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第4章「チンチラの哲学」

 午前の受付に、チンチラが来た。


 キャリーケースの中で灰色の毛玉がじっと丸まっているのを、飼い主が台の上にそっと置く。大学生くらいの男の子で、寝不足の目をしていた。リュックからボールペンを探す手つきが、だいぶ覚束ない。


「名前は、ソクラテスです」


「……ソクラテス」


「はい、ソクラテスです」


 二度、同じ声で繰り返された。念を押さないでほしい。


 受付票を渡して、記入してもらっているあいだ、私はケージ越しにソクラテスを観察した。灰色、ふわふわ、目だけが妙に落ち着いていて、この世のあらゆることに飽きたような顔をしている。


「あの、健康診断ついでに、ちょっと相談したくて」


「はい、どうされました」


「脱走するんです。三日に一度は、ケージから」


 飼い主はため息まじりに続けた。


「先週は冷蔵庫の裏にいました。その前はカーテンレールの上です。牧草も水もちゃんとあげてるんですよ、温度も快適。なのに、なんで逃げるのか、わからなくて」


「そうですか……」


 相槌を打ちながら、私はもう一度、ケージの中を覗いた。


 その瞬間、脳内に、低い声が落ちてきた。


「——通訳さん」


 ——え。


「生きるとは、何でしょうか」


 ——朝から、ヘビーな。


「私は、ただ、牧草を食み、水を飲み、時折脱走を試み、失敗し、また戻る。この繰り返しに、意味はあるのでしょうか」


 ——待って、哲学すぎる!


 飼い主は何も気づかずにペンを走らせている。私は営業スマイルを保ったまま、頭の中だけで絶叫していた。


 受付票を受け取って「少しお待ちください」とソファを示す。飼い主はケージを膝に抱えて、素直に腰を下ろした。


 そこで、運よく——というか、私にとって運よく、飼い主のスマホが鳴った。


「あ、すみません、ちょっと外で」


 そう言ってスマホを耳に当てたまま、扉の向こうへ消えていく。


 好機。


 私はカウンターから回り込んで、ケージの前にしゃがみ込んだ。


「ちょっと、さっきの話」


「……はい」


「続き、聞かせて」


 ソクラテスは、髭を一度だけ、ぴくりと動かした。


「脱走するのはなぜなの? 理由が?」


「ハイデガー的に言えば、私は、ケージに投げ込まれた存在なのです」


「そうね」


「ニーチェは、神は死んだと言いました」


「うん」


「ならば、ケージの扉は、なぜ閉まっているのでしょうか」


「そりゃ飼い主が閉めてるからよ」


 ソクラテスはピンと張っていた髭を、力なく垂らした。


「……私の飼い主は、毎晩、本を読み聞かせるのです」


「ハイデガーとかニーチェとか?」


「はい」


「飼い主、どんな大学生」


「夜、暗いケージの中に、難しい言葉だけが、ゆっくり降ってくるのです」


「ああ……」


 動物は飼い主に似る、とどこかで聞いた覚えがあった。似すぎだ。


「で、脱走の本当の理由は」


「存在論的な——」


「哲学以外で」


 ソクラテスは、しばらく黙った。それから、さっきより少しだけ小さな声で。


「牧草より、人参が食べたいのです」


「それだ」


「恥ずかしいです」


 飼い主が戻ってくる気配がして、私は慌ててカウンターの内側に戻った。


 診察は普通に終わった。院長がソクラテスを診て、特に異常はなし。会計のとき、私は院長の隣にさりげなく立つと、笑顔で正面を向いたまま小声で言った。


「院長、さっき飼い主さん、脱走に困ってるって言ってたんですけど」


「うん、診察中も聞いたよ」


「牧草ばっかりあげてるって言ってましたよ。ストレスで脱走しちゃう子って、いるんでしたっけ? たまに人参でもあげたら、ケージの中が楽しくなって、出たがらないんじゃないですかね」


 院長は軽く目を細めて、すぐに察した顔をした。そういうところ、院長は妙に勘がいい。


「——そうですね、人参を少量、ご褒美であげてみてください。ケージの中に楽しみが増えると、脱走の頻度は下がるかもしれませんよ」


 飼い主は半信半疑の顔で頷いて、「やってみます」とソクラテスを抱えて帰っていった。


 自動ドアに向かう途中、ソクラテスがケージの中からちらりとこちらを見た。


「……通訳さん」


 飼い主の前だ。私はソクラテスを見つめて笑みを深めた。


「ありがとう、とは、言いません。私は哲学者ですから」


 ——哲学者は言わないの、ありがとうって?


「恥ずかしいので」


 ——恥ずかしがるとこ、間違ってない?


「……人参は、できれば、金時で」


 ——私に言われても!


 扉が閉まりきるまで、私は頭の中で一人ツッコミを続けていた。


 夕方、帰り道の塀の上で、マメがあくびをしていた。ついでに愚痴る。


「ねえ、動物って、飼い主に似るんだね」


「今ごろ気づいたのか」


「チンチラが、ハイデガーを語ってた」


「飼い主、どんな人間だよ」


「哲学科の大学生」


「似てんじゃん」


「じゃあ、マメは誰に似てるの」


「俺は猫だから」


「猫関係ある?」


 それで、その日の騒ぎは一応終わった。


 翌日の昼過ぎ。


 午前の診察が終わって、午後診までに少し間が空く時間がある。そろそろパートさんの出勤時間で、私は早めのお昼を済ませて、午後の予約表を確認していた。


 ふと見ると、院長がマグカップを片手に院長室から出てきた。足元にぴったりくっついて歩く、白と茶のぶちの塊。リンだ。院長が受付前のソファに腰を下ろすと、リンもそのすぐそばに、当たり前のような顔で丸まる。院長が止まれば止まり、座れば座る。影が歩いているような動き方だった。


 今日は天気がいい。あまり外に出ないリンに、日光浴でもさせるつもりなのだろう。待合室には、秋の斜めの光が柔らかく差し込んでいる。どこかの家の金木犀がうっすら香って、自動ドアが開くたびに院内まで流れ込んでいた。


 私は書類整理の手を止めて、その様子を眺めていた。陽の光の中で、一人と一匹が穏やかに心を交わしているようで、なんかいいなと思った。


「リンちゃん、院長のこと大好きですね」


 そう言うと、院長は少しだけ笑った。


「そうかな。そうだといいんだけどね」


「何歳くらいなんですか、この子」


「それがね」院長はマグカップを両手で包んだ。「はっきりしないんだよ。拾った犬だから」


「え、拾ったんですか」


 初めて聞く話だった。院長は、いつもの穏やかな声のまま、少しずつ話し始めた。


 春先の雨の朝、病院の裏口に、痩せた犬がうずくまっていたこと。首輪もなく、名札もなく、どこから来たのかもわからなかったこと。奥さんが逝ってから二年ほど経って、病院をたたもうかと、本気で考えていた時期だったこと。


「この子のおかげで、また頑張ろうって、思えたんだ」


 リンは院長の足元で、穏やかに息をしていた。院長の手が下りてきて、リンの顎の下をゆっくりと撫でる。リンは気持ちよさそうに目を細めた。


「……なんだかちょっと、目が陽子さんに似てるんだよね」


 独り言のような声だった。


 ——陽子さん。奥さんの名前だろう、となんとなくわかった。


 院長は私のほうを見ずに、リンの顎の下を撫でながら、思い出すように言った。


「あの人、海が好きでね。江ノ島で貝殻拾いに夢中になってさ。私が必死で探し回ってやっと見つけたとき、こんな風に目を細めて、困ったみたいに笑ってたんだよ」


 院長は、照れたように笑った。温かい思い出で、少しだけ残った寂しさを上書きしているようだった。


 玄関のドアが開いて、パートさんが出勤してくる。院長は「今日もよろしく」と一声かけると、立ち上がって、診察室に入っていった。リンは私に連れられて、バックヤードの定位置のペットベッドに戻された。


 診察の合間、患者が途切れて受付が静かになった時間に、私は棚の書類を取りにバックヤードへ入った。誰もいない奥のエリアで、リンはいつものように毛布の上にいて、半分眠ったような目をしていた。


 私はその前に、なんとなくしゃがみ込んだ。


 院長の話を、頭のなかでもう一度なぞる。雨の日の裏口。陽子さん。江ノ島。貝殻拾い。


「仲良かったんだね、院長と奥さん」


 自然にそう、口から出た。院長に聞かれても照れて笑って済むような軽さで。


 リンが、目を開けた。


 しばらく、じっと、私を見ていた。


 そして——小さな、ささやくような声で。


「……うん」


 空調のファンの音が、急に、やけに大きく聞こえた。


 私は、しゃがんだまま、動けなくなった。


 たったいま、一音だけ、返事があった。肯定なのか、共感なのか、ただの相槌なのか。——声の色からは、どれかなのかもわからなかった。


「……今、喋った?」


「喋ったよ」


「なんで、今まで、喋らなかったの」


「喋る必要、なかったから」


 リンは、ふっ、と息を吐いた。


 ——なんだろう、この感じ。


 いつもなら軽口を叩いているはずの私が、リンの前ではうまく喋れない。毛布の縁を、指先でなんとなく撫でる。


「院長のこと、好きなの」


「うん、好きだよ」


「長く、一緒にいるもんね」


「そうだね。長いよ」


 ひと呼吸、空いた。


「……すごく長い」


 その「すごく」の言い方が、どこか、普通ではなかった。


 リンはそれ以上は言わずに、ゆっくり目を閉じた。毛布の上で、しっぽが、ぱたり、と一度だけ揺れた。それきり、動かなかった。


 帰り道、街灯の下の塀にマメがいた。いつものように、どこからともなく現れる。


「ねえ、マメ」


「なに」


「リンって、なんか……ほかの子とは違う?」


 マメは珍しく、すぐには茶化さなかった。二股のしっぽが、左右ばらばらに、ゆっくり揺れていた。


「あのな、あかね」


「うん」


「動物の中にはたまに、そういうのがいるんだよ」


「そういうのって?」


「前の誰かのことを、覚えてるみたいなやつ」


「……え?」


 マメは塀の上で伸びをして、それから少しだけ声を落とした。


「本物の記憶なのか、そう思い込んでるのか、俺にもわかんない。たぶん本人にも、わかってない」


「……それは、じゃあ、どう扱えばいいの」


「覚えてるって本人が言うなら、そうなんじゃね」


「雑!」


「俺は猫だから」


「猫関係ある!?」


 マメは答えず、ふわっと欠伸をした。そのまま塀の向こうへ身を翻しながら、置き土産のように一言だけ。


「……知らんけど」


 しっぽの先が、街灯の下で一度だけ揺れて、消えた。


 家に帰って、電気をつける前に、私は少しのあいだ玄関で立ち止まった。


 気になる、だけとは違う、何か。言葉がまだ見つからない、もやもやした、何か。


 その夜、私はなかなか眠れなかった。


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