第5話 親子の諍い
いつも、最初は勝てる。
今日だってそうだった。
三連勝。
やはり、俺の方が強い。
そう確信した。
ところが――
四戦目で、ほんのわずかに読みを外した。
少し気が緩んでいたのかもしれない。
そこから流れがおかしくなった。
一つ負け。
二つ負け。
気づけば――
五連敗。
いつもそうだ。
最初は勝てる。
それなのに、
少し気を抜いたところから負け始める。
そして、取り返そうと焦るあまり、
甘い手を指して負けが増えていく。
借金はもう、
真っ当に働いて返せるような額ではなくなっていた。
だからこそ――
将棋で返すしかない。
(……大丈夫だ)
盤上を睨む。
油断さえしなければ、
この目の前の男には負けるはずはない。
俺はこの辺りで、
将棋ならそうそう負けたことはなかった。
こいつにだって、何度も勝っている。
今日も最初の三局は俺が取った。
だから――
落ち着いて指せば勝てる。
もう同じ間違いはしない。
きちんと読めば、
俺はこいつには負けないんだ。
この局面。
あと一手。
ここに銀を打てば、
相手の玉にもう逃げ道はない。
これで勝てる。
そして、次の一局も取れば――
振り出しだ。
「よし……!」
意を決して、駒台の銀をつかむ。
その時だった。
「……盤面を広く見ることだ」
どこからか声がした。
「……?」
思わず顔を上げ、太一に目を向ける。
(今の声は……太一か?)
いや、違う。
太一の声ではなかった。
よく見ると、
太一の隣に見知らぬ男が立っていた。
この男の声だったのだろうか。
その男の目は、
ただまっすぐ俺を見つめていた。
(盤面を……広く?)
俺は、もう一度盤へ目を落とす。
相手の玉。
俺は、その目の前に銀を打ち込もうとしていた。
そして、自分の王。
持ち駒の銀を使うと――
「あっ……」
その瞬間、
背筋が冷たくなった。
* * *
……父上殿は、
どうやら気づいたようだ。
自分の王が、
危機にさらされていることに。
持ち上げた銀を手にしたまま、
改めて盤全体を見渡している。
先ほどまでとは、
明らかに表情が違っていた。
(……間に合ったか)
その銀を打てば、
確かに相手の玉にもう逃げ場はない。
しかし、その瞬間――
自分の王を守る駒をさらに失う。
胴元は、
おそらくそこで詰ましに来るつもりだった。
あと一手だった。
惜しかった。
もう少しで勝てた。
そう思わせるために。
父上殿は、しばらく考えたあと、
手にしていた銀を駒台へ戻した。
そして今度は、自陣へ手を伸ばす。
王を逃がす一手。
パチン。
「…………」
胴元の眉が、わずかに動いた。
「おい」
取り巻きの一人が、
私に近づき声を上げた。
「お前、なんか今、余計なこと言いやがったな」
私は目を向ける。
「私は、独り言を言ったまでだが」
「ふざけんな!」
取り巻きが声を荒らげ、
私に詰め寄ろうとしたその時。
「……おい、対局中に騒ぐな」
胴元が盤の向こうから、
取り巻きをぎろりと睨んだ。
「で、でもよ、こいつが……」
「聞こえねえのか?
対局中だ。黙ってろ」
「…………」
取り巻きは、
不満そうに口をつぐんだ。
胴元は何事もなかったように、
再び盤へ目を戻した。
そして――
対局は続いた。
そこから数手。
「……参った」
胴元が、
低い声でそう言った。
「勝った……」
父上殿が、
呆然と盤を見つめる。
「親父!」
太一の顔が、
ぱっと明るくなった。
しかし――
「待て!」
取り巻きの一人が、
すぐさま声を上げる。
「こんな勝負、無効だ!
途中でこいつが口を出しただろうが!」
「ほほう」
私はその男に視線を向けた。
「この者は、
自分の力で勝ったように見えたがね」
「てめえが何か指図しただろうが!」
「私は、盤面を広く見るようにと呟いただけだ」
「それが駄目だって言ってんだよ!」
「なるほど」
私は辺りを見回した。
「では、一度決まった勝負を、
負けたから無効にするというのかね」
「なんだと……!」
「そんな理不尽を通していて、
これからこの場は成り立つのか?」
男が言葉に詰まる。
「てめえ……!」
取り巻きが、
こちらへ詰め寄ろうとした。
「待て」
胴元が、低い声で止めた。
「……こいつの言う通りだ」
「だ、だけどよ」
「負けは負けだ」
そう言ってから、
胴元は私へ視線を向けた。
「お前……何者だ?」
「私か?」
少し考える。
「ただの通りすがりだよ」
「……ふん」
胴元は、
面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「……まあ、いい。
ただ、もう余計なこと言われたら、
たまらねえからな」
そして、取り巻きへ顎をしゃくる。
「おい。
こいつらをつまみ出せ」
「お、おう!」
取り巻きたちが、私と太一に近寄ってくる。
「わ、分かった!」
太一が、
慌てて声を上げた。
「出ていく!
出ていくから!」
そして父親を見る。
「親父も帰るぞ!」
すると――
「そいつは駄目だ」
胴元が言った。
「……は?」
「お前の親父さんは、
あと一戦付き合う約束だからな」
「なんでだよ!」
太一が声を荒らげる。
「今勝っただろ!
もういいじゃねえか!」
「そういう話じゃねえ」
胴元は淡々と言った。
「どうしても帰りたいなら、
今日の負け分を置いていってもらわねえとな」
「…………」
父上殿が俯いた。
「親父……?」
その顔を見て、
太一の表情が変わる。
父上殿はしばらく黙っていたが、
やがて言い訳するように口を開いた。
「今日は最初は、
調子がよかったんだ」
「……え?」
「最初に三つ勝った」
父上殿は太一と目を合わせず、
盤を見つめながら続けた。
「そのあと、
ちょっと見落として負けちまってな。
そこから流れが悪くなって、
負け越しただけなんだ」
「親父……」
「だけど、今の一局は勝った」
父上は、小さく拳を握った。
「次も勝てば――」
「親父!」
太一が、
たまらず叫んだ。
「いつもそうじゃねえか!」
「…………」
「次は勝てる。
次に勝てば取り戻せるって――
いつもそう言って、借金が増えてくだろ!」
父上殿は俯いたまま、
何も言わなかった。
しばし、
その場に沈黙が落ちる。
そして――
取り巻きたちは、
親子のやり取りを見ながら、
面白そうに笑っていた。
胴元もまた、
その様子を眺めながら、
わずかに口元を緩めている。
親子が言い争っているというのに。
止めるでもなく、
気遣うでもなく。
ただ、
人が追い詰められていく様を楽しんでいる。
(……なんとも悪趣味な連中だ)
私は、
静かに口を開いた。
「太一の父上殿」
「……?」
父上殿の視線が、
こちらへ向く。
「あなたは――
この男に、弄ばれている」
胴元の眉間が、
わずかに歪んだ。
「最初に勝たせる。
自分の方が強いと思わせる」
私は盤上の駒へ視線を落とした。
「そして、
あと少しで勝てるところまで誘導し――
最後に仕留める」
「てめえ……」
胴元の険しい視線など意に介さず、私は続けた。
「負けた者はこう思う。
今のは惜しかった。
次なら勝てる。
本当なら、自分の方が強いはずだ――とな」
「お前、
また余計なことを――!」
取り巻きが私の肩を強い力で掴んだ。
「さっさと出ていけ!」
「おっと」
私は、引こうとする取り巻きの手の手首に軽く触れた。
そして、ほんの少し、身体を捻る。
「あれ?」
次の瞬間には、
男の手は私の肩から外れていた。
「な……?」
私は何事もなかったように、
父上殿へ向き直った。
「父上殿――」
「……?」
「私は宗一郎と申す。
あなたは名をなんというのかね」
父上は、
突然何を聞くのかという顔をした。
「……源蔵だ」
「源蔵殿か」
私は一つ頷いた。
「では、源蔵殿」
「なんだ?」
「借金は、
今どれほどあるのだ?」
その場の空気が、
わずかに重くなった。
源蔵殿は答えなかった。
太一も、黙って父親を見る。
やがて――
源蔵殿が、
絞り出すように口を開いた。
「……十両だ」
「十両……」
思わず、
その額を頭の中でもう一度なぞる。
この時代なら、
質素に暮らすには、
ひと月で一両もあれば十分すぎるだろう。
そして、
太一たちの暮らしぶりを思えば――
十両。
決して、
軽い額ではない。
私は再び、源蔵殿を見る。
「その最後の一局――」
私は、盤の前を指した。
「私が引き受けよう」
「……は?」
一瞬。
屋敷の中が、静まり返った。
そして――
周囲の視線が、
一斉に私へ集まった。




