第6話 飯の礼
こいつは、何を言っているんだ――
この場にいる全員が、
そんな顔で私を見ていた。
ただ一人。
胴元だけは顔色一つ変えず、
こちらを見据えて言った。
「……アンタがこの源蔵の代わりに、
指すっていうのか?」
「ああ」
私は胴元の目をまっすぐ見つめた。
「それとお願いがあるんだが」
胴元が上目遣いに、
ぎろりとこちらを睨んだ。
「私が勝ったら、
源蔵殿の借金は、
すべて帳消しにしてくれんかね」
「はあ?」
胴元が、
呆れたように眉をひそめた。
周囲の取り巻きたちも、
今にも「何を言ってやがる」と、
掴みかかってきそうな顔をしている。
胴元が静かに口を開いた。
「……アンタ、頭でもおかしいのか?
そんなもん、
俺が受ける道理がねえだろ」
「ただとは言わん」
私は、
胴元を見た。
「私が負けたら、
その借金の倍の額、二十両を払おう」
その言葉を発した途端に、
屋敷の中がざわついた。
「そ、宗一郎さん!」
太一殿が、
思わず声を上げる。
「何言ってんだ!」
「なあに、心配するでない」
「心配するに決まってるだろ!」
太一殿は、
私の袖をつかんだ。
「アンタがどれほどの腕か知らんが、
こいつは強いんだ!
アンタまで借金まみれになっちまうぞ!」
「大丈夫だ、太一」
太一へ顔を向けた。
「お前たちがこれ以上苦しむのを、
見てはおれん」
太一は信じられないといった顔で、
私を見つめている。
「でも……
なんで、出会ったばかりの俺たちのために……」
太一は私の袖を掴んだまま下を向いた。
私は、わずかに笑った。
「飯の礼だ」
「……え?」
「美味かったからな」
太一は、
私の袖から手を離した。
「…………」
何も言わず、
ただ私を見つめていた。
その向こうで、
胴元が鼻を鳴らす。
「ずいぶん、
威勢のいいこと言うじゃねえか」
そして、
私の姿を上から下まで眺めた。
「だがよ。
あんた、金なんざ持ってねえだろ」
「残念ながら、その通りだ」
「だったら話にならねえ」
「では、私が金を返すまで、
私を好きに使えばいい」
「……何?」
「荷運びでも、
掃除でも何でも構わん」
私は静かに続けた。
「それとは別に金は返す。
それで問題あるまい」
胴元は、
しばらく私の顔を見つめていた。
やがて、
鼻を鳴らす。
「信用できるかよ。
どこの誰かも分からねえ奴を」
「なるほど」
(……やはり、一筋縄ではいかないか)
私は盤の前へ歩み寄り、
先ほどまで使われていた駒を、
初期の配置に並べ直した。
そして――
飛車と角を手に取り、
盤の外へ置く。
「では、私が二枚落とそう」
「……はあ?」
胴元の眉が、
ぴくりと動いた。
「これなら、
流石に受けてくれるだろう?」
「てめえ……」
先ほどまで、
老人の軽口とでも思っていたのだろう。
胴元の目つきが変わった。
「俺を舐めてんのか?」
「いや。
こうでもしないと、
受けてくれそうにないのでな」
「ふざけんな!
兄貴に二枚落ちで勝とうだって!?」
取り巻きの一人が怒鳴った。
「兄貴!
やってやりましょう!
身の程を分からせて、
こいつをこき使ってやりゃいい!」
だが――
胴元は答えなかった。
「…………」
盤上を見つめたまま、
ゆっくりと息を吐く。
その様子を見て、
私はわずかに目を細めた。
(……ほう)
飛車と角を落としても、
すぐには飛びつかない。
(……中々の勝負勘だな)
将棋自慢であれば、
二枚落ちならどんな奴にでも勝てる。
そう思ってもおかしくない。
しかし。
本当の強者と相対する場合、
それは当てはまらない。
そして今。
胴元は、私を警戒している。
ならば――
仕方がない。
もう一押し。
私は盤上へ手を伸ばした。
右の香車。
そして、
左の香車。
二枚を取り上げ、
飛車と角の隣へ置く。
その瞬間。
胴元の目が見開かれた。
「これなら――」
私は男を見る。
「さすがに腰抜けでも、
受けてくれるだろう?」
一瞬。
屋敷の中が、
しんと静まり返った。
飛車。
角。
そして、
二枚の香車。
盤の外に並んだ、
四枚の駒。
「…………腰抜けだと?」
胴元の顔が、
みるみる赤くなっていく。
次の瞬間――
バンッ!
男の手が、
床を強く叩いた。
「お前がどれだけ、
自信があるのか知らねえが――」
盤の外に置かれた四枚の駒を睨みつける。
「頭がおかしいのか?
四枚もいらねえだと!?
それで俺に勝てると思ってんのか!」
私は、
何も言わずに男を見返した。
「……いいだろう」
胴元が、
荒々しく盤の前へ座り直す。
「その勝負、受けてやる」
そして、私を睨みつけた。
「俺はな――」
低い声だった。
「将棋を馬鹿にするヤツは、
許さねえ」
「……ほう」
その言葉だけは、
少し意外だった。
賭け事の道具として将棋を使う男が、
将棋を馬鹿にするなと言う。
(この男――)
私は、ほんの少しだけ興味を持った。
「ならば――」
盤上へ視線を落とした。
「盤の上で、
確かめればよかろう」
飛車。
角。
そして、
左右の香車。
盤の外に置かれた四枚の駒。
――四枚落ち。
勝負の条件は、整った。
* * *
盤上に駒が並べられた。
宗一郎の自陣には、
飛車、角、そして二枚の香車がない。
「太一、あれじゃあ無理だ……」
父は信じられないように、
宗一郎の陣を見つめた。
「いくらなんでも、
あれじゃ勝負にならねえ……」
その言葉を聞いた瞬間、
俺の背筋に冷たいものが走った。
やっぱり――
こんな勝負、
やめさせるべきなんじゃないか。
宗一郎は、
俺たちを助けようとしてくれている。
それは分かる。
だが、
そのために宗一郎まで借金を背負うことになったら、
何の意味もない。
二十両。
そんな大金、
どうやって返すというのか。
宗一郎は、
金を持っていないと言った。
本当に負ければ、
あの男たちに何をされるか分からない。
(止めないと……!)
俺は、
宗一郎のもとへ近づこうとした。
「宗一郎さん――」
声をかけようとして、
足が止まった。
宗一郎は、
目を閉じていた。
ただ静かに、
盤の前に座っている。
それだけだった。
なのに――
声をかけられなかった。
先ほどまで、
穏やかに話していた男とは、
まるで別人のようだった。
一言も発さず。
身じろぎもせずに。
その場の空気すべてを、
支配しているように見えた。
(……何だよ、これ)
思わず息を呑んだ。
(あんた……一体、何者なんだ?)
俺はそれ以上、
一歩も動くことができなかった。




