 西日の橙色が、いつまでも目の裏にあった。何度瞬きしても消えなかった。


 閉院後、裏口のドアを押すと、外の空気が昼間よりさらに冷たくなっていた。寒さを確かめるように白い息を吐いたとき、塀の上にマメがいるのに気づいた。街灯の下で、しっぽの先がゆらりと揺れる。


「お前さ」


 マメがいつもよりちょっとだけ低い声で言った。


「あの婆さん犬に、言いたいこと、まだあるか」


「……あるよ」


「早いほうがいいと思うぞ」


「……わかってる」


「知らんけど」


「今のは、知らんけどじゃないでしょ」


 マメは答えなかった。しっぽの先が一度だけゆらりと揺れて、それから塀の向こうに消えた。


 私は鞄を肩にかけ直して歩き出した。


 夜道はいつもより少しだけ長く感じた。


 いつもの帰り道の、いつもの信号の、いつもの角。コートのポケットに手を突っ込んで歩く。歩幅だけが少し、いつもより大きかった。白い息が街灯の下でぼんやりと広がって、消える。


 今日も奥さんのことを、リンに聞けなかった。


 聞かなくちゃいけない気もしていた。時間はたぶん、もう、そんなにない。


 でも、ためらう気持ちの中身をうまく言葉にできなかった。自分の手の中に収まらないものを、どうしていいのかわからなかった。


 家に帰って、コートも脱がないまま、しばらく玄関に立っていた。


 それから、のろのろと部屋に入って、電気をつけて、お風呂に入って、布団にもぐり込んだ。いつも通りの、一人分のルーティン。


 目を閉じる前に、天井に向かって、小さく呟いた。


「……また、明日」


 自分に言い訳するような、誰かに約束をするような、どちらともつかない声だった。


 目を閉じた。


 夜が、静かに更けていった。

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