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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: 一進(にのまえすすむ)
別章 宗一郎・江戸編
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第4話 賭け将棋という沼

私は、太一を追って必死に走った。


しかし、

いくら身体が軽くなったとはいえ、

若者の走る速さに追いつけるはずもない。


太一が道の角を曲がり、

私も遅れてその角を曲がったときには、

その背中はもう見えなくなっていた。


「太一……」


思わず、その名を呼ぶ。


返事はない。


私はその場に立ち尽くし、

左右へ続く道を見渡した。


当然ながら、

この辺りの地理などまるで分からない。


ましてや、

賭け将棋がどこで行われているのかなど、

知るはずもなかった。


「……困ったな」


とはいえ、

立ち止まっていても仕方がない。


私はひとまず、

そのまま道を進むことにした――


そのときだった。


「頼む、入れてくれ!

 親父が中にいるんだろ!」


聞き覚えのある声が、

少し先から響いてきた。


「太一……!」


どうやら、

太一の向かった賭け将棋の場は、

そう遠くないところにあったらしい。


声のする方へ急ぐと、

通りから少し外れたところに、

古びた屋敷が見えた。


塀はところどころ崩れ、

庭には雑草が伸び放題になっている。


人が暮らしているというより、

長く放っておかれた空き家のようにも見えた。


その門前で、

太一が一人の男ともみ合っている。


「親父がいるんだろ!

 中に入れてくれ!」


「駄目だ」


男は、太一の肩を押し返した。


「今は対局中だ。

 終わるまで待ってろ」


「そんなこと言ってたら、

 また金を取られるだろ!」


「知るか。

 始まった勝負に水を差すんじゃねえ」


「離せ!」


太一が男の脇を抜け、

中へ入ろうとする。


だが、

すぐに腕をつかまれ、

力ずくで引き戻された。


「入れねえって言ってんだろ!」


「放せ!」


私は二人のもとへ歩み寄った。


「ちょっと、ごめんよ」


「……あ?」


男がこちらを向く。


その隙に、

太一をつかんでいた腕を取り、

軽く身体を捻った。


「うおっ!?」


男の身体がぐらりと崩れる。


そのまま勢いを逃がすように手を離すと、

男は二、三歩よろめき、

地面に尻餅をついた。


「な、何しやがる!」


「すまない。

 怪我はないはずだ」


若い頃から続けてきた合気道が、

まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。


「太一、行こう」


「お、おう!」


太一は少し驚いたようだったが、

すぐに私の後をついてきた。


「待ちやがれ!」


背後から怒鳴り声が飛んできたが、

構っている暇はない。


私たちはそのまま、

屋敷の中へ駆け込んだ。


薄暗い廊下を抜けると、

奥から男たちの声が聞こえてくる。


襖を開けた。


部屋の中央では、

二人の男が将棋盤を挟んで向かい合っていた。


その周りには、

五人ほどの柄の悪い男たちが座っている。

どう見ても、

ただ対局を見物しているという雰囲気ではない。


そして、対局者も周りの男たちも、

突然入ってきた私たちへ、一斉に視線を向けた。


「親父!」


太一が叫ぶ。


その声に、

盤の前に座っていた男の一人が顔を上げた。


(……この者が、太一の父か)


年の頃は、

私よりも少し若く見える。


頬はややこけ、

着物にもくたびれた様子があった。


そして何より、

その目は赤く血走っていた。


太一と目が合う。


しかし――


もう将棋はしないと約束していたことを、

弁明するでもない。


謝るでもない。


ほんの一瞬、

気まずそうに視線を揺らしただけで、

すぐに盤上へ目を戻した。


その目はもう、

盤から離れようとはしなかった。


「太一。

 お前、また入ってきやがったのか」


父上殿の向かいに座っていた男が、

少し苛立った声を上げた。


私は、その男へ目を向ける。


鋭い眼光。


年は四十代後半といったところだろうか。


身なりは、

この場にいる者たちの中では比較的整っている。


こやつが、

この賭け将棋を仕切っている男。


そして自ら盤に座り、

父上殿を相手にしている――


私は、そう直感した。


「親父、もうやめろ!

 帰ろう!」


太一が駆け寄ろうとする。


「太一。

 お前も懲りねえなあ」


取り巻きの一人が、

笑いながら口を挟んだ。


「何度も言ってるだろうが。

 対局を途中でやめるなら、

 親父の負けになるぜ」


「……くっ」


どうやら、

太一がこうして止めに来るのは、

初めてではないらしい。


太一は、

悔しそうに歯を食いしばった。


私は、その肩にそっと手を置いた。


「太一。

 ……この一局だけ、

 父上殿を信じて見守ろう」


「…………」


太一は納得できない様子だったが、

やがて小さく頷いた。


私は、盤面へ目を向ける。


おそらく、

父上殿の王手に対して、

胴元の玉が逃げたところ。


つまり今は、

父上殿の手番だ。


持ち駒には、

飛車と銀が二枚。


さらに桂馬もある。


明らかに、

父上殿が優勢だった。


ただ、

相手玉に詰みはない。


一方で、

父上殿の王には詰み筋が生じている。


ここは一度、

受けに回る必要がある。


自陣をしっかり守ってから攻めれば、

順当に勝ちを引き寄せられる局面だろう。


もっとも――


局面を見る限り、

どちらもそれほど強い指し手ではない。


よくある縁台将棋と、

そう大きく変わらない棋力だ。


この対局で、

どれほどの金が動いているのかは分からない。


ただ、もしも、この程度の手合いで、

人の暮らしを傾けるほどの金が、

動いているのだとしたら――


(……あまりにも馬鹿げた話だ)


そう思いながら、

父上殿へ目を向けたとき、

私は、あることに気がついた。


父上殿の視線が、

敵陣にばかり向けられている。


(まさか……)


ここで、

攻めの手を指すつもりか。


それはいけない。


ここは一度、

自分の王を守らなければならない。


そして――


父上殿は、

持ち駒の飛車をつかんだ。


そのまま、

敵陣深くへ勢いよく打ちつける。


パチンッ!


「……っ!」


思わず、

声が漏れそうになった。


目を覆いたくなるような一手だった。


勝ちたいという気持ちが、

強すぎたのだろう。


相手玉を仕留めたい。

その焦る気持ちは分かる。


でも、今見るべきなのは相手の玉ではなかった。


(これは……やられたな)


父上殿の飛車打ちは、

王手になっていない。


すなわち――


今、逆に王手をかけられれば、

父上殿の玉は、そのまま詰んでしまう。


胴元の男が、

ゆっくりと盤面へと手を伸ばした。


(……終わったか)


そう思った。


だが――


(……なんだと?)


男が指したのは、

父上殿の王を攻める手ではなかった。


自分の玉を、

一つすっと逃がしたのだ。


(……父上殿の王の詰み筋に、

 気づいていないのか?)


私は思わず、男へ視線を向けた。


苦しそうな顔で、盤を睨んでいる。


一見すれば、

追い詰められているようにも見える。


だが――


そのとき。


男の口元に、

ほんのわずかな笑みが浮かんだ。


私は、それを見逃さなかった。


(なるほど……)


この男は、気づいている。


父上殿の王に、

詰みがあることを。


それどころか――


父上殿が、

自分の王を見ていないことまで分かっている。


だから、あえて仕留めない。

まだ泳がせる。


勝てる。

あと少しだ。


父上殿に、そう思わせるために。


そして――


本当に危なくなったところで、

最後に打ち取る。


ぎりぎりまで競り合った末に、

辛くも負けた――


そう思わせるつもりなのだ。


(まずいな……)


父上殿は、

すでに深い沼に引きずり込まれている。


自分では、

まだ浅瀬にいるつもりのまま。


私は、そう確信した。

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