第5章「脱走フェレットと夜道」
午後の受付に、細長いのが来た。
キャリーの中で茶色の毛皮がするするとS字になっている。飼い主は二十代前半の男性で、眼鏡のブリッジが少し低い位置にずれていた。
受付票を受け取って、名前の欄に目を落とす。右肩上がりの字で「ゲーテ」と書いてあった。種別はフェレット。
——ゲーテ。
私は営業スマイルを保ったまま、一度だけ飼い主の顔に視線を上げた。鞄の口から、文庫本の背表紙がちらりと覗いている。古典翻訳の、たぶん、あの作家。聞けば語ってくれそうな気配が薄く漂っていた。
聞かないけど。
診察は何事もなく終わった。会計を済ませたとき、バックヤードのドアから黒澤先生が次の予約カルテを取りに顔を出した。ちょうどたまたま、そのタイミングだった。
飼い主が外扉に手をかけて、肩で押し開ける——その瞬間、キャリーの蓋の留め具が、カパッと軽い音を立てて外れた。
「あ」
飼い主の声よりも、ゲーテのほうが早かった。蓋の隙間からするりと滑り出して、そのまま歩道の右手方向へ走っていった。茶色い帯が、アスファルトの上を伸びていくように見えた。
「ゲーテ!? ゲーテ、待って!!」
飼い主がキャリーを床に放り出して、外扉を押し開けて飛び出していった。
——どうしよう。
指示を求めて振り返ったけど、院長は診察室で犬の予防接種中だ。磨りガラスの向こうに、保定している看護師の背中が見える。どちらも、手が離せない。
カウンターの中から外扉のガラス越しに道路を見ると、ゲーテが走り去った右手の方向、電柱のわきの塀の上に、見覚えのある黒白のハチワレが、欠伸混じりに座っていた。
——マメ。
考えるより先に、身体が動いていた。
「私、探してきます!」
椅子に掛けてあったカーディガンをひっつかんで、飛び出す。背中のほうで、黒澤先生が一瞬だけ戸惑う気配があって、それから処置室のドアに向かって声を張っているのが聞こえた。
「院長に、私も外で探しに出ますと伝えて」
その声を背中に聞きながら、私は塀の下まで一気に走った。夕方の少し手前の光が、正面から斜めに差し込んでいる。
息を切らしながら塀の上のマメを見上げると、いつも通りののんびりした顔で私を見下ろした。
「今の、見た?」
「あー、あの細いやつな」
「どっち」
「速ぇから追えねぇけど、そこの路地、左。奥の生垣のほう」
「助かる、ありがと!」
「野良連中にも声かけとくわ」
マメはのびをして、塀の裏へ消えた。
言われた通り路地に入ってすぐ、街路樹にスズメがとまっていた。私が真下に来ると、羽をばたつかせてアピールしながら、頭の中に一気に声を流し込んできた。
「あ、見ました見ました! 細長いの! びゅーんって! 奥さん、ワタシ見ました! あっちの生垣、奥の赤い屋根のお宅の、門の下!」
——声、でかい。あと奥さんでもない。
お礼に軽く手を振って足を速めると、生垣の切れ目の塀の上で、野良猫が一匹、こちらを見下ろしていた。目つきがマメよりさらに悪い。
「……お前、マメの知り合い」
「そう。細長いの見なかった?」
「見たぞ。俺のシマ抜けて、南の方な。商店街の手前」
「ありがと」
「礼は現物で寄こせよ」
——したたかな。
少し先で、黒澤先生が追いついてきた。飼い主の後を追いかけていったが見失ったらしい。息は切れていないが、首筋に少しだけ汗が光っている。
黒澤先生は私の顔を一度見て、それから路地の先のほうに視線を移した。
「……こんなところにいたのか」
確かにちょっと謎な行動だったかもしれない。聞いた通りに歩いたり、方角を見ながら道に出たりしたから、脈絡のない動きに見えたんだろう。
「あの、なんとなく、あっちのほうかなって……」
「いや、いい」
それ以上は何も言われなかった。私が示した商店街のほうへ、並んで歩き出す。
その手前の路地で、散歩中の柴犬とすれ違った。飼い主は中年の女性で、リードを少し長めに持っている。犬のほうは私を見るなり、しっぽごと全身をそわそわさせて訴え始めた。
「通訳さん!! 俺、見ましたよあれ! 細長いやつ! 商店街のほう! 絶対あっち!! 絶対あっち!!」
——声が、でかい。みんな声がでかい。
柴犬は興奮のあまり、その場でぐるぐると三回転した。
「シロ、今日やけに興奮してるわね」
飼い主が不思議そうにリードを握り直す。私は何でもない顔で会釈して、通り過ぎた。
数歩進んでから、黒澤先生が前を向いたままぽつりと言った。
「……三村さん、なんか、動物に好かれてるな」
「そ、そうですか?」
「……まあ、いいことだ」
それだけ言って、黒澤先生はまた歩き出した。追及はない。でもちょっとだけ含みのある言い方だった。ひやひやする。
商店街に入る手前の角で、塀の上にまた、見覚えのある黒白がいた。
「南の、カフェの裏な」
マメはそれだけ言って、また消えた。
私は少しだけ間を空けてから、黒澤先生に声をかけた。
「あの、南のカフェの方、覗いてみませんか」
「根拠は」
「いや、なんとなく」
黒澤先生は、少し黙った。それから、ほんの一瞬だけ私のほうを見て、すぐに視線を正面に戻した。
「……ああ」
二人で、南のカフェへ向かった。
夕方のカフェのテラスは、客の入りがまばらだった。大きな観葉植物の鉢が、テラスの一角を緑で仕切っている。黒澤先生がしゃがみ込んで、鉢の裏をのぞき込んだ。
「いたぞ」
鉢と壁の隙間、影に埋もれるようにして、茶色い毛玉が丸まっていた。小さな胸が上下している。
黒澤先生が、慣れた手つきで首根っこをそっと持ち上げる。ゲーテはびくっと身体を伸ばして、それからゆっくり目を開けた。
「我が名はゲーテ……自由の風を求める、孤高の旅人」
——中二か?
「されど今、運命の鎖が、再び我が身を——」
「動くな」
黒澤先生がゲーテのお腹のあたりを軽く押さえた。脱水と外傷を確かめる、ただの触診の手つきだ。
「我が魂を、縛る、声よ……!」
——や、ただの獣医の指示だから。
「お前、ちょっと痩せてないか? 飼い主、ちゃんと飯やってんのか」
「飢えと孤独が、我が身を削るのだ」
——脱走一時間でそんな削れるほど薄くないよ、君のお腹。
ゲーテはひと呼吸おいて、急に声のトーンを落とした。
「……首の摘み方、プロだ」
——急に素に戻らないで!
飼い主の鞄に覗いていた文庫本の背表紙が、ふっと頭に浮かんだ。ソクラテスのときと同じだ。動物が飼い主に似るの法則、今日も律儀に仕事をしていた。
黒澤先生はゲーテをそっと腕の中に収めて、落ち着いた声で店員に頭を下げた。
「お騒がせしました」
「いえいえ、さっき入ってきて、ここで寝ちゃったみたいで。気になってたんです」
店員は、かえってほっとした顔をしていた。私も一緒に頭を下げて、カフェをあとにする。
帰りの住宅街は、日がさらに傾いて、影が長く伸びていた。塀の瓦が橙色に染まっている。風が冷たくなってきて、どこかの家の換気扇から、夕飯の匂いがふっと流れてきた。
黒澤先生がゲーテを胸元に抱えて、私の半歩先を歩く。会話は少なかった。でも気まずい沈黙ではなかった。
「……こういうの、悪くないな」
前を向いたまま、黒澤先生がぽつりと言った。
「え」
「普段、こういう景色、見ないから」
「診察室から、あんまり出ないですもんね」
「そうだな」
そう言えばこの人、出勤してからずっと白衣で、帰りも白衣を脱いだらそのまま駐車場、というのが普通だった。住宅街の夕日の中を歩く黒澤先生は、ちょっと想像の外だった。
ゲーテが黒澤先生の腕の中で、もぞりと向きを変えた。脳内で、また重々しい声が響く。
「——夕陽が、沈む。我が野望も、また、沈む」
——急に叙情詩が始まった。
「……この人間、あったかい」
——詩は!?
「我、もう、ここでいい」
思わず噴き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。黒澤先生が、私のほうをちらっと見た気がした。
住宅街の角をひとつ曲がったところで、黒澤先生がまた前を向いたままぽつりと言った。
「……三村さん、動物、よく見てるな」
こくりとのどが鳴って、返事ができなかった。背筋のあたりが嫌な感じにひやっとする。
「そ、そうですか?」
それだけだった。黒澤先生は、それ以上は何も聞かずに、先を歩き出した。
少し後ろから、その背中を見ながら歩いた。
先生、何か気づいてるのかもしれない。
——でも、聞かれない。
聞かれないから、私も、何も言わない。
病院に戻ると、飼い主が待合室のソファに疲れ切った顔で座り込んでいた。あてもなく走り回ったあげく、見つけられずに戻ってきていたらしい。黒澤先生がゲーテを差し出すと、飼い主はぎゅっと抱き寄せて、平謝りを始めた。
「本当にすみません、キャリーの留め具、ゆるかったみたいで……見つけていただいて、本当にありがとうございました」
「無事で何よりです」と院長。診察を終えたばかりらしく、白衣の袖を捲ったまま、ほっとした顔で歩み寄ってきた。
「次からは、お気をつけて」
黒澤先生は、飼い主の腕の中のゲーテを一度見て、短く付け足した。
「フェレットは脱走名人ですから。二重ロックのキャリーを、おすすめします」
飼い主は何度も頭を下げて、今度こそ丁寧にロックを確認してから、帰っていった。院長が、私と黒澤先生のほうを見て、少し笑った。
「お疲れさま。今日はもう遅いから、片付けたら帰っていいよ」
閉院後、私は鞄を取りに行く途中で、バックヤードを覗いた。
リンがペットベッドの上から、ちらちらとドアのほうを見ていた。しっぽは動かないが、視線だけはときどき上を向く。
「リンちゃん、院長、待ってるの」
「うん」
「今日、大変だったよ」
「……そうだね。見つかってよかったね」
私はベッドのそばに、ゆっくりしゃがみ込んだ。エプロンの裾が床に少しついた。
「飼い主さん、すごい必死で。キャリー放り出して、走って行っちゃって」
「そうだろうね」
「見つかった時ね、泣きそうな顔してた」
リンは、目を細めたまま、小さく頷いた。
少し、静かな時間が流れた。夕方の光はもうほとんど消えていて、バックヤードの奥だけが、蛍光灯の白さに変わっている。
ふと、昼下がりの院長の話が、頭に浮かんだ。奥さんと、江ノ島と、貝殻拾い。必死で探し回って、見つけたら、困ったみたいに笑っていた——という、あの話。
「……院長、さ」
「うん」
「前に、話してくれたよね。奥さんと江ノ島、行った時の話。貝殻拾いに夢中になって、奥さん見失ったって」
「うん、聞いてたよ」
「あの時も、今日みたいに、必死だったのかな」
リンは、目を閉じた。少し間があってから、ぽつりと話し始めた。
「……必死だったよ」
「え」
「奥さん、薄いピンクの小さな貝が好きだったの。下を向いて探してて、気がついたら、浜に自分しかいなくて」
「……うん」
「日が暮れかけて、風が冷たくなって。どっちに戻ればいいのかわからなくなって。心細くて、ちょっと泣きそうになったの」
リンの話し方は、ほとんど呼吸だけで続いているようだった。毛布の縁が、ゆっくり上下する。
「そしたらね、向こうから院長が、必死な顔で走ってきて」
「うん」
「ああ、来てくれたって、ほっとして。安心したら、なんだか急に恥ずかしくなって。泣き笑いみたいな、変な顔になっちゃったんだよ」
私は、口を開けて、閉じた。
——それ、奥さん側の話だ。
院長が話してくれたのは、「困ったみたいに笑ってた」の部分だけだった。その裏側——心細くて泣きそうだったこと、安心して恥ずかしくなったこと、泣き笑いになってしまったこと。それは、奥さん本人にしかわからないはずのことだった。
「……リン」
「うん」
「それ、院長から、聞いたの?」
リンは、答えなかった。
しばらく、毛布の縁のあたりを見てから、小さく、息だけで。
「……どうだろうね」
「どうだろうね、って」
「……どうだろう」
リンは、それ以上は何も言わずに、ゆっくりと目を閉じた。毛布の上で、しっぽが、ぱたり、と一度だけ揺れた。それきり、動かなくなった。
院長の足音が、廊下の奥から近づいてくる。私はそっと立ち上がって、バックヤードを出た。
外に出ると街灯がひとつ、ぽつりと灯っていた。駐車場のわきの塀の上で、二股のしっぽの先が、ゆらりと揺れた気がした。
帰り道、さっきのリンの「どうだろうね」が、胸の奥で小さく繰り返している。
夜道の先の遠い信号の青を、私はただ見ていた。




