第2話 嘉永四年
(……ここは、どこだ?)
目を覚ました私は、
しばらくその場から動けなかった。
目の前には、
見渡す限り荒野が広がっていた。
まばらに草木が生え、
舗装もされていない一本の道が、
遥か遠くまで伸びている。
先ほどまでいた自分の町とは、
似ても似つかぬ光景。
「…………どういうことだ」
地面に触れてみる。
乾いた土の感触が、
確かに手のひらに伝わってくる。
どうやら夢ではないらしい。
あの将棋盤。
あの傷。
そして、突然あふれ出した光。
私は、あの光に包まれて、
どこかへ連れてこられた。
まったく信じられない話ではあるが、
現にこうしてここにいる以上、
そう考えるほかなかった。
ただ一つ、奇妙なことがあった。
「……体が」
軽い。
病院を退院したばかりだというのに、
あれほど私を苦しめていた倦怠感がない。
息苦しさもない。
むしろ、
体の奥から気力が湧いてくるようだった。
「いったい、何が……」
自分の身に何が起こったのか。
ここがどこなのか。
見当もつかなかった。
だが、
ここで立ち尽くしていても仕方がない。
まずは人を探さなければ。
私は遠くまで続く道を見つめ、
その道を歩き始めた。
* * *
(……これは、まずいな)
いったい、どれほど歩いただろうか。
体の調子は、不思議なほどいい。
歩いても歩いても、
以前のような息苦しさはなかった。
しかし――
「……腹が減った」
こればかりは、どうにもならない。
人どころか、
家の一軒すら見つからない。
私はついに歩くことを諦め、
道端に座り込み、
やがて大の字になって空を見上げた。
太陽は雲に隠れていたが、気温は高い。
それでも、頬を撫でる風は心地よかった。
(……いい陽気だ)
ほんの少しだけ休むつもりだった。
だが――
いつの間にか、私は目を閉じていた。
* * *
「……おい、あんた。
こんなところで何をしているんだ?」
「……ん?」
どこかから、声が聞こえ、
私はゆっくりと目を開けた。
誰かが私を見下ろしながら立っている。
慌てて体を起こすと、
そこには、一人の青年が立っていた。
傍らには、
土を被ったままの野菜を積んだ荷車がある。
「…………!」
人だ。
ここへ来てから、
初めて出会った人間だった。
私は、安堵の息を漏らした。
「大丈夫か?」
「ああ……すまぬ」
私は立ち上がり、
服についた土を払った。
「道に迷ってな。
気がつけば、ここにいたのだ」
自分でも、
なんとも妙な説明だと思う。
かといって、
ほかにどう説明すればよいのか分からない。
……まあ、嘘はついていない。
青年は不思議そうに私を見た。
「そうなのか。どこから来たのかは分かるかい?」
「…………」
私は少し考えた。
「……それも分からぬ」
「なんだ? 記憶が曖昧なのかい?」
「……うーむ」
なんと答えたものか。
記憶はある。
むしろ、はっきりしている。
ただ、それを説明したところで、
この青年が信じるとは到底思えなかった。
青年はそんな私をしばらく眺めていたが、
やがて頭をかいた。
「まあ、いいか」
「……いいのか?」
「こんなところで倒れてる人を、
放っておくわけにもいかないだろ」
そう言うと、
青年は荷車から何かを取り出し、
私に差し出した。
「ほら、水でも飲みなよ」
「……かたじけない」
(これは……竹筒か?)
思わず、手の中のそれを見つめた。
今どき、水筒代わりに
こんな竹筒を持ち歩く者など、
そうはいないだろう。
改めて青年の身なりを見る。
袖の短い、質素な着物を身につけている。
私が着ている甚平と、
さほど変わらないようにも見える。
しかし、現代の若者の格好としては、
明らかに珍しい。
(……何か妙だな)
胸の奥に、小さな違和感が残った。
それでも、受け取った竹筒に口をつける。
乾ききった喉に、冷たい水が染み渡った。
その心地よさに、
先ほどまでの疑念も一瞬どこかへ消えていく。
「……生き返るようだ」
「ははっ。そりゃよかった」
青年は笑いながら、
私から竹筒を受け取った。
「とりあえず、うちに来なよ。
腹も空いてるんだろ?」
「…………」
なんともありがたい話だった。
「何から何まで、すまぬ」
「気にするなって」
そう言って、
青年は荷車を引き始めた。
私もその後ろをついて歩こうとした。
そのとき――
「そうだ。あんた、これはどうするんだ?」
「……ん?」
青年が指さした先を見る。
そこにあったものを見て、
私は思わず足を止めた。
(…………なぜ、これが)
将棋盤だった。
あのとき、私が触れていた将棋盤。
師匠から譲り受け、
長い年月、私とともにあった盤が、
なぜかそこに置かれていた。
どうやら、
ここへ来たのは私だけではなかったらしい。
あの光を放った将棋盤もまた、
こうしてここにある。
だが――
「……なぜだ?」
目を覚ました場所から、
ここまでは随分と歩いたはずだ。
当然、この盤を持ってきた覚えなどない。
それなのに――
なぜ、ここにある?
私は将棋盤を見つめた。
あの角の傷。
見間違うはずもない。
間違いなく、私の将棋盤だった。
「……どういうことだ」
あの光といい、
この将棋盤といい。
分からないことばかりだった。
「大事なものなのか?」
「……ああ。
私にとっては、何物にも代えがたいものだ」
「そうか。だったら荷車に載せよう。
持って歩くには重いだろ」
「よいのか?」
「これくらい、どうってことないさ」
青年は荷車に積んでいた野菜を少し寄せると、
将棋盤に手をかけた。
そして、
持ち上げようとしたところで――
ふと、その手を止めた。
「……これ、将棋盤か?」
「ああ」
「…………そうか」
ほんの一瞬だった。
青年の表情が、
わずかに曇ったように見えた。
「……?」
しかし、
私が何かを尋ねるより先に、
青年は将棋盤を持ち上げ、
荷車へと載せた。
「あんたも変な人だな」
「……む?」
「こんなところに将棋盤を持って倒れてるなんてさ」
「…………」
確かに、
傍から見れば妙な男だろう。
「……私にも、よく分からぬのだ」
「ああ、そうだったな。
記憶が曖昧なんだったか」
青年はそう言うと、
再び荷車を引き始めた。
「まあ、元気になれば、
そのうち思い出せるさ」
「……そうだとよいのだがな」
私は苦笑いするしかなかった。
記憶は曖昧どころか、
はっきりしている。
ただ――
本当のことを話したところで、
信じてもらえるはずもない。
私は青年の後ろを歩きながら、
荷車に載せられた将棋盤を見つめた。
あの盤が光を放った直後、
私はここへ来た。
そして盤もまた、
こうしてここにある。
なぜ、このようなことが――
考えても、
答えが出るはずはなかった。
* * *
青年は、太一と名乗った。
太一は私を、
自分の家へと連れてきてくれた。
ここへ来るまでの間、
私が疲れていると思ったのか、
それとも事情を聞いてはいけないと思ってくれたのか。
互いに名を告げたあとは、
ほとんど言葉を交わすことなく、
ただひたすらに道を歩いた。
その道中で――
私は一つのことに気づき始めていた。
いや。
正確には、
認めざるを得なくなっていた。
ここは、
私がいた時代とは、
明らかに何かが違う。
道はどこまで行っても、
舗装されていない。
途中ですれ違った者たちの服装も、
明らかに現代のものではなかった。
家々の造りもそうだ。
そして何より――
太一の家に入って、
それは確信に近づいた。
見慣れた家電など、一つもない。
テレビも、冷蔵庫も。
電灯すら見当たらなかった。
代わりに部屋の中央には、
囲炉裏が切られていた。
(まさか……)
にわかには信じられない。
とはいえ――
今日、
私の身に起きたことそのものが、
すでに常識では説明できないのだ。
「そこに座っていてくれ」
「ああ。すまない」
私は囲炉裏の前に腰を下ろした。
「盤はここに置いとくよ」
太一は荷車から将棋盤を下ろし、
部屋の隅へ置いた。
太一は奥へ引っ込むと、
しばらくして食事を持ってきてくれた。
麦の混じった飯と味噌汁。
それに、南瓜の煮物。
決して豪華な食事ではない。
飯も少し冷えていた。
それでも――
「……うまい」
空腹だった私には、
何よりのご馳走だった。
夢中になって箸を進める。
そして、
すっかり平らげたところで、
私は箸を置いた。
「……太一殿」
「なんだい、宗一郎さん?」
そう返した太一は、
ふと困ったように笑った。
「その『殿』ってのはやめてくれよ。
太一でいい」
「そうか?」
「ああ。なんだか、むず痒くてな」
「分かった。では、太一」
「うん。それでいい。
それで、なんだい?」
私は少し迷ったあと、
意を決して尋ねた。
「……今年は、何年だったかな」
太一が目を丸くした。
「やっぱり、記憶が曖昧なのかい?」
「……まあ、そんなところだ」
太一は少し心配そうに私を見ると、
当たり前のように言った。
「今年は嘉永四年だよ」
「…………」
私は言葉を失った。
嘉永四年。
聞き覚えがある。
もちろん、ある。
「……嘉永四年」
もう一度呟く。
もしやとは思っていたが、
実際にその年号を耳にすると、
すぐには言葉が出てこなかった。
それは、西暦にして確か――
一八五一年。
私が今いるこの時代は、
紛れもなく江戸の世であった。




