↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: 一進(にのまえすすむ)
別章 宗一郎・江戸編
PR
66/71

第1話 消えた棋聖

(……私も、先はそう長くあるまい)


窓の外から聞こえる蝉の声に耳を傾けながら、

私は、そんなことを思っていた。


自分の身体のことは、自分が一番よく分かるという。


若い頃には、

この言葉の意味を深く考えたこともなかったが、

今になってみれば、先人はよく言ったものだと思う。


医者は言った。

今のところ、容態は安定していると。


しかし――

そういう問題ではない。


分かるのだ。


身体の内側に巣食ったものが、

少しずつ、確実に私の命を削っている。



二週間前。


私、神矢宗一郎は、棋聖戦五番勝負の最中にいた。


棋聖として挑戦者を迎え、二勝二敗。

勝負は、最終局までもつれ込んでいた。


その第五局を翌日に控えた夜――

私は倒れた。


そのまま病院へ運ばれ、棋聖戦は延期となった。


二週間の入院を経て、

今日、ようやく自宅へ戻ってきた。


延期された最終局は、今日から十日後。


これが――

私にとって、最後の勝負になるかもしれない。


そんな気がしてならなかった。


だからこそ、負けたくはない。


いや。

勝ち負けだけではない。


最後まで棋士として、

堂々と盤の前に座りたい。


ただ、それだけだった。


だが。


以前のようには、身体がついてこない。

食欲も落ちた。


そして――


頭が、以前のように働かない。


盤面を思い浮かべようとしても、

どこか霞がかかったように、ぼやけてしまう。


二勝二敗。


あと一局。


勝てば、防衛。

負ければ、失冠。


棋聖として最後になるかもしれぬ一局で、

満足のゆく将棋を指せぬかもしれない。


命が費えるより――


そのことが、恐ろしかった。


「…………」


私はしばらく窓の外を眺めていたが、

やがて、ゆっくりと腰を上げた。


そして、押し入れの前に座り込む。


襖を開ける。


奥には、

いつもの将棋盤が収まっていた。


私は両手をかけ、

ゆっくりとそれを引き出す。


ずしり、と。

懐かしい重みが腕にかかった。


畳の上に置いてから、

掛けてあった布を取り払う。


我が師より受け継ぎ、

もう何十年と使ってきた、

脚付きの将棋盤だ。


若い頃から、

いったい何度、この盤に向かったことだろう。


嬉しいときも。

悔しいときも。

道に迷ったときも。


私はこの盤の前に座り、

駒を並べてきた。


盤面には、

長い歳月を物語るように、

無数の細かな傷が刻まれている。


その中でも――


右の角にある傷だけは、

ひときわ大きかった。


私は、その傷を指先でそっとなぞった。


(蓮……)


愛しい孫の顔が浮かぶ。


蓮が、まだほんの幼かった頃につけた傷だ。


あの子は昔から、

ひどい負けず嫌いだった。


私との将棋に負けるたび、

頬を膨らませて悔しがった。


そして、あの日も――


負けたことが、

よほど悔しかったのだろう。


癇癪を起こし、

その拍子に盤をひっくり返して、

角を傷つけてしまった。


無論、そのときは叱った。


だが――


今となっては、

この傷すら愛おしい。


あれほど将棋を好いていた蓮も、

今は、将棋を心から追い出してしまった。


それでも、この傷だけは残っている。


あの子が将棋に夢中だった頃の――

小さな名残として。


「……懐かしいものだ」


思わず、口元が緩んだ。


あの頃の蓮は、

本当に楽しそうに将棋を指していた。


――あの子には、才があった。


いや。


才、などという言葉では、

いささか足りぬほどのものがあった。


このまま将棋を続ければ、

いったい、どれほどの棋士になるのだろう。


そんなことを、

幾度考えたか知れない。


「…………」


傷をなぞっていた指が止まる。


今さら考えたところで、

詮なきことだ。


蓮には、蓮の人生がある。


分かっている。


そんなことは、とうに分かっているのだ。


それでも。


「……もう一度、お前と指したかったな」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


そのときだった。


「……む?」


私は目を細めた。


今、何か光らなかったか。


視線を落とす。


盤の右角。


蓮がつけた、あの傷。


「…………」


疲れているのだろうか。


退院したばかりなのだ。

目が霞んだところで、何ら不思議はない。


そう思った。


その瞬間――


ふっ、と。


もう一度。


今度は、はっきりと光った。


「……何だ?」


私は顔を近づける。


傷の奥から、淡い光が漏れていた。


ぼんやりと。


まるで呼吸でもするかのように、

ゆっくりと明滅している。


「何だ……これは」


こんなものは、

これまで一度たりとも見たことがない。


私は知らず知らずのうちに、

その傷へ指を伸ばしていた。


指先が触れる。


その刹那。


光が弾けた。


「――!?」


淡かったはずの光は、

瞬く間に大きくなっていく。


盤面を覆い。


畳を照らし。


やがて部屋いっぱいを、

白く染め上げていく。


「これは……!」


立ち上がろうとした。


しかし、身体が思うように動かぬ。


光はなおも強さを増し――


ついには、私の身体を丸ごと包み込んだ。


視界が、真白に染まる。


音が消えた。


自分が座っているのか。


立っているのか。


それさえ、分からなくなってゆく。


そして――


そこで、私の意識は途切れた。



* * *



「……大丈夫かしら」


千景は、二階へ続く階段を見上げた。


宗一郎が退院してから、

まだ数時間しか経っていない。


医師からは、

容態そのものは安定していると聞いた。


でも――


癌がかなり進んでいることも、

千景は知っている。


家へ帰れば、

少しは気持ちも休まるだろう。


そう思っていたのだが、

宗一郎は帰宅するなり自分の部屋へ入り、

それきり姿を見せていなかった。


一人で考えたいこともあるのだろう。


長年連れ添ってきた千景には、

宗一郎の気持ちが何となく分かっていた。


だから、あえて声をかけずにいた。


「…………」


いくら何でも、静かすぎる。


物音ひとつしない。


(まさか……)


嫌な考えが、胸をよぎった。


退院したとはいえ、

病が癒えたわけではない。


もし――また部屋で倒れていたら。


「あなた?」


千景は声をかけた。


返事はない。


「……あなた?」


もう一度呼ぶ。


やはり、返事はなかった。


胸騒ぎがした。


千景は足早に階段を上がる。


宗一郎の部屋の前まで来ると、


「あなた、入りますよ」


返事を待たず、襖に手をかけた。


すっと開く。


「…………え?」


千景は、その場に立ち尽くした。


誰もいない。


「……あなた?」


返事はない。


ただ――


部屋の奥。


押し入れの襖だけが、

開いたままになっていた。


「…………」


千景は、しばらくその場から動けなかった。


ほんの少し前まで、

確かに、ここにいたはずなのに。


宗一郎の姿は――


忽然と、消えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。