エピローグ「ふたたびの春」
春の朝、空気は朝露にうっすら湿っていた。
歩道の植え込みの根本に、去年と同じ黄色い花が咲いていた。名前は知らないけど、最近のお気に入りだ。
動物病院までは、徒歩で十分。四月から、バイトではなく正社員として働いている。立派な名刺が配られたわけではないけれど、ロッカーの名札に「三村あかね」と文字が書かれているのが、なんだかうれしい。
公園の入口の銘板の上に、黒と白のハチワレが、だらんと寝そべっていた。
しっぽの先が二股に分かれているのは、光の加減でようやく見分けられる。目つきの悪さも、ゆらゆら揺れるしっぽも、一年前と寸分違わない。違っているとすれば、この猫と平然と会話を交わすようになった、私のほうだった。
「マメ」
「よう」
「珍しいね、こんなところに」
「お前が通る時間だから、ここにいるんだよ」
マメは銘板の上から、こちらに目だけを向けた。
「お前、今日な」
「うん」
「能力が切れる。ちょうど一年だ」
一年。
——もう、一年なんだ。
公園の木々は、薄い緑の葉を出し始めている。同じ場所で、同じ季節に、同じ猫に、今度は別れを告げられている。
マメは、ふんと鼻を鳴らして、銘板の上で姿勢を変えた。前足の上に顎を乗せる、いつもの怠そうな格好になる。
「お前、変わったな」
「そうかな」
「動物にも、人間にも、どう気持ちを伝えればいいか、少しはわかったんじゃないか」
「……マメ、今日なんか、優しくない?」
「気のせい」
「ですよね」
風が一度、私たちのあいだを通り抜けた。マメの白い毛のところがふわっと膨らんで、朝日の光で金色に染まった。
「じゃあな」
「マメ」
「ん」
「……ありがとう」
マメは、ちらっとこちらを見て、
「知らんけど」
そう言って、銘板からひょいと飛び降りた。振り返らず、植え込みの陰に向かって、すたすたと歩いていく。しっぽの二股が、最後にちらりと揺れて、それきりだった。
銘板の上には細い毛が一本だけ残っていた。私はしばらくそれを眺めてから、鞄を肩にかけ直して、病院のほうへ歩き出した。
裏口を開けると、暖まりかけた空気と消毒液のにおいが、いつものように混ざって出迎えてくれた。
「おはようございます」
ロッカーで白いエプロンを羽織って、受付に回る。院長室のドアがちょうど開いて、院長が出てきた。
「おはよう、あかねちゃん」
「おはようございます」
会釈を返してから、ふと、視線がバックヤードのあの場所に行った。受付奥の、ペットベッドが置いてあった一角。今はもうそこには何もない。整頓された棚と段ボール箱が、空いた床を当たり前のような顔で占めている。
顔を上げると、院長も同じ場所を見ていた。
目が合った。
院長は、少しだけ笑った。困ったような、なつかしむような笑い方だった。私もつられて、少しだけ笑った。なにも言わなくても、お互いに同じことを思っているのがわかった。
院長は、診察室のほうへ歩いていった。私はいつもの椅子に座って、パソコンを立ち上げた。
九時になって、最初の患者が扉を開けた。ミニチュアダックスフントが、けたたましく吠えている。
それは、ただの鳴き声だった。
耳の奥にじんじん響くような情報は、もう流れ込んでこない。待合室のチワワも、オウムも、ハムスターも、今朝は私の頭の中ですっかり静かにしている。
少しだけ寂しかったけれど、思ったより、不思議と落ち着いていた。
診察室から、黒澤先生の声が漏れる。「よし、いい子だ」「動くなよ」。ダックスが何を考えているかは、もうわからない。ただ、診察から戻ってきたキャリーの中で、しっぽの先が機嫌よさそうに揺れているのは、見ればわかった。それでいいと思った。
能力が切れてから、何日かが経った。病院はいつも通りに回っていた。受付にはいろんな動物がやってきて、それぞれの飼い主と順番を待っている。私はその一人と一匹ずつに「お待たせしました」と声をかけ、書類を渡し、会計を済ませる。
それでも、飼い主の表情と、耳の傾きやしっぽの揺れ方を見ていると、なんとなく察せてしまうことがある。たぶんこの一年でついた癖だ。
黒澤先生が診察室から出てきて、「今日はこれで全部だ」とカルテの束を受付に置いた。
「お疲れさまです」
「ああ」
一年前、この人は私にとって「苦手な副院長」だった。今も特別に何かが変わったわけではない。ただ挨拶をして、カルテを受け取って、業務を回す——その普通のやりとりが、前より気負わずできるようになっただけ。
退勤後裏口を出ると、すぐ横で黒澤先生がコートのボタンを留めているところだった。私が会釈をすると、先生も小さく頷きかえす。
夕方の駐車場には、もうほとんど誰もいない。フェンスの向こう、民家の塀の上に、見覚えのない野良猫が一匹いて、こちらを見てにゃあ、と短く鳴いた。
マメじゃなかった。でも少しだけ、マメを思い出した。
「なにか、言ってる気がする」
独り言のように呟いたら、先生がちらっと猫を見て、
「言いたそうだな」
「ええ、きっと」
二人で、少し笑った。
先生が、ポケットに手を入れたまま、ぽつりと言った。
「……飯でも食ってくか? そこの定食屋」
「いいですね」
先生は当たり前みたいに、駐車場の出口のほうへ足を向けて歩いていく。
私もそのあとを、半歩遅れてついていった。
——通訳はもう、できない。
でも、言葉がわからなくても、動物は伝えたいことを伝えてくる。むしろ人間の言葉よりも、ずっと正直で、ずっとストレートだ。
それをまっすぐに受け止めて、同じだけ、返そうとすること。
それが、私が彼らにできる、たったひとつのことだ。
そう、思っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これにて本作は完結です。
もし楽しんでいただけましたら、評価をいただけると嬉しいです。
次回作でも、またお会いできましたら幸いです。




